第61章 捨てたお前
最深核ドームの凍てつく空気の中に、Echoの突きつけた二者択一が重く沈殿していた。
折れた漆黒の聖剣から立ち上る青黒い残差の粒子が、ドームの床面に刻まれた星辰回路を侵食し、不気味な明滅を繰り返している。
「……選べだと?」
セラの研ぎ澄まされた声が、張り詰めた静寂を切り裂いた。
セラは宝剣の切っ先を微動だにさせず、俺の半歩前に立ちふさがったまま、翠の瞳に鋭い光を宿してEchoを射抜いた。
「ふざけるな。どちらも選ばせるものか。相馬蓮はお前の言いなりになって死ぬことも、心を捨てて壊れることもない。私が……この刃にかけて、この男を守り抜く」
「レン様は……渡しません」
リナもまた、涙で濡れた瞳を拭い、俺の腕を両手で強く抱きしめた。
その細い指先は微かに震えていたが、俺の服を掴む力には、絶対に離さないという確固たる意志が込められていた。
「レン様がどれだけのものを失ってきたか、私は知っています。……レン様が背負ってきた痛みを、これ以上誰にも奪わせたりしません!」
「……はは、勇ましいな」
Echoは乾いた笑い声を漏らし、折れた漆黒聖剣の切っ先を、ゆっくりと石畳の床へと突き立てた。 キン、と澄んだ金属音がドーム内に反響する。
「相変わらず、綺麗事で塗り固められた世界だ。……だがな、セラ隊長。リナ神官。お前たちがそうやって必死に庇い立てしているその男が、一体何の上に立っているのか、本当に理解しているのか?」
「何……?」
セラの眉がかすかに動いた。
「お前たちが『優しい英雄様』だと崇めている相馬蓮はな――自分自身を何十回、何百回と殺して、その死骸を踏み台にしてここまで歩いてきた、世界で一番傲慢な殺人者なんだよ」
***
Echoが柄を握る手に力を込めた瞬間、折れた刀身から黒い衝撃波が同心円状に広がった。
ドームを満たす情動残差のプラズマが激しく渦を巻き、星辰鏡面コンソールの表面が波打ち始める。
空間全体の位相が激しく揺らぎ、俺たちの周囲の景色が、まるで二重露光の写真のようにブレて歪んだ。
「……っ、結合魔法の波形が反転する……!」
ミラが悲鳴に近い声を上げて胸元を押さえた。
「この男の記憶……いいえ、この男の中に蓄積された無数の世界線の情報が、空間そのものへ強制投射されているわ……! 見せられる……切り捨てられた世界の、すべての光景が……!」
視界が急速に色を失い、冷たい雪と血の匂いが鼻腔を突いた。
――そこは、北境要塞都市ラーナの、半壊した礼拝堂だった。
ステンドグラスは粉々に砕け散り、外からは北方軍の咆哮と爆撃音が地響きを立てて迫っている。
床には、胸を虚空槍で貫かれ、冷たくなっていくリナの遺体が横たわっていた。
そして、その傍らに膝をつき、狂乱して泣き叫んでいる一人の男の姿があった。
――相馬蓮だ。
ボロボロに引き裂かれたスーツを着て、動かなくなったリナの手を握りしめ、喉が千切れるほど絶叫している。
『リナ……! 嘘だろ、頼むから目を開けてくれ……! 治癒魔法……コマンドが通らない……なんでだよ……!』
その男の網膜には、俺が見たのと全く同じエラーログが表示されていた。
だが、その男の手元には、真鍮製のエントロピー検知計も、世界線を跳躍する管理者権限(WORLD_BRANCH_OPERATOR)の起動トリガーも存在しなかった。
あるいは、跳躍の存在に気づく前に、大結界が完全に崩壊したのだ。
礼拝堂の扉が轟音とともに吹き飛び、北方軍の魔導重装兵たちが雪崩れ込んできた。
男はリナの遺体を庇うように覆いかぶさり、何本もの槍に背中を貫かれた。
血反吐を吐きながら、冷たくなったリナの頬に触れ、絶望の涙を流しながら息絶えていく。
『……あ……あ……リナ……ごめん……な……』
男の意識が途切れた瞬間、世界全体が粗いモザイク状に崩壊し、暗黒の底へと沈んでいった。
神のシステムによる、世界線剪定――メモリ解放)だ。
「あ……あぁ……っ」
リナが両手で口を押さえ、膝から崩れ落ちそうになった。
自分が死んだ世界。そして、自分を救えずに、自分の遺体の上で無残に殺されていった相馬蓮の姿。
その圧倒的な絶望の光景が、リナの魂を容赦なく打ちのめす。
「これが、最初の世界線で取り残された『俺』の末路だ」
Echoの声が、氷のように冷たく響いた。
