第59章 鏡から出る
回廊の出口を抜けた瞬間、俺たちの視界を圧倒したのは、天球儀の内部をくり抜いたような広大な円形ドーム空間だった。
ドームの天井には、幾何学的な軌道を描く青白い光のリングが何重にも回転し、床面には星辰石の微細な回路がびっしりと敷き詰められている。
この遺構の外で吹き荒れる吹雪も、回廊を満たしていた剪定者たちの怨嗟の声も、このドームの中には届かない。
ここだけが、神の観測網からも、世界線の乱気流からも完全に隔離された、絶対的な静寂の聖域だった。
「……ここが、ノクタ遺構の最深核……」
リナが杖を胸元で握りしめながら、圧倒されたようにドームの天井を見上げた。
その瞳に、天頂で回転する幾重もの光輪が青白く反射している。
「間違いない」
オルドが早足でドームの中央へと駆け寄り、眼鏡のブリッジを押し上げながら息を呑んだ。
「見ろ、あの祭壇を。王都の静定保管庫にあった初期仕様書に記されていた、『初期ステージング環境のルート・コンソール』そのものだ! 神がこの世界の物理定数や因果律を本番展開する前に、パラメータを調整していた実験台だ。教会の観測網が一切及ばない完全なオフライン環境だ」
ドームの中央には、黒辰石を削り出して作られた巨大な円形の祭壇が鎮座していた。
祭壇の天面には、傷ひとつない鏡のように磨き上げられた巨大な黒辰石の円盤――【星辰鏡面コンソール】が埋め込まれており、その周囲には初代勇者が残したとされる、半透明樹脂のアクセスポートが配置されている。
「ミラ、頼めるか?」
セラが腰の宝剣に手を添えたまま尋ねると、ミラは静かに頷き、祭壇のコンソールへと歩み寄った。
「ええ。このコンソールに私の結合魔法を直結させて、王都の保管庫とラーナ要塞の第二ノードへ『エンタングルメント・リンク』を張る。……そうすれば、教会の観測プロキシに邪魔されることなく、三点同期メッシュを展開できるわ」
ミラが指先の魔導リングを掲げ、淡い銀色の魔力光をコンソールの端子へと流し込み始めた。
カチッ……カチカチッ……と、石造りの祭壇の内部で、古代の機構が目覚めるような微細な駆動音が響き渡る。
ドームの床面に刻まれた星辰回路が、青白い光を放ちながら次々と点灯し、空間全体の魔力密度が急上昇していく。
「よし……接続シーケンスは順調だ」
オルドが干渉計で魔力波の位相を確認しながら声を弾ませた。
「勇者殿、コンソールの中央に手をかざしてくれ。お前の聖剣イグニスが持つ管理者ロール(WORLD_BRANCH_OPERATOR)の認証を通せば、メッシュの展開権限が確定する!」
「分かった」
俺は息を吸い込み、祭壇の中央――磨き上げられた黒辰石の鏡面盤の前へと進み出た。
これで、すべてが終わる。
神の世界線剪定を遮断し、誰も死なない世界を恒久的に固定できる。そう信じて疑わなかった。
***
鏡面盤の前に立ち、真下を覗き込んだ。
漆黒の石の表面には、俺自身の姿がくっきりと映し出されていた。
黒いスーツの上から聖具アーマーを纏い、左胸には東京のエンジニア時代から身につけていた社員証のストラップ。右手には聖剣イグニス。
日本の記憶を削られ、母の声すら思い出せなくなった、現在の相馬蓮。
俺が右手を掲げ、コンソールの中心へと伸ばそうとしたその時だった。
パチッ……!
