第11章 鏡のノイズ
旧観測砦での爆発実験から数時間後。夜の帳が下りた王都ルクシアの大聖堂は、重苦しい沈黙と冷気に包まれていた。
大聖堂へと続く白亜の大回廊を歩く途中、近衛騎士隊長のガウェイン卿が、周囲を油断なく警戒しながら小声で俺に話しかけてきた。
「勇者殿……先ほど、砦での実験結果を大司教様と軍務卿へ報告してまいりました。……正直に申し上げれば、騎士団内部でも激しい議論が巻き起こっております。勇者殿のあの御力を『王国を救う究極の神威』と歓喜する者もいれば、『教会の秩序を根底から揺るがす危険な異端の力』と恐れおののく者もおりましてな」
「ガウェイン卿自身は、どう思ってるんですか?」
「我らは武人……目の前で起きた現実を信じるのみでございます。勇者殿が邪悪な意思を持たぬこと、我が命に代えても理解しております。……なれど、政治と宗教の世界は、時に武人の純粋さよりも遥かに泥深く、冷酷なもの。どうか、これからの謁見ではお気をつけ下され」
回廊の先では、魔導院の主任教官バルトロメウスら高位魔導士たちが、遠巻きに恐れと嫉妬の混ざり合った視線をこちらに向けていた。彼らにとって、詠唱も儀礼も破棄して石壁を消滅させた俺の力は、己の存在意義を根底から否定する怪物に他ならなかったのだ。
重厚な扉が開き、天井の高い謁見の間へと通された。
ステンドグラスから差し込む青白い月光が、磨き抜かれた大理石の床に長い影を落としている。
金糸の刺繍が施された白金色の豪奢な最高位法衣を纏い、豊かな白髪と顎髭を蓄えたエルネスト大司教が、壇上の司教座から静かに俺を見下ろしていた。その周囲には、教会の枢機卿たちや、王国軍の儀礼官たちが厳しい面持ちで居並んでいる。
「……勇者殿。旧観測砦の防護壁を一撃で粉砕したとの報告、ガウェイン卿より受領いたしました」
大司教の声は温和そのものだったが、その奥にある琥珀色の瞳には、隠しきれない警戒と戸惑いが滲んでいた。
「まさか、記録や祝詞を遮断した無観測の環境下において、それほどの神威を発揮されるとは。……誠に、大いなる奇跡の器とお見受けいたします」
「大司教様、あれは教会の祈りを否定するものではなく、純粋な魔術の物理的性質を……」
俺の横に控えていたリナが、淡い亜麻色の髪を揺らしながら必死に弁明しようと前に出た。だが、大司教は静かに白銀の司教杖を床に突いてそれを遮った。
「よいのです、リナ神官。真実がどうであれ、民や貴族たちにとって重要なのは『秩序』です。王都の城壁の中で、あまりに強大で常軌を逸した力が行使されることは……時に、無用な動揺と恐怖を生み出しかねません。民が求めているのは、神の教えに従う安心感であり、説明のつかぬ異界の理ではないのです」
大司教は金箔で縁取られた羊皮紙の神聖宣誓書を、従者を通じて俺の前に差し出した。
「これより三日後。勇者殿には、北方前線――魔王軍の瘴気が吹き溜まる『黄昏の峡谷』へと出陣していただきます。かの地にて、勇者殿の御力を思う存分解放し、邪悪を打ち払っていただきたい」
(……なるほどな)
俺は心の中で冷ややかに頷いた。
体裁は「栄誉ある遠征軍の先鋒」。だが、その実態は「王都の教義と権力構造を脅かしかねない危険人物の、体裁の良い厄介払い」だ。
だが、俺にとっては渡りに船だった。
