第10章 見られるほど弱くなる
王都ルクシアから北西へ馬車で半刻ほど街道を進んだ丘陵地帯。
風に揺れる銀草の群落を抜けた先に現れたのは、かつて北方からの魔獣侵入を監視するために建造されたという『旧観測砦』の廃墟だった。
百年以上前の戦乱で放棄されたという砦は、風雨に晒されて半ば崩れ落ちた厚さ一メートルの防護石壁と、雑草に覆われた広大な中庭を残すのみとなっていた。
人里から完全に隔絶され、街道からも外れたこの静寂の地に、今日集まったのは異様な大所帯だった。
「先生、本当にこんな辺鄙な廃墟まで来る必要があったんですか?」
道中の馬車の中で俺が尋ねた時、オルドは煙管を燻らせながらこう答えていた。
『歴史を紐解いてみたまえよ、相馬蓮。千年前の神話時代の勇者は、たった一人で荒野を進み、山を吹き飛ばし海を割るような天変地異の奇跡を起こしたと伝承にある。だが、時代が下り、王国が整備され、勇者の周りに大軍勢や記録官、教会の神官団が随行するようになるにつれ……勇者が起こせる奇跡の規模は、どんどん小さくなっていった。なぜだと思う?』
『……観測者が増えて、記録が密になったからですか?』
『その通りだよ。今日の実験は、その歴史の退行現象を現代で再現するためのものだ』
中庭に集まったのは、俺とリナ、そして近衛騎士団を率いるガウェイン卿とその精鋭騎士五十名。 さらに、教会の記録課から正式に派遣された三名の記録神官が、黒インクの壺と羽ペン、分厚い羊皮紙の記録帳を抱えて整列している。
そして――白髪混じりの黒髪を後ろで無造作に革紐で束ね、薄汚れた白衣ローブを羽織ったオルドが、南方の焙煎豆から煮出した苦い『カファ』を注いだ陶器のカップを片手に、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながら中庭の中央に立っていた。
「オルド先生……本当に、こんな大勢の方をお呼び立てして実験を行う必要があったのですか?」
リナが淡い亜麻色の髪を手で優しく押さえながら、心配そうに琥珀色の瞳を曇らせた。
「近衛騎士団の皆様だけでなく、大聖堂の記録神官様まで……。もし何も成果が出なかったら、教会の査問会で先生の立場が本当に危うくなりますよ」
「ククッ、立場なんぞ最初から地の底だよ、お嬢ちゃん」
オルドは煙管から紫煙をくゆらせ、満足げに中庭を見渡した。
「いいか、相馬蓮。昨日の暗箱の実験で、君は魔力が『可能性の余地』だと看破した。ならば今日は、その余地を押し潰す『現実の固定圧』の具体的な構成要素を、実地で完全に数値化・解体して見せようじゃないか」
「固定圧の……構成要素?」
「左様だ」
オルドは手元の真鍮製エントロピー検知計を掲げ、中庭に響き渡る大声で号令を下した。
「ガウェイン卿! 騎士団五十名、中庭の射線を取り囲むように整列せよ! 一人残らず、勇者の指先を一瞬たりとも瞬きせずに凝視し続けろ! 記録神官どもは、勇者が息を吸った瞬間から魔法の光が消えるまでの全挙動を、一秒の狂いもなく羊皮紙に書き殴れ! そしてリナ神官、お前は教本通りの最も格式高い神聖祝詞を、最大音量で詠唱し続けろ!」
「は、はあ……?」
ガウェインも神官たちも、何をさせられているのかさっぱり分からないという顔をしていたが、大司教の直筆許可証を見せられると、渋々ながら命令通りに配置についた。
五十人の完全武装の近衛騎士が、円陣を組んで俺の右手を穴が開くほど凝視する。
三名の書記官がインク壺を開け、羽ペンを構えて手元を睨みつける。
リナが両手を胸の前で合わせ、朗々とした美声で大聖堂の正式な祈祷文を紡ぎ始めた。
『天穹を満たし万物を統べる至高の主よ……大いなる光の恩寵をここに下し給え……』
(……うわっ、なんだこれ)
白線の前に立った瞬間、俺は凄まじい息苦しさに襲われた。
五十三名の人間の生々しい視線の圧力。
羽ペンが紙を擦るシャリシャリという記録の気配。
そして「ここは神聖な教会の秩序の下にある」という厳格な祝詞の音波。
それらすべてが、まるで何百本もの目に見えない鋼鉄の鎖となって、俺の周囲の空間をギチギチに締め上げているのが肌で分かった。
「相馬蓮! 三十メートル先の中庭の標的岩に向けて、昨日と同じ『火球』を全力で放ってみたまえ!」
オルドが叫ぶ。
「……わかりました! 『火球』――ッ!」
俺は右手を突き出し、全身の魔力を込めて叫んだ。
ズズズズズッ……!!