鏡面盤の表面に、鮮烈な青白い走査線ノイズが走った。
「――ッ!?」
俺の背筋に、氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。
このノイズ。この走査線のチラつき。
かつて王都を出陣する前夜、深夜の聖鏡の間で見た、あの奇妙な描画遅延。
そして北方防衛戦の最中、貴賓館の洗面台の鏡で、自分の唇が勝手に動いた時の、あの冷酷な位相のズレ――。
ザザッ……ザザザッ……。
鏡の中の俺が、動かない。
俺は右手を伸ばしている。だが、鏡の底に映る相馬蓮は、右手をだらりと下げたまま、微動だにしていなかった。
俺が息を呑んだ瞬間、鏡の中の相馬蓮は、俺より一拍早く、ゆっくりと瞼を開いた。
「……レン様……?」
背後から近づこうとしたリナの声を、セラが鋭く制した。
「待て、リナ! 近づくな!」
「セラ隊長……!?」
「見ろ、あの鏡面盤を……! 位相が……空間の因果律が、鏡の内外で完全に断裂している!」
セラの叫び声がドームに木霊する。
鏡の中の相馬蓮が、ゆっくりと口元を歪めた。
俺が笑っていないのに、鏡の中の男だけが、昏い愉悦に満ちた冷笑を浮かべていた。
『――やっとここまで来たな、相馬蓮』
鏡の底から、直接頭蓋へと響くような声が届いた。
鏡の中の男が、ゆっくりと右手を持ち上げる。
その男の着ているスーツは、俺のものとは決定的に違っていた。
所々が焼け焦げ、胸元には黒く凝固した返り血がべっとりとこびりつき、両肩の聖具アーマーは無残に砕け散っている。
そしてその腰には――かつてラーナ要塞の礼拝堂でリナを貫いた虚空槍を受け止め、折れて刀身の半分を失ったはずの、漆黒の聖剣の残骸が差されていた。
「お前は……」
俺が声を震わせると、鏡の中の男はふっと冷たい息を漏らした。
『気づいているんだろ? ずっと前から、お前のすぐ側にいたのさ』
パリン……ッ!!
硬質なガラスが粉々に砕け散るような、甲高い空間破断音がドーム内に炸裂した。
黒辰石の鏡面盤の表面が、水面のように大きく波打ち、そこから黒い光の飛沫が噴き上がる。
そして――
鏡の境界線を踏み破り、ひとつの影が、現実の床面へと降り立った。
***
コツン、と硬い靴音が石畳を叩いた。
ドーム内の空気が一瞬にして凍りつき、重力加速度が狂ったように空間が軋んだ。
目の前に立つ男は、紛れもなく「相馬蓮」だった。
身長、体格、骨格、顔の造作に至るまで、俺と寸分違わない。
だが、その男が放つ存在の気配は、この世のあらゆる絶望と怨嗟を煮詰めたように黒く、重かった。
「……信じられん」
オルドが干渉計を落としそうになりながら、戦慄の声を絞り出した。
「鏡像ではない……! 独立した量子状態と波動関数を持った、完全な実体だ……! だが、同一人物の波束がひとつの世界線にふたつ同時に実体化するなど、No-Cloning定理に反するはずだ……!」
「No-Cloning定理?」
現れた男――Echoが、嘲笑を浮かべてオルドを一瞥した。
「そんな教科書通りの理論は、綺麗な本番環境の中だけで言ってくれよ、オルド先生」
Echoは一歩、俺へと近づいた。
その体からは、硝煙と、冷たい血と、そしてかつて俺が東京で嗅いでいたはずの、古い雨の匂いが漂っていた。
「ここは神のゴミ箱だ。世界線移動のたびに切り捨てられ、パージされた俺たちの情報残差が、何千、何万と積み重なった深淵だ。……お前たちが世界線を跳ぶたびに、置き去りにされた俺たちの魂がここで融合し、ひとつの意志として凝縮された。……それが、この俺だ」
「相馬蓮の……残響……」
セラが宝剣の切っ先をEchoの喉元へと向け、鋭く問い詰めた。
