第5章 見られている街
王都ルクシアの午後には、巨大な都市特有の圧倒的な熱気とざわめきが満ちていた。
魔導院での演習を終えた俺は、リナの案内で中央大通りへと繰り出していた。
道幅二十メートルを超える石畳の大通りには、四輪の辻馬車や荷車がひっきりなしに行き交い、両脇に立ち並ぶ白亜の石造り商店からは香ばしい焼き菓子や香辛料の匂いが漂ってくる。
行き交う人々の服装も多彩だ。仕立ての良いチュニックを着た商人、鉄の胸当てを付けた冒険者風の男たち、豪奢なドレスの貴婦人、そして駆け回る子供たち。
「こちらが王都の一番街、中央市場通りです」
リナが隣で誇らしげに胸を張った。
「アルセリア国内だけでなく、海を越えた西方諸国や南の島々からも珍しい品々が集まる場所なんですよ。レン様の旅に必要な日用品や、異界の方のお口に合いそうな保存食もここで揃えられます!」
「すごい活気だな……新宿や渋谷の駅前を思い出すよ」
「しんじゅく……? レン様の故郷の大都市ですね。きっと、このルクシアよりもずっと大きくて賑やかな街なのでしょうね」
「まあね。ビルっていう何十階建ての鉄とガラスの塔が何百本も生えてて、夜になっても昼間みたいに光り輝いてるような場所だけどさ。でも、この街の活気も負けてないよ。空気が澄んでて気持ちいい」
リナは嬉しそうに目を細めた。
大聖堂の中では「勇者様」として畏れ敬われてばかりだったが、こうして街の喧騒の中に紛れると、ただの二十代の若者同士として他愛のない会話ができる。それが今の俺にとって、何よりの救いだった。
だが、やはり「勇者」の存在を完全に隠し通すことはできないらしい。
俺の着ている安物の黒いリクルートスーツ――この世界には存在しない異質な衣服と、付き添うリナの聖環教会の法衣を見て、通りすがりの人々が次々と足を止め、ヒソヒソと囁き合い始めた。
『見ろ、あの黒髪の御仁……』
『今朝、大聖堂から勇者様が降臨されたという噂は本当だったのか!』
『まあ、なんて凛々しいお姿……』
「あちゃあ……やっぱり目立つか」
「申し訳ありません、レン様。大司教様からのお達しがすでに各区に回っているようでして……」
リナが申し訳なさそうに眉尻を下げる。
中央の噴水広場に差し掛かったところで、ついに人だかりができてしまった。
彫刻が施された噴水の周りに、ざっと百人以上の市民が集まり、遠巻きにこちらを熱っぽい視線で見つめている。
その中から、木製のオモチャの剣を手にした七、八歳ほどの男の子が、母親の手を振りほどいてトコトコと駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃんが異世界から来た勇者様なの!?」
「こら、トミー! 失礼でしょ!」
母親が血相を変えて追いかけてくるが、男の子は目をキラキラと輝かせながら俺のスーツの裾を引っ張った。
「ねえ、勇者様! すごい魔法使えるんだろ!? さっき魔導院のほうでドッカーンってすごい音がしたの、お兄ちゃんがやったの!? ちょっとだけでいいから、魔法見せてよ!」
「あ……こら、トミー! 勇者様にお気安く触ってはいけません!」
リナが慌てて割って入ろうとする。
だが、周囲の市民たちも、子供の無邪気な言葉に後押しされるように期待の視線を注いできた。
『見せてくださるのかしら?』
『おお、神の奇跡をこの目で拝めるのか……!』
百人、二百人という人間の視線が、針のように一斉に俺の右手に突き刺さる。
「……まあ、ほんのちょっとだけならいいよ」
俺は苦笑し、リナを制して男の子の前に屈み込んだ。
「危ないから大きな爆発は出せないけど……手のひらの上に、小さな火を灯すくらいならね」
「わーい! 勇者様、ありがとう!」
男の子が歓声を上げ、周囲の大人たちも固唾を呑んで見守る。
俺は右手のひらを上に向け、指先を軽く丸めた。
さっき魔導院で放ったような巨大な火球ではない。ライターの炎程度の、熱をほんのわずかだけ集めた小さな火種だ。さっきの感覚を思い出し、空気中の分子の確率波を軽く偏らせるイメージを浮かべる。
「『火球』――極小出力で」
小さく呟き、意識を集中させた。
――だが。
(……っ!?)
