第62章 死んだ世界の数
紅蓮の光炎を宿した聖剣イグニスを構え、俺は石畳を強く踏みしめていた。
最深核ドームの凍てつく闇の中で、刀身から放たれる熱と光だけが、俺の実存を繋ぎ止めている。 すべてを背負う。失われた過去も、切り捨てられた世界線の叫びも引き受けた上で、誰一人として切り捨てない新しいアーキテクチャを設計してみせる――。
そう啖呵を切った俺の喉は、しかし、焼けるように乾いていた。
「……設計と実装、か」
Echoは微動だにせず、漆黒の折れた聖剣を右手に提げたまま、低く嘲笑うような吐息を漏らした。
その双眸に宿る冷徹な光は、俺の覚悟など最初から見透かしているかのように、静かに俺の瞳を射抜いていた。
「相変わらず、耳触りのいい言葉ばかりを並べる。インフラエンジニア気取りの傲慢な発想だ。……お前はいつだってそうだ、相馬蓮。目の前で起きている惨劇を『不具合』と呼び、自分の都合のいいように世界を『修正』できると信じ込んでいる」
「……逃げているわけじゃない。俺は現実から目を逸らさないと誓ったんだ」
「目を逸らしていないだと?」
Echoが一歩、前に踏み出した。ザッ、と乾いた足音がドームに反響する。
「お前は何も見ていない。お前が見ているのは、自分が選び取り、生き延びさせてきた『唯一の成功履歴』だけだ。……その背後にどれだけの死骸が積み上がっているか、お前は一度だって数えたことがあるのか?」
「それは……」
「言葉で言っても分からんようだな」
Echoは漆黒の刀身を逆手に握り直すと、星辰鏡面コンソールの直下にある黒辰石の床面へと、容赦なく突き立てた。
ガギィィィィンッ!
金属の破断音とともに漆黒の切っ先が石畳を深く抉る。ドームの床面全体に張り巡らされた星辰回路が、青黒い残差の光を放って脈打ち始めた。
「――見ろ、相馬蓮。これが、お前が踏み台にしてきた『死んだ世界』のすべてだ」
***
「……きゃあっ!?」
リナの悲鳴が上がった。
足元の床面が急速に透明化し、空間のテクスチャが激しく剥離していく。
網膜UIのシステムログが真紅の警告色で埋め尽くされた。
――ERROR: RESIDUAL_MEMORY_OVERFLOW
――BANDWIDTH_UNCONSTRAINED: 104,857 THREADS CONNECTED
――EMOTIONAL_ENTANGLEMENT: FULL_BROADCAST_ACTIVE
――COGNITIVE_DIVE_INITIATED
「空間の位相結合が……全方位に強制接続されている……!」
ミラが胸元を押さえ床に膝をついた。
ミラの銀髪から伸びる光の糸が青黒いプラズマと共振し、濁流のような情報の嵐となって俺たちの脳内へ直接雪崩れ込んでくる。
「くっ……相馬蓮、構えろ……! これは精神攻撃ではない、空間そのものに焼き付いた『履歴の質量』だ……!」
セラの鋭い警告が、しかし途中で激しいホワイトノイズにかき消された。
視界が暗転する。
冷たい風が頬を打った。血と硝煙の混ざり合った、耐えがたい鉄錆の臭いが鼻腔を満たす。
――北境要塞都市ラーナ。
だが、半壊した礼拝堂の中ではない。大結界の発生炉が置かれた管制塔の上だ。
そこに、俺がいた。
血まみれの聖剣イグニスを握りしめ、青白い炎を限界まで噴出させている相馬蓮の姿があった。
『――リナを死なせるわけにはいかない……! 結界出力を最大まで上げろ! 熱量を全部、防壁の位相干渉へ回せッ!!』
その世界の相馬蓮は、リナが虚空槍に貫かれる未来を事前に察知し、結界の防御パラメータを狂気的な値まで書き換えていた。
礼拝堂を覆う防壁は敵の魔導槍を完璧に弾き返した。リナの心臓には傷一つついていなかった。
だが――。
ズズズズズズズッ……!!
