第6章 鑑定不能
大聖堂の地下深くに、そこまで巨大で厳重な保管庫が眠っているとは思いもしなかった。
地下三階、厚さ三十センチを超える重厚な三重の鋼鉄扉と、幾重にも張り巡らされた封印結界をくぐり抜けた先にあったのは、冷厳な冷気と静寂に包まれた『大聖具収蔵庫』だった。
天井を支える十数本の巨大な石柱には、淡い青緑色の燐光を放つ高密度の魔晶石が等間隔で埋め込まれ、薄暗い広間を深海のように青白く照らし出している。通路の両脇には、防護ガラスと銀の格子で厳重に保護された黒檀の陳列台が延々と連なり、そこには神代から受け継がれた武具、宝飾品、魔導書、儀礼具が整然と並べられていた。
「ここは、歴代の勇者様方が佩刀された聖剣や、天穹の主が地上へ遣わした聖なる遺物を保管する、我が教会門外不出の聖域にございます」
大司教エルネストが、厳かに胸を張りながら先頭を歩く。
彼の背後には、真鍮の大きな鍵束を手にした二名の宝物庫管理神官と、白銀の法衣姿のリナが静かに付き従っていた。
「レン様、いかがですか? 何か、魂が引き寄せられるような気配を感じる聖具はございますか?」
リナが隣で控えめに小声で尋ねてくる。
「いや……どれも凄そうなオーラを放ってるけど、正直、国立博物館の特別展か高級骨董品店に迷い込んだ気分だよ」
「こ、骨董品……! め、滅相もございません、どれも一振りで軍勢を薙ぎ払い、都市の城壁を砕いたと伝わる神話級の武具ばかりですよ……!」
リナが恐縮したように慌てて両手を振る。
中央の円形壇上に辿り着くと、大司教エルネストが恭しく一振りの剣を台座から取り上げた。
刀身の鍔元に大粒の真紅のルビーが埋め込まれ、鞘全体に精緻な金糸の幾何学装飾が施された豪奢な片手剣だ。
「まずは、こちらの『灼熱の聖剣イグニス』をお手に取られよ。かつて第二代勇者様が佩刀し、北方の魔獣の群れをことごとく焼き尽くしたと伝わる宝剣。勇者殿の鑑定の力をもって、その神聖なる波長を同期させてみてくだされ」
「わかりました」
俺は剣を受け取り、鞘からゆっくりと刀身を抜いた。
刃が空気に触れた瞬間、パチパチと小さな赤い火花が散り、心地よい温気が手のひらに伝わってくる。 右手の指先を刀身の峰にそっと滑らせ、意識を集中させた。
(鑑定――実行)
視界の右上に、淡い青色のウィンドウが明瞭に展開される。
(やっぱりな……)
俺は心の中で深く納得した。
魔導士たちは「魂の波長が剣に宿る神聖な意思と共鳴する」などと詩的に表現するが、その実態は至って無機質で論理的だ。
この剣は、特定のロール(HEROまたはARCHMAGE)を持つアカウントが触れた時だけ、熱干渉の増幅率(thermal_amplification)を引き上げる外付けのハードウェア・アクセラレータに過ぎない。ゲームで言うところの「特定職専用・炎属性ダメージ+35%」の装備品そのものだ。
「いかがでございますか、勇者殿!」
大司教が期待に満ちた目で覗き込んでくる。
「ええ、問題なく同期できました。『熱の増幅レベル4』と『効率三十五パーセント上昇』……かなり扱いやすい剣ですね」
「おおっ! 瞬時に聖剣の神聖特性を看破されるとは、さすがは勇者様!」
大司教と神官たちが感嘆の声を上げる。
その後も、防御力を高める『守護の銀腕輪』や、足元の空気抵抗を減らす『疾風の戦靴』、治癒の効率を底上げする『慈愛の聖印』など、いくつかの聖具を順調に鑑定していった。どれも仕様通りのパーミッション定義が整然と記述されており、システムとして極めて明快だった。
だが――すべての装備選定が終わろうとした時、大司教エルネストが不意に足を止め、収蔵庫の最奥――薄暗い影が落ちる重厚な祭壇へと視線を向けた。
「……勇者殿。実は、最後に一つだけ、どうしても貴殿にご覧いただきたい遺物がございましてな」