手のひらを前に出した瞬間、俺は息を呑んだ。
重い。
信じられないほど、空間が重く硬直している。
先ほど地下演習場で魔法を使った時は、空気の熱揺らぎの確率波が、まるで水面に触れた指先のように柔らかく、思い通りにスルスルと収束していった。
だが、今は違った。
手のひらの上の空気が、まるで厚さ一メートルの強化ガラスで固められたかのように、びくとも動かないのだ。分子の確率波を偏らせようと意識を向けても、見えない巨大な力で「平均的な室温の状態」へと無理やり引き戻され、固定されてしまう。
(な、なんだこれ……!? なんでこんなに動かないんだ!?)
必死に権限を行使しようと力を込める。
額に脂汗が滲み、全身の筋肉が強張る。
パチッ……。
数秒後、ようやく手のひらの上に現れたのは、線香花火の火花のような、豆粒ほどの頼りない赤い光だった。
それも、わずか一秒と維持できず――。
プシュッ……。
小さな煙を上げて、あっけなく立ち消えてしまった。
「…………え?」
男の子がぽかんと口を開けた。
広場を取り囲んでいた何百人もの市民たちからも、微かな落胆の吐息が漏れる。
「あ、あれ……? お兄ちゃん、今のおしまい……?」
「あ、はは……ごめんな。ちょっと手元が狂っちゃったみたいだ」
俺は冷や汗を拭いながら、ぎこちなく笑って誤魔化した。
「も、申し訳ありません、皆様!」
リナが慌てて声を張り上げ、市民たちに頭を下げた。
「勇者様は召喚の儀と国王陛下への謁見を終えられたばかりで、魂のお疲れが残っていらっしゃるのです! どうか本日はお引き取りください!」
市民たちは「そうよね、お疲れなのよね」「ご無理なさらないでくださいね」と温かい言葉を残して、散り散りに去っていった。
男の子も母親に手を引かれ、名残惜しそうに振り返りながら去っていく。
「……はぁ」
広場のベンチに腰を下ろし、深く息を吐き出した。
右手のひらは、先ほどの演習場のような吸熱による冷え込みすら起きていない。そもそも、現象の成立プロセスそのものが門前払いを食らったような感覚だった。
「レン様、お気を落とさないでくださいね」
リナが隣に座り、優しく声をかけてくれた。
「昔から、人前で衆目に晒されながら魔法を使おうとすると、失敗しやすいと言われているんです。大勢の視線に囲まれると、無意識のうちに心が緊張して、魔力の流れが散ってしまうのだと教本にも書かれていますから」
「緊張……か」
俺は自分の胸に手を当てた。
心拍数は平常通りだ。何百人の前に立ったプレッシャーは多少あったが、仕事でクライアントの重役数十人を相手にプレゼンした時と比べれば、パニックになるほどの緊張では断じてなかった。
何かがおかしい。
あの時感じた「空間がガチガチに固まるような抵抗感」は、俺のメンタルの問題などではない。空間そのものの性質が、演習場とは決定的に違っていたのだ。
「リナさん、ちょっとあそこの路地裏に行ってみてもいいか?」
「え? 路地裏ですか?」
俺は立ち上がり、市場通りの喧騒から外れた、人通りのまったくない薄暗い路地へと歩き出した。
***
両脇を高い石壁に挟まれた、幅二メートルほどの狭い路地。
大通りの喧騒は遠くの背景音となり、周囲には俺とリナの二人しかいない。
「あの、レン様? こんな薄暗い場所で、何を……」
「リナさん、ちょっとあっち向いててくれないか? 絶対に俺の手元を見ないでくれ」
「えっ!? あ、はい……こうですか?」
リナは不思議そうにしながらも、素直にくるりと背中を向けた。
よし。 今、この路地裏で俺の右手を観測している人間は、ゼロだ。
俺は息を潜め、先ほど広場で行ったのと全く同じ出力、全く同じ意識で、右手のひらを前にかざした。
「『火球』」
ボウッ!