「お前はあの時、リナが死んだという現実から逃げ出し、リナが生きている都合のいい世界へと世界線移動した。……だがな、お前が捨てていったあの世界線の俺は、リナの冷たい手を握りしめたまま、飢えと恐怖の中で槍に刺されて死んだんだよ」
***
投射される光景は、止まらなかった。
空間が再び波打ち、今度は王都外郭・ヴァルディス砦の救護所が映し出された。
ミラの虚空特異点砲の直撃を受け、瓦礫の下で息絶えているセラの姿。
血まみれの宝剣の傍らで、発狂したようにセラの名前を叫ぶ相馬蓮。
『セラ隊長……! 起きてくれ、頼む……! 俺のせいで……俺がもっと早く気づいていれば……!』
その世界線の相馬蓮は、二度目の世界線跳躍を行わなかった。
セラを失った絶望に心を壊され、直後に砦へ突入してきた大型装甲魔獣の顎に噛み砕かれ、肉片となって散った。
そして、その世界線もまた、剪定の暗黒へと沈んでいった。
「私が……死んだ後の、レン……」
セラが息を呑み、胸の装甲を強く掴んだ。
自分の死によって発狂し、無残に食い殺されていった相馬蓮の姿に、セラの唇から血が滲むほど噛み締められる。
「まだまだあるぞ」
Echoは冷酷に手を振った。
ドームの空間に、無数の世界の断片が、万華鏡のように展開された。
王都北門で十万の猛攻を防ぎきれず、市民もろとも業火に焼き尽くされた相馬蓮。
事後選択の計算破綻によって、街ごとワイヤーフレームの虚無へと飲み込まれ、発狂して自ら喉を掻き切った相馬蓮。
仲間を一人も救えず、最後には自分が誰であるかも完全に忘れて、廃人となって路地裏で凍死した相馬蓮――。
何十、何百という世界線で、無惨に死に、絶望し、切り捨てられていった相馬蓮たちの最期が、ドーム全体を埋め尽くしていた。
「……これが、お前が『世界線移動』という特権を使って切り捨ててきた、すべての残骸だ」
Echoが俺を一歩、指差した。
「お前はいつもそうだ。『俺が記憶を失うだけで全員が救えるなら安い』……そうやって自分を悲劇の主人公に仕立て上げ、自己犠牲の美酒に酔いしれてきた。だがそれは真っ赤な嘘だ! お前が救ったのは、お前の目の前にいる『今の世界の仲間』だけだ! お前が世界線を渡るたびに、お前自身の手で切り捨てられた無数の仲間と、無数の『相馬蓮』が、地獄の底に置き去りにされてきたんだよ!!」
「う……ぐ……っ」
俺の喉から、苦悶の呻きが漏れた。
頭が割れそうに痛い。
俺の網膜UIに、かつてないほどの激しいノイズが走る。
記憶領域には存在しないはずの、何百回もの死の激痛、内臓を引き裂かれる感覚、凍え死ぬ絶望が、残差層の情動共振を通じて、俺の神経系へと直接逆流してくる。
「お前は、死者ゼロの英雄なんかじゃない」
Echoの声が、耳元で至近距離から響いた。
――あの日、北門の回廊で耳元に響いたあの声。
『また捨てたな』
『東京も母の声も友達も全部捨てて……』
『俺たちを置き去りにして hero 気取りか』
鏡の向こうから、冷たい視線で俺を見つめていたあの口元。
すべてが繋がった。
あれは幻聴でも、精神衰弱による錯覚でもなかった。
切り捨てられた全世界線の相馬蓮たちの叫びと怨嗟が、残差層に沈殿し、ひとつの巨大な複合体となって、世界線の境界を越えて俺を観測し続けていたのだ。
「お前は、自分自身の死骸の山の上に王座を築き、その上で『誰も死なせなかった』と微笑んでいるだけの……ただの偽善者だ」
***
「……違う……」
俺は震える膝に力を込め、石畳から立ち上がろうとした。
だが、足元が激しく揺らぎ、力が入らない。
Echoの言葉は、一言一句が正論だった。
俺が世界線を跳躍するたびに、過去の世界線は消滅したのではない。
剪定され、神のシステムのゴミ箱に放り込まれ、そこにいた相馬蓮たちと仲間たちは、最悪の結末を最後まで味わわされたのだ。
俺はただ、自分の観測の中心だけを都合よく切り替えて、破滅の責任から目を背けていただけだった。
「……レン様……」
リナが、俺の足元に跪き、俺の手を両手で包み込んだ。
リナの涙が、俺の手の甲に止めどなくこぼれ落ちる。
「ごめんなさい……レン様……! 私が弱かったから……私が死んでしまったから、レン様はそんなにもたくさんの自分を殺さなければならなかったのですね……! レン様が悪いんじゃありません……! 責められるべきなのは、レン様にそんな残酷な選択を強いた、この世界の理不尽です……っ!」
「……そうだ」
セラもまた、剣を握り直してEchoの前に立った。