要塞の地下から、大地を引き裂くような重低音が響いた。
魔力波束を無理やりに集中させた代償として、地下避難所を支えていた熱力学的バランスが完全に崩壊したのだ。
鈍い発火音とともに、換気口から白熱した高熱ガスが噴き出す。
『熱い……! 助けて……母ちゃん……!!』
何百人もの悲鳴が、一瞬にして炭化する音とともに途絶えた。
避難していたラーナの市民、負傷兵、孤児院の子供たち――三千人を超える命が、リナ一人の防御壁を維持するための熱暴走によって焼き尽くされた。
焦土と化した地下牢の前に、無傷のリナが呆然と立ち尽くしていた。
白衣は灰に塗れ、手には子供たちの焼け焦げた麦わらのお守りが握られていた。
『レン様……どうして、私なんかのために……街の人たちを……みんな……』
『リナさん、違うんだ、俺はただ君を……!』
『私を助けるために……この人たちを焼き殺したんですか……!?』
リナの絶叫が地下道に木霊した。
次の瞬間、リナは瓦礫の隙間に落ちていた折れた槍を拾い上げ、自らの首筋へと突き立てた。
崩れ落ちるリナの身体。吹き出す鮮血の中で、相馬蓮は喉が裂けるほど絶叫し、その場に崩れ落ちた。
救おうとした手が、愛した人間を自決へと追い詰めた。
その男は二度と立ち上がることなく、凍てつく廃墟の中で暗黒の剪定の底へと沈んでいった。
***
「あ……ああああっ……!!」
最深核ドームの石畳の上で、リナが自らの喉元を両手で掻きむしりながら悲痛な叫びを上げた。
その瞳には、自分が自ら命を絶った世界の感触が、鮮血の温もりとともに焼き付いていた。
「私が……私のために、三千人もの人たちが……!?」
「リナさん、見るな! 目を閉じるんだ!!」
俺は叫び、リナを抱き寄せようとしたが、情報の奔流は止まらなかった。
空間が歪み、次の失敗世界線が俺たちを飲み込んだ。
――王都外郭、ヴァルディス砦。
セラの命を奪ったミラの虚空特異点砲。その直前、相馬蓮は事後選択(POSTSELECTION)の初期プロトコルを乱暴に叩き込んでいた。
『セラの生存を境界条件に指定する……! セラが生き残る歴史を今すぐ構築しろッ!!』
未来を先に固定した。その結果、特異点砲の弾道は逸れ、セラは生き残った。
だが――その因果の辻褄を合わせるため、世界はセラの周囲にいた近衛第三小隊の全記録を『最初から存在しなかった歴史』へと書き換えた。
戦闘が終わった砦で、セラが狂乱して走り回っていた。
『私の部下たちはどこだ!? ハロルド! エドガー! 返事をしろ!!』
『セラ隊長、何を言っているのですか? あなたの部隊は最初からあなた一人だけです』
名簿にも、兵舎のベッドにも、彼らの生きた証拠はどこにも残っていなかった。
自分の命と引き換えに部下たちの実存そのものが消された不条理に心を壊されたセラは、夜の闇に紛れて単身敵陣へと突撃し、砲火を浴びて消滅した。
***
さらに別の世界線が、次々と展開された。
仲間を救うために世界線を跳び続け、そのたびに記憶を削られ、最後には自分が日本人であることも救おうとした仲間たちの名前すら忘れ去り、路地裏で壊れた人形のように餓死していった相馬蓮。
十万の軍勢を一人で食い止めようとして魔力回路が逆流し、全身の皮膚が弾け飛んで泥の中で息絶えた相馬蓮。
事後選択の計算破綻を引き起こし、王都の半分を消滅させ、民衆から「悪魔」と罵られながら処刑された相馬蓮――。
星辰鏡面のパネルに、無数のエラーログと死者の数字が点滅していた。
――RECORDED_FAILURE_BRANCHES: 104,857
――TOTAL_CASUALTIES_IN_PRUNED_THREADS: 48,921,040
――OBSERVER_INTERVENTION_DEBT: SATURATED
漆黒の聖剣からプラズマが収束し、視界が現実のドームへと引き戻された。
「……う……あ……」
リナは床に手をつき、止めどなく涙をこぼしていた。
「私が呼吸をしているこの一秒は……あんなにもたくさんの人たちが死んでいった果てに、奪い取ったものなんですか……!?」
