第60章 俺しか知らない冗談
最深核ドームの静寂の中、Echoが構えた折れた漆黒の聖剣から、黒い粒子のような魔力の残滓が立ち上っていた。
その魔力は、通常の魔導士が放つような整然とした波動ではない。 無数の世界線で切り捨てられ、剪定された相馬蓮たちの怨嗟、恐怖、未練、そして失われた日常の残差が、高密度の情動プラズマとなって空間を歪めていた。 ドームの床面に刻まれた星辰回路が、Echoの足元からパチパチと青黒い火花を散らし、幾何学的な光のリングが不規則に脈動を始めている。
「……くっ、何という重圧……!」
ミラが額に冷汗を浮かべ、胸元を押さえながら後退った。
「私の結合魔法が……この男の存在そのものと共振して、悲鳴を上げているわ。このドーム全体、いいえ、この残差層に沈殿するすべての情動エネルギーが、この男一点に集約されている……! 北方のどの戦士よりも、どの犠牲者よりも、深く暗い傷を負っている……」
「……構えろ、レン」
セラが俺の前に一歩踏み出し、宝剣の切っ先をEchoへと向けた。
その引き締まった横顔には、かつてないほどの警戒と緊張が張り詰めている。
「奴の魔力波形は異常だ。単なる並行世界の残像ではない……このドーム全体の残差エネルギーと完全に同調している。一撃でも食らえば、存在そのものの位相を狂わされるぞ」
「ふ……相変わらずだな、セラ隊長」
Echoは剣先を僅かに下げ、乾いた笑い声を漏らした。
「お前はいつだってそうだった。白霜砦が落ちた時も、ラーナ要塞の城壁の上でも、いつも真っ先に前に出て、部下の命を背負おうとしていた。……だからこそ、お前があの救護所で特異点砲の直撃を受けて倒れた時、俺たちの世界は終わったんだ」
「……何……?」
セラの眉がかすかに動いた。
自分が一度死んだ世界線の真実。それを目の前の男が、まるで昨日のことのように生々しく覚えている。その事実に、気丈なセラの瞳に痛烈な動揺が走る。
「私が……死んだ世界線……?」
「ああ。お前の心臓が止まった瞬間、この男は狂乱して世界線を跳んだのさ。お前が死ななかった世界へと逃げ込み、お前が死んだあの世界ごと、俺たちをここに置き去りにしたんだ。お前を救うために、こいつは東京の友人たちの名前と、オルド先生と過ごした最初の記憶を切り捨てたのさ」
Echoの言葉に、セラは息を呑み、胸元を強く押さえた。
自分が生きているこの現実の裏に、どれほどの代償と切り捨てられた世界が存在したのか。その重圧が、セラの心を激しく揺さぶる。
だが、セラは唇を噛み締め、震える切っ先を再び真っ直ぐに突き出した。
「……だが、それでもレンは前を向いてきた! 私たちが生きているこの世界を守るために、己のすべてを削りながら戦ってきたんだ!」
「その結果がこれさ」
Echoはセラの言葉を嘲笑い、ゆっくりと視線を俺へと戻した。
「戦う前に、少し昔話をしようじゃないか、相馬蓮」
「……昔話だと?」
「そうだ。お前が世界線を渡るたびに、まるで使い捨てのレシートみたいに投げ捨てていった、お前自身の過去の話だ」
***
Echoは折れた剣を床に突き立て、両手を広げた。
その瞳の奥には、遥か遠い異郷の空が映っているようだった。
「小学四年生の夏休み。猛暑の八月、夕暮れの蝉の声がうるさい坂道の途中だ。近所の駄菓子屋の店先で、五十円玉を握りしめて買ったソーダ味の二本割りアイスを、友達と半分こしようとして失敗したのを覚えているか?」
「……っ?」
俺の頭の奥で、激しい走査線ノイズが走った。
駄菓子屋。ソーダアイス。五十円。八月の夕暮れ。
言葉の意味は分かる。日本語として理解できる。だが、その情景も、その時一緒にいたはずの友達の顔も、何ひとつ映像として立ち上がってこない。
頭の中のデータ領域が、完全にフォーマットされたストレージのように、真っ白な空白を返してくる。
「綺麗に真ん中で割れなくてさ、片方が地面のアスファルトに落ちちまったんだよな」
Echoは懐かしそうに、目を細めて語り続けた。
「砂まみれになったアイスを見て、お前は泣きそうになりながら、残った短い方を友達に差し出した。『俺、お腹痛かったからちょうどいいや』なんて、下手くそな嘘をついてさ。友達が笑ってアイスをかじった時、お前は少しだけ誇らしかった。……自分を削って誰かに譲ることで、自分の存在価値を確かめる。お前のその『自己犠牲の救済中毒』は、あの頃から何も変わっちゃいないんだよ」
「やめろ……」
俺はこめかみを強く押さえた。
激しい頭痛が頭蓋を締め上げる。
思い出せない。思い出せるはずがない。
それなのに、胸の奥底で、何かが激しく軋み、疼いていた。
「中学二年生の秋、文化祭の前夜の理科室」
Echoの声は、冷酷なまでに鮮明にドームに響き渡った。
「中間テストが近くてさ、元素記号の暗記表を見ながら、友達とくだらないダジャレを言い合って笑い転げていたよな。『水兵リーベ僕の船』……お前は何て言った? 『でも俺たちの乗ってる泥舟は、テストの荒波で沈没確定だな』って。……くだらない、本当にくだらない冗談だ。だが、あの時お前たちは、薄暗い理科室のビーカーをカタカタ鳴らしながら、腹が痛くなるほど笑い転げていた」
「レン様……」