その声には、深い悲哀と、それ以上の激しい怒りが込められていた。
「相馬蓮が背負ってきた罪があるというなら、それは私たちが共に背負うべきものだ。この男が世界線を跳び、己を削ってまで繋ぎ止めてくれたこの命……私は絶対に偽善などと呼ばせない!」
「……相変わらず、涙ぐましい絆だな」
Echoは冷笑を浮かべ、漆黒の聖剣をゆっくりと両手で構えた。
「だが、感情論で事実は消えない。……なあ、相馬蓮。俺たちがなぜ、このノクタ遺構の最深部でお前を待っていたか、分かるか?」
「……俺を、殺すためか?」
俺は掠れた声で問い返した。
だが、Echoは小さく首を横に振った。
「違うな。お前を殺したところで、切り捨てられた俺たちの世界が戻るわけじゃない。……俺たちの望みは、たったひとつだ」
Echoの瞳に、昏く、研ぎ澄まされた光が宿った。
「その手にある聖剣イグニスと、お前が世界を弄ぶために使ってきた管理者権限――【WORLD_BRANCH_OPERATOR】を、今すぐ完全に破棄しろ」
「……何……?」
オルドが目を見張った。
「権限の……破棄だと?」
「そうだ」
Echoはドームの中央、星辰鏡面コンソールを指差した。
「この残差層の最深核にある初期コンソールを使えば、勇者に付与された管理者権限を恒久的に消去できる。……お前が世界線を渡る力を失えば、もう二度と、都合のいい世界への逃避も、切り捨てられる新しい『俺たち』も生まれなくなる。お前はただの、一人の無力な人間として、この世界で死ぬ権利を取り戻すんだよ」
***
ドーム全体の星辰回路が、かつてないほどの臨界振動を始めた。
キィィィィン、という耳を劈く高周波の共振音が響き渡り、空間のテクスチャが激しく剥離していく。 足元の石畳が半透明になり、その下層に沈殿する無数の世界線の光の糸が、網の目となってドーム全体を包み込んだ。
視界の端で、網膜UIのシステムログが凄まじい速度でスクロールする。
――PHASE_SHIFT: TRANSIENT_VOID -> RESIDUAL_CONTACT
――TARGET_BRANCH_ID: BR-044 [RESIDUAL CONTACT]
――STATUS: COHERENCE_MESH_INTERSECTING
――OBSERVER_COUNT: 5 (REN, RINA, SERA, ORDO, MIRA) vs 1 (COMPOSITE_ECHO)
世界線が、動いている。
ノクタ遺構の最深核が、現実の空間と残差層が直接接触する特異領域――【BR-044(Residual Contact)】へと、完全に位相を接続しようとしていた。
「さあ、決めろ、相馬蓮」
Echoが折れた漆黒聖剣の切っ先を、真っ直ぐに俺の胸へと突き出した。
「権限を破棄して、残された仲間と共に、最初で最後の現実を受け入れるか。……それとも、俺たちすべての相馬蓮を踏み躙って、神の操り人形として永遠に偽りの英雄を続けるか」
ドームを満たす無数の相馬蓮たちの視線が、俺の一点に突き刺さる。
俺は、リナの温かい手の感触を確かめた。
隣に立つセラの凛とした気配と、背後で見守るオルドとミラの息遣いを感じた。
胸ポケットの手帳――リナが『証拠の人』として署名してくれた、俺が相馬蓮であることの唯一の証明書。
俺は、失われた日本の記憶を思い出すことはできない。
駄菓子屋のアイスも、理科室のダジャレも、母との約束も、俺の頭からは消え去ってしまった。
そして、俺が世界線を跳ぶたびに、無数の俺自身が地獄に取り残されてきた事実も、決して消すことはできない。
だが――。
「……断る」
俺は、震える足で石畳をしっかりと踏みしめ、顔を上げた。
「……何?」
Echoの眉が険しく寄った。
「俺は、権限を捨てない。……お前たちの叫びから目を逸らして、無力な人間に戻って逃げることもしない」
俺は聖剣イグニスの柄に手をかけ、ゆっくりと引き抜いた。
刀身に宿る紅蓮の光炎が、ドームの闇を切り裂く。
「俺は、お前たちを否定しない。お前たちが味わってきた地獄も、絶望も、俺が背負うべき罪だ。……だからこそ、俺は諦めない。世界線を切り捨てるのでも、過去をなかったことにするのでもない。……お前たちも、この世界の仲間も、すべてを繋ぎ止めて救い出すための『新しいアーキテクチャ』を、俺が設計して実装してみせる!」
紅蓮の光と漆黒の残差が、ドームの中央で激しく激突した。