「貴様……王都の聖鏡の間や、貴賓館の鏡でノイズを走らせていたのは、貴様だったのか!?」
「ああ、そうだよ、セラ隊長」
Echoはセラの刃を恐れる様子もなく、平然と肩をすくめた。
「鏡というものは、空間の境界が最も薄くなる特異点だ。本番環境の鏡の裏側は、この残差層の天井と直結している。……だから俺は、鏡の向こう側から、ずっとお前たちを観測していたんだ」
Echoの冷たい双眸が、俺を射抜いた。
「お前が王都で『死者ゼロ』の奇跡を誇らしげに語っていた時も」
「お前がリナを救うために日本の記憶を捨てて、母親の顔すら忘れていく無様な姿も」
「全部……鏡の向こうから、笑いながら見届けていたのさ」
脳裏に、これまでの記憶が一閃した。
王都での出陣前夜、鏡の向こうで感じた説明のつかない視線。
防衛戦の最中、鏡の中の男が『次は誰を殺す?』と冷ややかに囁いた戦慄。
それらはすべて、幻覚でもシステムエラーでもなかった。
切り捨てられた過去の俺自身が、鏡の裏側の深淵から、ずっと俺を凝視し続けていたのだ。
「……なぜだ」
俺は拳を強く握りしめ、目の前の自分自身を睨みつけた。
「なぜ俺たちの前に現れた? 俺たちは、神の世界線剪定を止め、誰も切り捨てられない新しい世界を作るためにここへ来たんだ! お前たちのような犠牲者を二度と出さないために……!」
『笑わせるなよ、偽善者が』
Echoの瞳に、氷のような憎悪の炎が灯った。
『誰も切り捨てられない世界だと? ……じゃあ、お前が救うその世界の中に、すでに切り捨てられて死んだ俺たちの居場所はあるのか?』
「――ッ!」
『ないだろ。お前が作ろうとしているのは、今生きている数人だけを囲い込んだ、都合のいい箱庭に過ぎない。……お前が hero でいるために、どれだけの俺たちが死んでいったか、お前は本当に理解しているのか?』
Echoの言葉に、リナが一歩前に進み出た。
その瞳には、恐怖ではなく、痛切な悲しみが湛えられていた。
「あなたは……レン様なんですね……? 私を救うために、あの冷たい礼拝堂に置き去りにされた……最初のレン様なんですね……!?」
Echoはわずかに視線を動かし、リナを見つめた。
その瞳が一瞬だけ、かつて俺がリナに向けていたような、痛ましいほど優しい色を帯びた。
だが、それはすぐに凍てつくような冷笑へと塗りつぶされた。
『リナ……お前は何も知らなくていい。お前はただ、あの男が買い取った綺麗な世界で、幸せそうに笑っていればいいんだ』
Echoはそう吐き捨てると、折れた漆黒の聖剣をゆっくりと構えた。
その刃から、黒い情動の燐光が立ち上る。
「お前が捨ててきた世界線の数を知っているか?」
Echoは冷たく言い放ち、左胸の破れた社員証を指先で弾いた。
「リナが死んだBR-000。セラが死んだBR-014。……お前は痛みに耐えかねて逃げ出し、その世界ごと俺たちをここに置き去りにした。お前の手帳に書かれた綺麗な記録の裏には、何千もの死体が積み上がっているんだよ」
「……逃げたんじゃない!」
俺は叫んだ。
「俺は、目の前で死んでいく仲間を諦められなかっただけだ! 悪魔になってでも、救いたかったからだ!」
「その結果が、母親の顔すら思い出せない空っぽの肉体か?」
Echoの嘲笑が、俺の胸の最も柔らかい部分を容赦なくえぐり抜いた。
『お前しか知らない記憶……お前が綺麗さっぱり忘れてしまった、あの日の話をしようか、相馬蓮。……俺たちが何を失い、何を捨ててきたのかを、すべて思い出させてやる』
絶対零度の殺気と、失われた過去の記憶の重圧が、ドーム全体を押し潰すように満ちていった。