全身の血管から、ごっそりと膨大な魔力が吸い取られていく。
昨日の演習場で巨岩を粉砕した時以上の、凄まじい生体エネルギーの流出。
だが――手のひらの前に現れたのは。
ポスッ……。
手のひらの上に、頼りなく揺らめく、小さなキャンプファイヤー程度のショボい炎の塊だった。
熱風も起きず、轟音も鳴らず、ヘロヘロと飛んでいった炎は、標的の巨岩に触れた瞬間にプスッと煙を上げて消滅した。岩には焦げ跡一つ付いていない。
「……え?」 「な、何だ今のは……!?」
騎士たちからどよめきが上がった。
「あれほどの大魔力を注ぎ込みながら……初級の魔導士見習い以下の威力だと……!?」
書記官神官たちが慌てて羽ペンを走らせ、『勇者殿、全力の魔力消費にもかかわらず微小発火に留まる』と羊皮紙にカリカリと記録を刻んでいく。その記録の音すらも、空間の硬直をさらに一段階深めているのが感覚で分かった。
俺は肩で息をしながら、冷え切った指先を見つめた。
魔力は激しく消耗したのに、空間の固定圧が強すぎて、ほとんど熱の偏在を起こせなかったのだ。
「クハハハハッ! 素晴らしい! 見事なまでの減衰率だ!」
オルドが計測器の数値を書き留めながら狂喜の声を上げた。
「生体魔力消費量――通常の三百倍! 現象発生出力――通常の百分の一以下! これが『最大観測剛性(Maximum Observation Rigidity)』の威力だよ!」
「せ、先生……これ、どういうことなんですか?」
リナが祝詞を止めて駆け寄ってくる。
「お嬢ちゃん、今から種明かしをしてやる」
オルドは不敵に笑い、神官たちに向き直った。
「おい、書記官ども! 羽ペンを置け! 記録を今すぐ完全に中断しろ!」
神官たちが恐る恐るペンを置き、羊皮紙を閉じた。
「リナ神官、祝詞を唱えるな。黙っていろ。……よし、相馬蓮、もう一度同じ火球を撃て」
「はい……『火球』!」
ボウッ!
今度は、先ほどより遥かに滑らかに、直径五十センチほどのしっかりとした火球が放たれ、標的の岩の表面を黒く焼き焦がした。 消費魔力は先ほどの半分以下。
「なっ……!? 記録を止め、祝詞をやめただけで、威力が五倍以上に跳ね上がった……!?」
ガウェインが目を剥く。
「そうだ。空間を縛っているのは、人間の『目』だけではない」
オルドは黒板代わりに壊れた石壁にチョークを走らせた。
「文字として羊皮紙に『確定した事実』を書き残す行為――記録。そして、『世界は神の秩序に従っている』と強く意識を縛り付ける制度的儀礼(Institution)。これらもまた、空間の自由度を奪い、現実をガチガチに固定する強大な観測力として機能しているのだ!」
(……なるほど!)
俺の頭の中で、システム屋としての直感が鮮やかにスパークした。
(アクセスログのリアルタイム同期書き込みと、過剰なセキュリティ監査ルールだ! 何十台ものサーバーで全パケットのログを逐一ディスクに書き込み、厳格なトランザクションロックをかけまくっていたら、システムのスループットが激落ちしてボトルネックになるのは当たり前だ!)
