第12章 WORLD_BRANCH_OPERATOR
北方遠征への出陣を明日の朝に控えた、真夜中の召喚塔。
部屋の明かりを落とし、ベッドの上に腰掛けた俺の手元には、昼間にオルドから密かに手渡された数枚の羊皮紙が広げられていた。 それは、教会の地下大書庫の奥深くに封印されていたという、『初代および歴代勇者の正規権限仕様書(公式聖典の原本写し)』だった。
羊皮紙には、千年の歴史の中で召喚された過去の勇者たちに関する、教会の詳細な観測記録がびっしりと書き込まれていた。
初代勇者イグニス――『神聖なる炎を統べる者。大聖堂の祭壇において、至高の主より十全の火炎干渉権を賜り、紅蓮の刃をもって魔獣の群れを浄化せり』。
第二代勇者――『大いなる因果の盾を授かりし者。敵のあらゆる悪意ある呪詛を自動で無効化し、概念の障壁をもって巡礼団を護り抜けり』。
俺は息を潜め、暗闇の中で意識を集中させて、自分のステータスUIを網膜に展開した。
視界の右上に、青白い発光文字と共に、あの日以来ずっと頭の奥で稼働し続けているYAML形式の権限リストが滑らかにスクロール表示される。
AUTHENTICATED_IDENTITY:
user_id: "SOMA_REN_26"
origin_plane: "EARTH_JP_TYO"
assigned_role: "HERO_CLASS"
privilege_tier: "UNRESTRICTED_ROOT"
CAPABILITY_PERMISSIONS:
- CAPABILITY_ELEMENTAL_INTERFERENCE: "MAX_EFFICIENCY"
- CAPABILITY_SACRED_INTERFACE: "UNRESTRICTED"
- CAPABILITY_CAUSAL_DEFENSE: "ACTIVE"
- CAPABILITY_CONCEPT_SYNCHRONIZE: "ACTIVE"
- CAPABILITY_PHYSICAL_AMPLIFICATION: "PASSIVE"
EXTENDED_SYSTEM_CAPABILITY:
- UNAUTHORIZED_CAPABILITY: "WORLD_BRANCH_OPERATOR"
俺は手元の羊皮紙の記述と、網膜の文字列を一行ずつ照合していった。
初代勇者の『炎の統御』は、俺の『CAPABILITY_ELEMENTAL_INTERFERENCE(元素干渉)』に対応している。
聖剣を扱える資格は『CAPABILITY_SACRED_INTERFACE(聖具同調)』。
第二代勇者の『因果の盾』は『CAPABILITY_CAUSAL_DEFENSE(因果防護)』。
異世界の言葉を即座に理解できる能力は『CAPABILITY_CONCEPT_SYNCHRONIZE(概念同期)』。
それらはすべて、俺のUIの『CAPABILITY_PERMISSIONS』のブロックに記載されている項目と完全に一致していた。
つまり、歴代の勇者たちに「神の祝福」として与えられてきたチート能力の正体とは、この世界というOSの中で『勇者』という特定ロールにのみ割り振られた、限定的な正規Capability群に過ぎなかったのだ。 教会の高位神官や魔導院の術士たちが、厳格な詠唱と儀式を踏まなければ魔法を使えないのも当然だ。彼らはアクセス権限を厳しく制限された『一般ユーザー(ロール:GUEST / CLERIC)』のアカウントで、都度APIコールを叩いているに過ぎないのだから。
だが――。
羊皮紙のどこをどう探しても、最下段にある『EXTENDED_SYSTEM_CAPABILITY』という項目は影も形も存在しなかった。
『UNAUTHORIZED_CAPABILITY: WORLD_BRANCH_OPERATOR』。
直訳すれば――『未承認機能:世界線分岐管理者』。
「やっぱりな……」
俺は暗闇の中で、乾いた笑いを漏らした。
(この権限は、勇者の正規スキルなんかじゃない)
スーツのポケットから、バッテリーが完全に切れてただの黒いガラス板と化したスマートフォンを取り出し、指先で弄ぶ。 日本でインフラエンジニアをやっていた頃の記憶が鮮烈に蘇る。