「最後の一つ?」
「左様。教会の記録上、アルセリア建国以前の最古の時代からこの収蔵庫の底に封じられており……歴代のいかなる大司教も、いかなる勇者様も、その真の『役割』を読み解くことが叶わなかった、いわくつきの聖遺物にございます」
大司教が重々しく頷くと、管理神官たちが最奥の祭壇の前に進み出た。
四重の銀の鎖で厳重に縛り付けられた黒檀の箱。神官たちが震える手で祈祷を捧げながら慎重に鍵を開け、箱の蓋を静かに押し開く。
そこに収められていたのは――剣でも鎧でもなかった。
「……これ、コンパスか?」
思わず声が漏れた。
手のひらに収まるほどの、球体型の真鍮製アーティファクト。
内部には、同心円状に幾重にも重なり合った銀のリングと、見たこともない無数の極細の針が、まるで天球儀のように三次元的に組み合わさっている。中央には、内部が完全に真空であるかのように澄み切った、親指大の多面体結晶が静かに浮かんでいた。
「教会の古文書には『星界の羅針』と記されております」
リナが緊張した面持ちで囁く。
「方角を示す道具のようにも見えますが、針は北を指すわけでもなく、常に不規則に揺れ動いているだけで……誰一人として、これが何のための道具なのか鑑定できなかったのだそうです」
「神の深奥に触れ、未来の道筋を照らす導きの器とも言われておりますが、真偽は定かではありませぬ」
大司教が恭しく箱を差し出した。
「万能の鑑定眼をお持ちの勇者殿なれば、あるいはこの太古の神秘のヴェールを剥ぎ取ることができるかもしれませぬ。どうか、お手を」
「……わかりました。触れてみます」
俺は唾を飲み込み、真鍮の球体へと右手を伸ばした。
指先が金属の冷気に触れた、その瞬間――。
ドクンッッッ!!
心臓を素手で鷲掴みにされたような、凄まじい衝撃が全身を駆け抜けた。
「ぐっ……!? あ……っ!?」
視界が激しく歪み、平衡感覚が吹き飛ぶ。
指先が触れた途端、球体内部の無数の針が一斉に狂ったような超高速で逆回転を始めた。中央の多面体結晶が、青、赤、紫、黒と、目まぐるしく色を変えながら激しく明滅し、耳の奥でキィィィンという鼓膜を引き裂くような高周波のノイズが鳴り響く。
直後、俺の網膜を埋め尽くしたのは――これまでの整然とした青いウィンドウではなかった。
ガガガガガッ……!
ハードディスクが物理的にクラッシュした時のような、耳障りな金属破壊音。
視界の全域に、血のように真っ赤に染まった巨大な警告ダイアログが、数十枚、数百枚と猛烈な速度でスタックオーバーフローを起こしながら連続ポップアップした。
『CRITICAL SYSTEM ALERT: OBSERVATION BUFFER EXHAUSTION』
『SOURCE_PLANE: GLOBAL_REALITY_LAYER』
『FETCHING HISTORY TREE METADATA... [CORRUPTED / OVERFLOW]』
『WARN: BRANCH_SATURATION_APPROACHING_CRITICAL_LIMIT』
『MAX_PARALLEL_BRANCH_CAPACITY: 1,048,576 [0x100000]』
『CURRENT_ALLOCATED_BRANCHES: 1,042,298 [99.40% CONSUMED]』
『REMAINING_BRANCH_SLOTS: 6,278』
『ERROR: CANNOT_ALLOCATE_NEW_HISTORY_TREE』
『STATE_COLLAPSE_RISK: IMMINENT / SEVERE_ENTROPY_OVERFLOW』
『SYSTEM RECOMMENDATION: EXECUTE EMERGENCY_PRUNING_IMMEDIATELY』
(な……なんだ、これ……っ!?)