「そして――最後だ」
オルドがニヤリと笑い、騎士団全員を指差した。
「ガウェイン卿、貴公も含めて全員だ。背中を向けろ。そして両目を手甲で塞ぎ、耳を澄ませて、この場で起きる現象を一切観測するな」
「な……我ら近衛が、勇者殿に背を向けるなど……!」
「いいからやれ! 真実を見たくはないのか!」
オルドの一喝に、ガウェインたちは躊躇いながらも全員が一斉に回れ右をし、手甲で両目を固く覆った。 リナも、神官たちも、そしてオルド自身すらも、背を向けて目を閉じる。
今、この中庭で、俺の右手を観測している存在は――完全にゼロになった。
静寂。
吹き抜ける風の音だけが響く中、俺は右手のひらを前にかざした。
視界の端で、空気の熱揺らぎの確率波が、何の抵抗もなく自由に、無限の広がりを持って柔らかくうねり始めるのが見えた。
込める魔力は、ほんの指先一本分の、マッチの火を擦る程度のごく微小な意識。
「『火球』」
呟いた、その刹那――。
キィィィィィィンッッッッ!!
耳を劈くような超高周波の収束音と共に、空間が爆発的な勢いで歪曲した。
ドォォォォォォォォンッッッッ!!!!
凄まじい衝撃波が中庭を薙ぎ払い、背を向けていた騎士たちが何人も吹き飛ばされて地面を転がった。 濛々たる白煙と土煙が晴れた時――。
三十メートル先にあったはずの標的の巨岩は、跡形もなく蒸発していた。
それどころか、その背後にそびえ立っていた旧観測砦の厚さ一メートルの防護石壁が、直径十メートルにわたって完全に吹き飛び、外の青空がぽっかりと顔を覗かせていた。
「ひ……っ!?」
「な……何が起きたのだ……!?」
目を開けたガウェインたちが、消滅した石壁と巨大なクレーターを見て、腰を抜かして震え上がっていた。
リナも手で口を覆い、言葉を失って立ち尽くしている。
放った当の本人の俺自身、右手には何の反動も疲労もなかった。
消費した魔力は、最初の失敗した火球の千分の一以下。
「クハハハハ……ッ! 見たか! これこそが世界の真実だ!」
オルドが瓦礫を踏み越え、狂ったように哄笑した。
「人間が見つめ、記録を残し、儀式で縛れば縛るほど、奇跡は矮小化して消え失せる。逆に、誰も見ず、誰にも記録されず、忘れ去られた暗闇の中でこそ――人間は神に匹敵する超常の確率干渉を解き放つことができるのだ!」
「そ、そんな……」
ガウェインが蒼白な顔で立ち尽くし、震える声で呟いた。
「では……我ら近衛騎士団が勇者殿を取り囲み、大軍勢で行軍し、戦果を細大漏らさず記録すること自体が……勇者殿の御力を奪い、縛り付けていたということなのか……? 我々の忠義が……かえって足枷になっていたと……?」
「その通りだよ、隊長殿」
オルドが冷笑を浮かべ、煙管の灰を地面に叩き落とした。
「お前たちが勇者を守ろうとすればするほど、勇者はただの無力な人間に成り下がる。皮肉なものだな」
「見られるほど……弱くなる……」
俺は瓦礫の隙間から吹き込む冷たい風を浴びながら、自分の手のひらをそっと握りしめた。
英雄を称える大観衆。
歴史に名を刻むための大記録。
神への敬虔な大儀式。
エイドラの人々が「尊いもの」として信じ、積み上げてきた文化のすべてが――皮肉にも、彼ら自身の可能性を縛り付け、奇跡を殺すための「最大の観測の檻」だったのだ。
「……信じられません」
リナが震える声で呟いた。
「私たちが神様へ捧げてきた祈りや記録が……まさか、奇跡を縛る鎖になっていたなんて……」
「だが、それがこの世界の物理だ」
俺はリナの肩にそっと手を置き、吹き飛んだ壁の向こうを見つめた。
吹き飛ばされた石壁の向こうに、夕暮れに染まる大平原が果てしなく広がっていた。
その果てしない静寂を見つめながら、俺はこの世界を覆うシステムの冷徹な設計思想に、深く、静かに戦慄していた。