「きゃっ!?」
背中を向けていたリナが、背後から上がった熱気と光に驚いて悲鳴を上げた。
俺の手のひらの上には、何の抵抗もなく、鮮やかで力強いオレンジ色の火炎が、完璧な球体を描いてメラメラと燃え盛っていた。
空間の重さは微塵も感じない。演習場と同じく、空気の確率波が滑らかに偏在し、熱エネルギーが一極集中して火球を形成している。
「れ、レン様……!? すごい、今度は一瞬で綺麗な炎が……!」
リナが振り返り、目を見張る。
だが、リナが炎を直視した瞬間――。
チリチリッ……!
手のひらの上の火球が、不意にカクつき、炎の輪郭がざらついたように乱れた。
まるで、リナという「観測者」の視線が突き刺さった瞬間に、空間の重ね合わせの自由度がキュッと締め付けられたかのように。
「……消えろ」
俺が念じると、火球はすっと消滅した。
手のひらの周囲に、心地よい冷気が残る。
(やっぱり……そういうことか)
俺は背筋に冷たい戦慄が走るのを覚えた。
(緊張のせいなんかじゃない。この世界では、人間が見ていることそのものが、空間の確率の揺らぎをガチガチに固定して、魔法を起こしにくくしているんだ)
高校の物理や科学の雑学で読んだことがある。
量子の世界における「二重スリット実験」。
電子や光子は、誰も見ていない時は「波」として複数の経路を同時に通過するが、検出器を置いてどちらのスリットを通ったかを観測した瞬間に、「粒子」としてたった一つの経路に固定されてしまう。
このエイドラの世界でも、全く同じことが起きているのだ。
魔法とは、複数の成立可能な微小状態を重ね合わせ、その確率を偏らせる技術だ。
だが、大勢の人間がその場所を見つめていると――無数の人間の脳が「ここは普通の空気の空間だ」と観測し続けることで、空間の状態が猛烈な力で「単一の現実」へと固定されてしまう。
観測者の数が高ければ高いほど、空間の遊びが失われ、魔法の難易度は跳ね上がる。
演習場で魔法がスムーズに出たのは、防護結界で隔離され、見学者が数名の魔導士だけだったからだ。 広場で不発に終わったのは、何百人もの市民が一斉に俺の手元を凝視していたからだ。
「レン様……? どうかされたのですか? 難しいお顔をして……」
リナが心配そうに覗き込んでくる。
「……リナさん。教会の古い記録とかでさ、『人が大勢いる場所より、誰もいない深い森や荒野のほうが、不思議な奇跡が起きやすい』みたいな話って、あったりする?」
「えっ? ええ、まさにその通りです!」
リナは大きく頷いた。
「聖人の奇跡や、古代の大魔法の発現地は、例外なく人の立ち入らない深山幽谷や太古の遺跡なんです。教会では『俗世の雑念から離れた清浄な地だからこそ、神の恩寵が降り注ぐのだ』と教えられていますけれど……」
「清浄な地、か……」
俺は苦笑を浮かべ、路地裏の狭い空を見上げた。
教会の教えは、現象の結果だけを捉えて宗教的に言い換えたものに過ぎない。
真実はもっと冷徹で、物理的だ。
誰も見ていない場所――観測密度がゼロに近い場所だからこそ、現実の固定が解け、超低確率の事象干渉が成立するのだ。
路地を出て、夕暮れの大通りへと戻る。
沈みゆく二つの太陽が、白亜の王都ルクシアを赤黒く染め上げていた。
何十万人もの人々が暮らし、日々、街を見つめ、記録を残し、言葉を交わす街。
かつては美しいと思っていたその大都市の景観が、今の俺には、何十万もの視線によって幾重にも編み上げられた「現実を逃さないための巨大な檻」のように見えていた。
見られている街。
誰もが観測者であり、同時に現実の囚人。
夕風が吹き抜ける中、俺は自分の足元を確かめるように、石畳を強く踏みしめた。