リナが両手で口元を覆い、大粒の涙をポロポロとこぼした。
「私……覚えてます……! ラーナの兵舎の夜、暖炉の前でカファ・アプルを飲んでいた時、レン様が星を見上げながら、ポツリと教えてくださったことがありました……! 『昔、泥舟の冗談を言って友達と笑い転げたんだ』って……!」
リナが震える手で懐から手帳を取り出し、ページをめくった。
そこには、かつてレンが口にした言葉が、リナの丁寧な文字で書き留められていた。
だが、俺自身の脳内には、その記憶の原本が存在しない。
自分が笑っていた光景も、その友達の声も、理科室の匂いすらも、すべてが虚空へパージされていた(MEM-REN-001/003喪失)。
「そして――大学を卒業して、東京の小さなIT企業でシステムエンジニアとして働いていた日々のことだ」
Echoは淡々と、俺の失われた青春を紡ぎ出した。
「冬の夜勤明け、冷え切った高層ビル群の隙間から昇る朝焼け。コンビニで買った温かい肉まんを二人で分け合いながら、同期のやつと『いつか世界を変えるような凄いシステムを作ろうな』って語り合ったこと。……そして、中央線の黄色い各駅停車の中でのことだ」
Echoの瞳に、昏い炎が燃え上がった。
「夕暮れの吊り革に掴まりながら、お前は母さんからの電話を受けた。『蓮、次の週末は帰ってこられるの?』……お前はスマホを耳に当てながら、少し面倒くさそうに答えたよな。『来月には帰るよ、手土産に美味いプリンでも買ってくよ』って」
「あ……」
俺の喉から、掠れた声が漏れた。
「だけど、お前はその約束を果たせなかった。次の週末を迎える前に、この世界へ召喚されてしまったからだ」
Echoは一歩、俺へと歩み寄った。その顔は、激しい怒りに歪み、同時に泣き出しそうなほど悲痛に歪んでいた。
「お前は、母さんに謝ることも、プリンを渡すこともできなかった。……そして今のお前は、母さんの顔も、声も、その時の後悔すらも、全部綺麗さっぱり忘れちまったんだよ! お前が『死者ゼロ』の英雄様になるために、母さんとの最後の約束すら、ゴミ箱へ叩き込んだんだ!!」
***
「う……あぁぁぁ……っ!!」
俺は膝をつき、石畳を両手で激しく叩いた。
思い出せない。
母さんの顔も、中央線の電車の揺れも、黄色い車体も、スマホの感触も、朝焼けの肉まんの匂いも、何ひとつ思い出せない。
頭の中を探せば探すほど、走査線の砂嵐とエラーログが視界を埋め尽くす。
それなのに、胸の奥が張り裂けそうに痛い。
失われたはずの記憶の重みが、Echoの言葉を通じて逆流し、俺の実存を粉々に砕いていく。
「レン様……っ! レン様ッ!!」
リナが駆け寄り、俺の震える肩を抱きしめた。
リナの温かい涙が、俺の首筋に落ちる。
「思い出せなくていいんです……! レン様がどれだけ大切なものを削って私たちを救ってくださったか、私は全部知っています! 私が……私が一生かけて、レン様の命の証拠になりますから……っ!!」
「ごめんなさい……レン様……」
リナの声が嗚咽に濡れた。
「私が……あのラーナの礼拝堂で死んでしまったから……レン様はそんなにも苦しい思いをして、自分を捨ててしまったのですね……! 全部、私のせいです……ッ!」
「違う、リナさん……! お前のせいじゃない……!」
俺は必死に声を絞り出した。だが、目の前のEchoが冷笑を浮かべて遮った。
「無駄だよ、リナ神官」
Echoは冷たく言い放った。
「他人がどれだけ手帳に記録しようと、本人の魂から欠落したデータは戻らない。……こいつはもう、自分の過去を語る資格すら失った、空っぽの抜け殻なんだ。お前たちが崇めているのは、相馬蓮という人間の残骸に過ぎない」
「……落ち着きなさい、リナ嬢」
沈黙を守っていたオルドが、静かに進み出てリナの肩に手を置いた。
その目には、学究としての冷徹な観察眼と、深い哀悼の色が宿っていた。
「貴様は……単一の世界線の残影ではないな」
「ほう?」
Echoが片眉を上げた。
「オルド先生、何が言いたい?」
「お前が語った記憶は、あまりにも完全すぎる。……蓮の小僧が世界線を跳ぶたびに、パージされた記憶の断片は、この残差層へと情報エントロピーとして沈殿した。そして、破滅したすべての世界線で切り捨てられた『相馬蓮』たちの意識が、その沈殿した記憶を核として寄り集まり、ひとつの統合意志を形成した……。そうだろ?」
オルドは干渉計を掲げ、Echoの波動関数を指し示した。
「貴様は……【全世界線の相馬蓮たちの情報残差の複合体(Composite Echo)】だ」
ドーム内に、冷たい風が吹き抜けた。
Echoはふっと自嘲気味に笑い、オルドを認めるように頷いた。
「さすがだな、オルド先生。正解だよ」
Echoは折れた漆黒の聖剣を、再び俺へと向けた。
「俺は、お前が切り捨てたすべての『俺』の叫びだ。……そして、お前が捨てた日本の記憶の、世界で唯一の保管場所だ」
Echoの瞳が、冷酷な決意を宿して細められた。
「さあ、選べよ、相馬蓮。……俺を聖剣で切り捨てて、完全な空っぽの戦闘機械になるか。それとも、お前のその都合のいい命を俺に明け渡して、すべてを終わらせるか」
究極の問いが、最深核のドームに重く突き刺さった。