何十万人もの観測者に囲まれ、空間がガチガチに硬直したこの王都に留まり続けるより、観測密度の低い前線に出た方が、世界のシステムの謎を解き明かすための実験が遥かにやりやすいからだ。
「承知いたしました。北方への出陣、謹んでお受けします」
俺が深く一礼すると、大司教はどこか安堵したように、柔らかな微笑を浮かべて頷いた。
***
謁見を終え、俺とリナは大聖堂の回廊を通り、召喚塔の貴賓控え室へと戻ってきた。
夜風が吹き抜ける回廊を歩きながら、リナはずっと俯き、法衣の裾をぎゅっと握りしめていた。
「……悔しいです」
部屋に入り、重厚な扉を閉めた瞬間、リナがぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「レン様は命がけでこの世界のために力を尽くしてくださっているのに、大司教様たち上層部は、ご自分の権威や教義を守ることばかり……! こんなの、事実上の追放じゃありませんか……! 私がずっと信じてきた教会は、こんなに冷たい場所だったなんて……」
「いいんだよ、リナさん。俺自身、王都の外へ出たかったところだから」
俺は笑いかけて、リナの頭を優しく撫でた。
「王都の中にいると、見ている人が多すぎて魔法の実験もろくにできないしね。前線なら、気兼ねなく全力が出せる。むしろ好都合なんだよ」
「レン様……」
リナは琥珀色の瞳を瞬かせ、鼻をすすりながら小さく微笑んだ。
「お強いのですね、レン様は……。あ、申し訳ありません! 私ばかり取り乱してしまって……。すぐに温かいカファを淹れてまいりますね。少しお待ちください!」
リナは慌てて涙を拭い、部屋を出て階下の給湯室へと小走りで向かっていった。
バタン、と扉が閉まり、一人になった部屋で、俺はある一つの強い衝動に囚われていた。
(観測者がゼロの環境下でなら……あの鏡には、今、何が映るんだ?)
召喚された初日、大聖堂の地下深くにある『聖鏡の間』で受けたステータス鑑定。
あの時、大司教たちが見落とした最下段のノイズ――『WORLD_BRANCH_OPERATOR』という謎の権限。
昼間は無数の神官や魔導士たちに囲まれ、強烈な観測密度で覆われていたあの場所も、深夜の今なら、完全に誰もいない無観測の空間になっているはずだ。
俺は控え室を静かに抜け出し、薄暗い石造りの螺旋階段へと足を踏み入れた。
壁の燭台が頼りなく揺らめき、ひんやりとした地下の冷気がスーツ越しに肌を刺す。コツ、コツ、と自分の足音だけが地下回廊に響き渡る中、俺は最奥にある重厚な大理石の扉を押し開けた。
***
深夜の『聖鏡の間』は、昼間とは打って変わって、息が白くなるほどの濃密な冷気と静寂に包まれていた。
天井の天窓から差し込む青白い月光が、部屋の中央の祭壇に鎮座する高さ三メートル、幅二メートルの巨大な銀鏡を、ぼんやりと青白く照らし出している。
神官も魔導士も誰一人いない。 完全な無観測の空間。
引き寄せられるように、俺は壇上へと歩み寄り、聖鏡の前に立った。
真鍮のフレームには精緻な幾何学模様――まるで半導体の集積回路を模したかのような微細なエッチングが刻まれ、滑らかな銀の鏡面は部屋の薄暗がりを静かに反射している。
鏡面には、黒いスーツを着て、少し疲れた顔をした俺自身の姿が等身大で映し出されていた。
「……ふぅ」
息を吐きながら、俺は無意識に右手を開閉し、右腕を肩の高さまでスッと持ち上げた。
その瞬間――。
(…………ん?)