「リナさん……」
「……私を救ったことを、私が知らないまま感謝しろっていうの!?」
リナの魂の慟哭が、ドームの静寂を粉々に叩き割った。
俺が「死者ゼロの英雄」として享受してきた温かい居場所のすべてが、選ばれなかった世界線の人々の血肉の上に成り立っていたという告発。
「……リナ神官の言う通りだ」
セラの冷え切った声が重く響いた。セラは宝剣の柄を握りしめ、自らの額に当てていた。
「救われた命の裏に、誰にも知られず消された部下たちの命があるなら……私は自分が生き残ったことを誇ることなどできない。……相馬蓮。誰がお前に、何万もの命の天秤を一人で操作し、誰を生かし誰を切り捨てるかを決める権利を与えたんだ?」
セラの追及は、正確無比な刃となって俺の急所を抉った。
善意を行使するための権限(WORLD_BRANCH_OPERATOR)は、誰からの委託も受けていない不正な権限昇格に過ぎない。俺は神のバグを利用して、自分たちだけが都合よく生き残る世界線を独断で選んできたのだ。
***
「……数理的にも、弁解の余地はないな」
オルドが重いため息とともに口を開いた。
「神のアーキテクチャおける世界線剪定は、計算リソース飽和を防ぐガベージコレクションだ。だが……小僧が特定の生存スレッドを手繰り寄せるたび、周辺の可能世界には膨大なエントロピーの歪みが押し付けられる。……十万を超える失敗世界線、四千八百万人を超える死者。それが小僧の支払わせてきた現実の総コストだ」
俺は胸ポケットの手帳を握りしめた。その重みは、四千八百万の死者たちの墓標のように重かった。
「……分かったか、相馬蓮」
Echoが漆黒の聖剣を床から引き抜いた。
「現実に生きるお前たちは、失敗した世界を『可能性』という都合のいい言葉で呼ぶ。だが、そこで息絶えた俺たちにとっては、その地獄こそが唯一の掛け替えのない『現実』だったんだ」
Echoは漆黒の刃を星辰鏡面コンソールへと向けた。
「権限を捨てろ、相馬蓮。この世界線が百二十日後に剪定されるなら、全員でそれを受け入れろ。……死ぬ時は全員で平等に死ね。それが切り捨てられてきた十万の世界に対する、唯一の筋の通し方だ」
完全な静寂がドームを支配した。
死んだ世界の数。四千八百万の死者と十万の破滅スレッド。その質量を前にして、「全員を救う新しいアーキテクチャ」などという言葉はあまりにも無力に見えた。
だが――俺は下を向かなかった。
震える足を踏みしめ、紅蓮の光を放つ聖剣イグニスを握り直した。
「……平等に死ぬことが、筋を通すことだって?」
俺の声は掠れていたが、ドームの静寂をまっすぐに切り裂いた。
「俺がやってきたことは傲慢だった。俺に世界を選ぶ権利なんてなかった。……だけどな、Echo。『全員で諦めて死のう』なんて結論に、俺は絶対に納得しない」
「……何?」
「死んだ人間への落とし前をつけるために、今生きている人間まで道連れにして死ぬなんて、ただの自暴自棄だ! 俺たちが全員で死んだら、切り捨てられたお前たちは救われるのか!? あの焼け焦げた子供たちや、心を壊されたセラさんやリナさんが、喜ぶとでも思うのか!?」
俺は喉から血が滲むほど叫んだ。
「救われない! お前がやろうとしているのは、過去の死者を言い訳にした全員殺害だ!!」
Echoの瞳に、激しい感情の揺らぎが走った。
「俺は過去をなかったことにはしない。十万の相馬蓮が味わってきた地獄を、俺のこの魂に全部刻みつけてやる。……その負債のすべてを背負った上で、俺は神のシステムと戦う。誰か一人が選ぶ世界でもなく、神が間引く世界でもなく――すべての世界線の人々が、自分たちの意志で未来を選び取れる構造を、俺が実装する!!」
紅蓮の光炎がかつてない輝きを放ち、ドームの闇を焼き払った。
「お前たちの死を、無駄なゴミ箱への廃棄で終わらせてたまるか……! 俺たち全員の命を使って、この狂った世界の仕様そのものを、書き換えてやるッ!!」
二本の聖剣が放つ光と闇が、臨界点を超えて激突しようとしていた。




