第58章 母さんの口癖
耳の奥にこびりついた冷たい嘲笑が、いつまでも消えなかった。
「……ハァッ……ハァッ……!」
床に膝をついたまま、俺は荒い息を吐き出していた。
額から噴き出た冷や汗が、石畳の上にポタポタと滴り落ちる。
セラの静定結界によって残差の津波は辛うじて凍結されたが、空間全体に走る青白い走査線ノイズは、今も不気味な明滅を繰り返していた。
「レン様! しっかりしてください、レン様……!」
リナが駆け寄り、必死の形相で俺の肩を抱き起こしてくれた。
彼女の華奢な手が俺の腕を支え、震える指先から淡い治癒の光が注ぎ込まれる。だが、頭蓋の奥で鳴り響く強烈な耳鳴りは、魔法の光ですら鎮めることができなかった。
「……相馬蓮、立てるか」
抜剣したまま周囲を警戒していたセラが、鋭い視線を投げかけてくる。
「何が起きた? お前の意識領域に、外部から異常な位相干渉が叩き込まれていたぞ」
「……あいつが、いたんだ」
俺はかすれた声で答えた。
「この闇の奥に……俺自身の声をした『何か』が、俺を見ていた……」
「あなた自身の残響(Echo)よ」
ミラが指先の魔導リングを巡らせ、回廊の奥の闇を凝視しながら告げた。
「この先から、信じられないほど高密度の感情残差が集結している。……あなたがこれまでの世界線跳躍で切り捨ててきた記憶と情動が、神のシステムのゴミ箱でひとつの意志を形作り始めているの。早く行きましょう。この場所に長く留まれば、空間の残差に意識ごと呑まれる」
「ああ……行こう」
俺はリナの手を借りて立ち上がり、聖剣イグニスの柄を強く握り直した。
***
祭壇の奥に口を開けた巨大な回廊へと足を踏み入れた。
そこは、まるで巨大な生体器官の内部を歩いているかのような、重苦しい圧迫感に満ちていた。
黒辰石と半透明の樹脂プレートが網目状に張り巡らされた壁面には、王国の公用語でも古代語でもない、神のシステムエラーを示すコードが青白い光を放ちながら滝のようにスクロールしている。
足元の床面は、濃紺の液体のように透き通っており、歩くたびに微弱な電磁ノイズが足首をチクチクと刺激した。
そして何より異様なのは、回廊を満たす「音」だった。
ザザッ……ザザザッ……。
壊れた短波ラジオのチューニングを合わせているような、微細なホワイトノイズが絶え間なく空間を満たしている。
そのノイズの隙間から、掠れた無数の声が混線して聞こえてくる。
『……お父さん、どこ……?』 『……痛い、誰か助けて……』 『……明日、畑の麦を刈る約束だったのに……』
神の世界線剪定によって歴史から消去された、何十万もの人々の最後の言葉。
それらが、壁面の樹脂プレートから淡い青い光となって明滅を繰り返している。
「……酷い」
リナが耳を塞ぎそうになるのを、セラがそっとその肩を抱いて前を向かせた。
「聞くな、リナ。囚われれば精神を汚染される。前だけを見ろ」
「はい……セラ隊長……」
オルドが干渉計を掲げ、早足で俺たちの横に並んだ。
「この回廊の構造、王都の静定保管庫にあった初期仕様書の記述と完全に一致しておる。この先にあるのが、初代勇者が神の監視を逃れて設置した『中枢アクセス端子』だ。あそこへ到達すれば、三点同期メッシュの起動シークエンスに入ることができる」
「ええ」
ミラが淡々と頷いた。
「私の結合魔法で、王都の静定保管庫、ラーナ要塞の第二ノード、そしてこのノクタの端子を非局所的にリンクさせる。そうすれば、神の剪定パルスが届かない絶対的な防壁が完成する。……でも、あの中枢核には、この空間で最も濃密な『世界の残りもの』が溜まっているわ」
回廊を進むにつれて、空間の歪みはさらに激しさを増していった。
時折、宙空に半透明の家屋や、折れた街灯、敷石の破片が蜃気楼のように浮かび上がっては、ノイズとともに消え去っていく。
まるで、かつて存在した無数の世界線の断片が、互いに境界を失って溶け合っているかのようだった。
やがて、回廊が大きく右へと湾曲し、突き当たりの広大な吹き抜け空間に差し掛かった。
その時だった。
プツッ……と、それまで響いていた無数のノイズが、一瞬にして途絶えた。
完全な無音。
心臓の鼓動すら空間に吸い込まれそうな絶対静寂の中、暗闇の奥――前方の空間の裂け目から、信じられないほど明瞭な、ひとつの「声」が響き渡った。
『――ご飯の前には、ちゃんと手を洗いなさいよ、蓮』
「――ッ!?」
俺の全身の血液が、一瞬で逆流した。
それは、ルミナス王国の言葉でも、古代神聖語でもなかった。
俺がかつて母国で使っていた、日本語の発音。
どこか呆れたような、けれど底抜けに温かい、四十代ほどの女性の声。
『……また靴下を脱ぎっぱなしにして。風邪引くわよ』
『……蓮、明日は雨が降るみたいだから、ちゃんと傘を持って行きなさいね』
穏やかな日常の残響。
台所でまな板を叩くトントンという包丁の音や、夕暮れの商店街のざわめき、濡れたアスファルトの匂いまでが、その声の背後から幻影のように立ち上ってくる。
「……レン様……!」
リナが弾かれたように顔を上げ、驚愕に目を見開いた。
「今の声……! 以前、王都の宿舎でレン様が手帳を開きながら、泣きそうな顔で教えてくださった……レン様のお母様の口癖じゃありませんか……!?」