背筋に、冷たい氷水を垂らされたような強烈な違和感が走った。
鏡の中の俺の像が、動いた。
だが――ほんの一拍、コンマ数秒だけ遅れて持ち上がったのだ。
「……え?」
目の錯覚か? 疲れているのか? 俺は眉をひそめ、今度は左手を素早く振ってみた。
サッ。
俺の左手が動き終わった直後、鏡の中の左手が、ヌルリとした不自然な遅延を伴って後から追従してきた。
さらに、瞬きをした瞬間、現実の俺の瞼が開いているのに、鏡の中の像の瞼が半拍遅れてパチリと閉じた。
まるで、フレームレートが極端に落ちた古いモニターの画面を見ているかのように。
あるいは、通信遅延の酷いリモートデスクトップのカーソルを見ているかのように。
(描画遅延……!? いや、鏡だぞ? 光の反射が遅れるわけが……)
心臓の鼓動が、トクン、と大きく跳ねた。
俺は聖鏡に顔を近づけた。
鏡の中の俺も、顔を近づけてくる。
だが、その瞳の焦点が、ほんのわずかにズレていた。
鏡の中の像は、現実の俺の目を見ているのではない。俺の背後の暗闇を――いや、この世界のさらに奥にある『何か』を凝視している。
ザザッ……。
突如、鏡の中の輪郭が一瞬だけ青白い走査線ノイズのようにブレた。
RGBの色ズレのような、デジタルなモザイク状の波形。
そして――。
現実の俺は一言も発していないのに、鏡の中の俺の口元が、微かに歪んだ。
『………………に……』
声は聞こえない。だが、確かに唇が動いた。
『…………また……お前……か……』
(っ……!?)
息が止まりそうになった。
鏡の中にいるのは、本当に「俺」なのか?
同じ顔、同じ黒髪、同じスーツ。だが、その瞳の奥に宿る感情は、俺の知らない、果てしない絶望と摩耗に染まりきっていた。
まるで、何百回、何千回と同じ悲劇を繰り返してきたかのような――絶対的な疲労の影。
「お前……誰だ?」
俺が掠れた声で問いかけた、その瞬間――。
バタン!
「レン様――っ!? お部屋にいらっしゃらないので心配いたしました!」
地下の重厚な扉が開き、トレイに二つの湯気の立つ陶器カップを乗せたリナが、息を切らしながら駆け込んできた。
カチリ。
頭の奥で何かが噛み合うような微小な音がした。
直後、鏡の中の像の遅延と青白いノイズは跡形もなく消え去り、現実の俺と寸分の狂いもなく完全に一致して同期した、ただの『普通の鏡像』へと戻っていた。
「レン様? こんな真夜中に、聖鏡の間で何をなさっていたのですか?」
リナが不思議そうに琥珀色の瞳をパチクリと瞬かせた。
「……いや。なんでもないよ」
俺は額に浮かんだ冷や汗を手の甲で拭い、振り返って笑ってみせた。
「ちょっと、初日に見たこの鏡をもう一度見てみたくなってね」
「もう、驚かせないでください……! ほら、温かいカファが冷めてしまいますよ」
差し出された陶器のカップを受け取ると、香ばしい焙煎豆の湯気が立ち上り、手のひらに確かな温もりが伝わってきた。
泥水のように苦く、深い味わいのカファを一口含むと、凍りつきそうだった思考が少しずつ解きほぐされていく。
「あの……レン様」
リナが真剣な表情で切り出してきた。
「三日後の北方遠征……私も、従軍司祭として必ず同行いたします」
「え? でも、危険な前線だよ?」
「はい。ですが、レン様を一人で行かせるわけにはまいりません。私が……レン様の専属神官として、おそばでお守りいたしますから!」
真剣な眼差しでそう語るリナの姿に、俺は胸が温かくなるのを覚えた。
「ありがとう、リナさん。すごく心強いよ」
(リナさんが部屋に入って『観測』された瞬間に、鏡の像が正常に同期した……)
俺はカファのカップを握りしめながら、背後の聖鏡を静かに見やった。
観測剛性(Observation Rigidity)。
人間が見ていない無観測の静寂の中でだけ、この世界はその『真の歪み』を露わにする。
鏡の中にいた、一拍遅れて動く、青白いノイズに包まれたもう一人の自分。
あの絶望に満ちた口元の動きは、一体何を意味していたのか。
答えはまだ分からない。
だが、この王都の外にある北方前線――『黄昏の峡谷』の暗闇の奥に、その真実が待っていることだけは、確信していた。
地下の天窓から見上げる夜空には、冷たく澄んだ星々が無数に瞬いている。
俺は残りのカファを一気に飲み干し、夜の静寂へと静かに決意の眼差しを向けた。