深夜の本番リリース作業中、アクセス制御リストの記述ミスで、外部のテストアカウントに誤って全データベースのフルコントロール権限を付与してしまい、翌朝フロア全体が蜂の巣をつついたような大騒ぎになったことがあった。
今、俺の身に起きているのは、まさにそれと寸分違わぬ現象だった。
召喚の瞬間、俺の目の前を一瞬だけ走ったあの赤いエラー表示。
『PRIVILEGE_ESCALATION APPLIED(権限昇格が適用されました)』。
(東京のSEを異世界に呼び出す際、召喚陣の認証プロトコルに致命的なバグがあって、一般アカウントに誤ってシステムの最上位管理者権限が付与されてしまったんだ……)
「神様……。それはスキル付与じゃなくて、とんでもない権限昇格事故ですよ」
俺は呟き、自嘲気味に息を吐きながらUIを閉じた。
自分が「選ばれし勇者」なんかではないことなど、最初から分かっていた。
俺はただ、本番環境のサーバー事故に巻き込まれてroot権限を握らされたまま、泥沼の運用現場に放り出された哀れなインフラエンジニアに過ぎないのだ。
だが、同時に胸の奥で、静かで熱い闘志がフッと灯るのを感じていた。
召喚初日に出会ったリナの温かい笑顔、オルドの狂気的な探求心、セラの真っ直ぐな武人の誇り、ガウェインたちの実直な忠義。
この世界の人々は、ただのプログラムのNPCなどではない。冷酷な観測の檻の中で、必死に生き、祈り、戦っている生身の人間たちなのだ。
事故だろうがバグだろうが、手元にこの権限があるのなら。
この不条理で、観測の鎖に縛られ、世界線を浪費し続ける狂った世界のシステムを――俺の手で、必ず正常にデバッグして、全員を救い出してみせる。
俺は静かに目を閉じ、明日の出立へ向けて深い眠りについた。
***
翌朝、夜明け前の黎明。
青白い朝靄が立ち込める王都ルクシアの北門へと続く裏路地。
背中に革のリュックを背負い、腰に『灼熱の聖剣イグニス』を佩いた俺と、白い法衣の上に旅用のフード付きマントを羽織ったリナが歩いていると、路地の角の煙草屋の軒先から、ひょっこりと人影が現れた。
ボサボサの白髪混じりの黒髪を革紐で束ね、薄汚れた白衣ローブを羽織った男――オルドだ。
男は煙管からプカリと白い煙を吐き出し、陶器のカップに入った苦いカファを啜りながら、ニヤニヤと笑いかけてきた。
「よお、異界の特権者。いよいよお別れだな」
「オルド先生……わざわざこんな朝早くにお見送りに?」
「まさか。薄汚い教会の公式式典なんぞ反吐が出るからな。ここで密かに餞別を渡しに来ただけだ」
オルドは白衣の分厚いポケットから、真鍮製の精密な懐中時計型の機械と、油紙に包まれたメモを取り出して俺に押し付けてきた。
「これは……?」
「携帯型のエントロピー検知計だ。内部に封入した微小な星晶石の共鳴針と真鍮の歯車が連動して、王都の外でも局所的な観測密度(Observation Density)の数値をリアルタイムで指し示すように改良しておいた。針がゼロを指した場所こそが、空間のコヒーレンスが最大化された『無観測の領域』だ。……そしてそのメモは、北方前線『黄昏の峡谷』の深層にあるとされる『無観測の特異点』の座標予測だ」
「無観測の特異点……」
「そうだ。誰の目にも触れず、誰の記録にも残らぬ絶対の暗闇。……もし世界の真の設計図に触れたいなら、その場所を探せ」
オルドは煙管を仕舞い、真剣な眼差しで俺を見つめた。
「いいか、相馬蓮。前線で蠢く魔獣や魔王軍の正体は、単なる悪魔や怪物ではない。観測の光が届かぬ境界の彼方で、世界のエントロピーが暴走して生み出した『システムのバグ・ノイズ生命体』だ。生半可な奇跡信仰では奴らは倒せんぞ」
「……ええ。身をもって理解していますよ」
「ククッ、ならいい。生きて戻れよ、相馬蓮。この世界を縛る『神』とやらの正体を暴くまでは、絶対に死ぬんじゃないぞ」
「先生も、研究室でお元気で。北方で美味しいカファの豆や珍しい古代遺物の残骸が手に入ったら、また手紙と一緒に送りますよ」
俺とオルドは、言葉少なにしっかりと固い握手を交わした。