呼吸が止まった。
文字が、読める。
だが、その内容の意味を脳が理解した瞬間、指先から全身の体温が急速に凍りついていくような底知れぬ悪寒に襲われた。
世界線飽和(BRANCH_SATURATION)――危険限界接近。
並行世界スロット最大許容量――約百四万。
現在の割り当て済み並行世界数――百四万二千二百九十八(九十九・四パーセント消費済み)。
残余スロット数――わずか六千二百七十八。
新規の歴史ツリー割り当て不能。
状態崩壊の危機。
緊急剪定を直ちに実行せよ――。
(ストレージが……満杯……!?)
それは、武器の性能データなどでは断じてなかった。
このエイドラという世界そのもの――並行して存在する無数の可能世界や、歴史の分岐ツリーを管理している基底システムが、保存容量の物理的限界に達し、まもなく完全にパンクしてクラッシュ寸前であることを告げる、壊滅的なエラーログだった。
サーバーのストレージ使用率が九十九パーセントを超えたらどうなるか。
新しいデータを一切書き込めなくなり、ログローテーションが破綻し、プロセスが次々と異常終了(Kernel Panic)を起こして、最終的にシステム全体が完全に死に至る。
この世界は――魔王軍の侵攻で滅びる以前に、並行世界を作りすぎたことによる容量オーバーで、システムごと即死しかけているのだ。
過去の勇者たちは、一体何をしてきたんだ?
この世界で何が起きて、これほど膨大な数の世界線が作られ、捨てられてきたというのか?
バチチチッ……!
球体の針が激しく火花を散らし、真っ赤な警告ログが砂嵐のようなノイズと共に乱雑に掻き消えた。 後に残ったのは、網膜の中央に小さく点滅する、たった一行の無機質なエラーコードだけだった。
『APPRAISAL_RESULT: [FAILED / UNKNOWN_DEVICE]』
「……っ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
俺は弾かれたように手を引っ込めた。
足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、リナが悲鳴を上げて両腕で抱きとめてくれた。
「レ、レン様!? しっかりしてください! 息が……お顔が真っ青です!」
「勇者殿……! いかがされましたか!? もしや、太古の聖具の邪気に当てられたのでは……!」
大司教エルネストが狼狽して駆け寄ってくる。
「……いえ」
俺は荒い息を吐きながら、震えが止まらない右手で額の冷汗を拭った。
「鑑定……できませんでした。『不明』って表示されて……何も、読み取れませんでした」
そう答えると、大司教エルネストは驚いたように目を丸くし、やがて深々と納得したように両手を胸の前で組んで祈りを捧げた。
「おお……やはり、そうでありましたか……」
「え……?」
「万能の鑑定眼をお持ちの勇者様ですら読み解けぬとは……これぞまさに、人の知恵を遥かに超越した、天穹の主の無限の深奥を秘めし証。我ら矮小な人間が知るには、あまりに神聖すぎる領域の遺物だったということでございますな」
大司教は感極まったように何度も頷き、満足げに神官たちに命じて黒檀の箱の蓋を閉じさせた。 リナもまた、「レン様がお怪我をされなくて本当によかったです……」と安堵の吐息を漏らしている。
彼らは、何一つ気づいていない。
神の神秘でも、測り知れない奇跡でもない。
目の前に突きつけられていたのは、ただの「容量枯渇による世界の強制終了警告」だったというのに。
重厚な鋼鉄扉が、重い音を立てて背後でガシャンと閉ざされる。 地上へと戻る冷たい螺旋階段を上りながら、俺はポケットの中で固く握りしめた拳を震わせていた。
魔王を倒せば、世界は救われるのか?
違う。
この世界が抱えている本当の破滅は、そんな生易しいものじゃない。
残余スロット、六千二百七十八。
その数字の冷酷な重みが、逃れようのない秒読みの足音のように、俺の胸の奥で重く、鋭く響き続けていた。