「え……?」
俺は立ち尽くした。 頭蓋の奥で、激しい走査線ノイズが火花を散らしている。
[ALERT: MEMORY_SECTOR_LOOKUP_FAILED]
ADDRESS: MEM-REN-001 (MOTHER_VOICE) -> [NULL_POINTER]
ADDRESS: MEM-REN-002 (CHILDHOOD_HABITS) -> [NULL_POINTER]
IDENTITY_FIDELITY: 0.8300 (UNCHANGED)
網膜UIのエラーログが赤く点滅する。 思い出せない。
リナが「お母様の口癖」だと言ったその言葉。
温かい調子であることは分かる。日本語の音であることも認識できる。
だが――その声の主がどんな顔をしていたのか、どんな名前だったのか、どんな笑顔でその言葉を俺に向けていたのか、俺の記憶のインデックスからは完全に抹消されていた。
言葉の響きだけが空虚に耳を通過し、感情のフックに一切引っかからない。まるで、他人のホームビデオを無感情に見せられているような、底知れぬ断絶感。
「……誰だ……?」
俺の口から、掠れた声が漏れ出た。
「誰の声なんだ、あれは……? 俺は……俺は何も思い出せない……!」
「レン様……!?」
リナが悲鳴のような声をあげた。
「そんな……! あんなに大切そうに、何度も何度も手帳に書き留めようとしていたのに……! 本当にお母様の声すら、思い出せないのですか……!?」
「思い出せないんだ……ッ!」
俺は両手で頭を抱え込み、床に崩れ落ちた。
恐怖。
見知らぬ他人の温かい声が、自分の名前を親しげに呼んでいる。
その親愛の情を受け止めるべき「記憶」の器が、俺の脳内には一片たりとも残っていない。
自分がかつて誰かに愛され、誰かの子供として生きていたという事実そのものが、中身の抜けた空洞となって俺の実存を抉り出す。
「……なんという残酷なことだ」
オルドが干渉計を空間にかざしながら、声を震わせた。
「勇者殿が世界線移動の代償として支払った記憶セクター……パージされた日本の記憶は、この残差層の深淵に完全に沈殿しておる。……そして、その記憶を拾い集めた『何か』が、闇の向こうから勇者殿を観測しておるのだ!」
その時だった。
パチッ……と、空間の裂け目に青白い走査線が走り、母親の声がフッと途切れた。
代わりに、暗闇の奥から、低く冷たい嘲笑が響いた。
『――ふふっ、哀れだな、相馬蓮』
今度は、明瞭な俺自身の声だった。
『母親の声すら忘れて、空っぽの化け物になった男が、よくも偉そうに世界を救うなんて言えたものだ』
「お前は……誰だ……ッ!?」
俺は立ち上がり、聖剣イグニスを闇へと向けた。
『誰だと聞くのか?』
闇の中から、足音がコツン、コツンと近づいてくる。
姿は見えない。だが、空間の歪みの向こう側に、確かに「もう一人の俺」の輪郭が揺らめいていた。
『お前がリナを買い戻すために捨てた、最初の相馬蓮だよ』
『お前がセラを生き残らせるために切り捨てた、二番目の相馬蓮だ』
『お前が全員生存の偽りの平和を掴むために、ゴミ箱へ放り込んだ、過去のすべての俺たちだ……!』
声が重なり合い、何重ものコーラスとなって回廊に木霊する。
『お前が綺麗さっぱり忘れて、 hero の顔をして歩いていられるのは……お前が捨てた俺たちが、この冷たい暗闇の底で、母さんの声も、東京の思い出も、リナを失った絶望も、全部代わりに抱え込んでやり続けているからだ!』
「――ッ!!」
胸を、目に見えない巨大な杭で貫かれたような衝撃が走った。
救済の代償。
忘れることで痛みを逃れてきた俺の背後で、切り捨てられた過去の俺たちが、奪われた記憶のすべてを抱え込んだまま、呪詛の塊となって生き続けていたのだ。
「相馬蓮、聞くなッ!」
セラが宝剣を抜き放ち、俺の前に立ちはだかった。
「惑わされるな! お前が選んできた道がなければ、リナも私も、とっくに死んでいたのだ!」
『そうやって慰め合っていろよ、お人形たち』
闇の中の影が、嘲笑を深める。
『すぐそこだ。最深部の中枢核で待っているぞ、相馬蓮。……お前が捨ててきた世界のツケを、すべて清算させてやる』
フッ……と、走査線ノイズが途切れ、足音と気配が闇の奥へと消え去っていった。
残された回廊には、ただ重苦しい沈黙と、冷え切った空気だけが漂っていた。
「……レン様」
リナが、震える体で俺の腕に縋り付いてきた。
その瞳からは、とめどなく大粒の涙が溢れ出していた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……! 私が……私が生きているせいで、レン様からお母様まで奪ってしまった……!」
「違う……違うんだ、リナさん……」
俺はリナの小さな肩を抱き寄せた。
だが、その声はひどく掠れて、力なく空気に溶けていく。
俺の胸の中にあるはずの故郷の温もりは、もうどこを探しても見つからなかった。
母さんの口癖。
暖かな家庭の匂い。
それらを完全に失った空っぽの体で、俺はこれから、自分自身の残骸と対峙しなければならなかった。