***
朝日が昇り始め、空が淡い茜色から黄金色へと染まる頃。
王都ルクシアの巨大な北門前広場には、出陣を見送るための大観衆と聖歌隊が集結していた。
大聖堂の聖歌隊による荘厳な賛美歌が響き渡り、金糸の法衣を纏ったエルネスト大司教が、壇上から香炉を振りながら神聖な祈祷を捧げている。集まった貴族や市民たちは、救国の英雄の出陣を熱狂的に歓呼していたが、その視線はどこか空々しく、自分たちの安全な生活を守るための生贄を送り出す安堵感に満ちていた。
広場の中央には、白銀のフルプレートアーマーを纏ったガウェイン卿率いる近衛部隊五十名が整列していた。
そして、その先頭にいたのは――漆黒の軍馬に跨がり、燃えるような鮮烈な赤髪のポニーテールを朝日になびかせた少女騎士、セラ・ヴァーミリオンだった。
「遅いぞ、相馬蓮!」
セラは深紅のマントを翻し、勝気な翠眼を輝かせて不敵に笑った。
「主役が最後に現れるのはお約束だが、私の馬を待たせるなよ」
「セラ隊長……本当に、前線まで同行してくださるのですね」
リナが駆け寄り、琥珀色の瞳を潤ませながら感謝の礼を述べる。
「当然だ。静定騎士団は王家の刃だが、異界の勇者の監視役兼護衛役を正式に命じられたのでな。……それに、教会の連中の空々しい見送り式典に付き合うより、こいつの常識破りな戦いを最前列で見物できる特等席を、誰かに譲る気はない」
セラは腰の愛剣の柄をポンと叩き、俺を見下ろしてニッと八重歯を見せた。
「頼りにしてるよ、セラ」
「フン、背中は任せておけ! 北方前線『黄昏の峡谷』までは早馬で三日の強行軍だ。途中で泣き言を言っても置いていくからな!」
ゴオオォォォ……ッ!!
重厚な地響きと共に、王都ルクシアの象徴である巨大な北門の鉄格子が、ゆっくりと上方へと巻き上げられていく。
門の向こう側には、どこまでも広がる朝露に濡れた緑の大平原と、その遥か彼方に霞む険しいシルヴァリス山脈の峰々が、黄金の陽光を浴びて神々しく輝いていた。
「全軍、前進――ッ!!」
ガウェインの号令が木霊する。
俺は一歩、足を踏み出した。
巨大な城門の影を抜けた、その瞬間――。
フッ……。
肌を締め付けていた重苦しい圧迫感が、まるで魔法のようにスッと消え失せた。
何十万人もの視線、幾重にも張り巡らされた教会の結界、過去の記録の山――王都ルクシアを覆っていた強烈な『観測密度(Observation Rigidity)』の檻から、完全に解き放たれたのだ。
手元のエントロピー検知計を取り出すと、王都の中では最大値に振り切れていた真鍮の針が、スーッと目盛りの半分以下まで下がり、星晶石が澄み渡るような青い微光を放ち始めた。
吹き抜ける大平原の風が、驚くほど軽やかで、甘酸っぱい若草の香りを運んできた。
視界の端で、空気中の熱エントロピーが柔らかく揺らぎ、無限の可能性が大地いっぱいに満ち満ちていくのを感じる。
「……すごい、身体が羽のように軽いです……!」
隣を歩くリナが、淡い亜麻色の髪をなびかせながら、大平原の風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「ああ。ここからが、本当の始まりだ」
「おい、相馬蓮! ぼさっとしてると置いていくぞ!」
先頭を行くセラが、馬首を巡らせて快活に笑いかけてくる。
「『黄昏の峡谷』は、魔獣の群れが昼夜を問わず押し寄せる修羅場だ。お前のその異質な視線と魔法が、前線の混沌にどこまで通用するか……見せてもらおうじゃないか!」
「望むところだ。デバッグしがいがありそうだ」
俺は笑って答え、腰の『灼熱の聖剣イグニス』をしっかりと握り直した。
銀の鎧を煌めかせて進むガウェインたち近衛部隊、馬上でマントをたなびかせるセラ、そして隣で健気に歩幅を合わせるリナ。
神が与えた偽りの救済。
一般アカウントに紛れ込んだroot権限。
そして、鏡の奥で待つもう一人の自分の謎。
すべてを解き明かすための鍵は、この先に広がる果てしない荒野の奥にある。
世界という巨大なシステムの深淵へと挑む、俺たちの本当の戦いが、今、ここに幕を開けたのだ。
(第1部 ARC-I「ACCESS GRANTED」――完)




