第48章 出会わなかった二人
午後の日差しが傾き始めた王都ルミナリア。
王宮記録室でユリウス王太子の完全消滅を知った俺たちは、それぞれの所属先で起きている「現実の改変」を確かめるため、一時解散することになった。
セラは近衛騎士団本部へ。
リナは王都大聖堂へ。
そして俺は、魔導院の研究室でオルドと共に、世界全体の因果トポロジーの解析を進めた。
「……小僧。人間関係とは、出来事の相互作用によってのみ定義されるテンソル場だ」
魔導院の黒板の前で、オルドはチョークの粉を払いながら冷徹に告げた。
「共通の過酷な歴史が存在しない以上、人間関係もまた『最も自然で摩擦の少ない基底状態』へと緩和される。……死線を共にしていない人間同士が、身分を越えて親密であるはずがない。世界はそこにある『不自然な情動の偏り』をエラーとして修正しにかかるぞ」
オルドの警告を胸に抱いたまま、俺は夕暮れのテラスで二人を待った。
そして――夕暮れが近づくにつれ、俺たちの前に突きつけられたのは、ユリウスの消失だけに留まらない、さらに底知れぬ「人と人との魂の断絶」だった。
***
近衛騎士団本部、執務室。
「――副団長ガウェイン。本日の北方使節団護衛小隊、任務完了いたしました。これより夜間宿直部隊への引き継ぎを行います」
執務机の前に立ったガウェインは、背筋をまっすぐに伸ばし、一分の隙もない完璧な角度で右拳を左胸に当てて敬礼した。
その声音はどこまでも礼儀正しく、感情の波風一つ立っていない。
執務室の外に並ぶ近衛兵たちも、かつて北門防衛戦でセラの号令の下、死を覚悟して盾を並べたはずの精鋭たちだ。だがその全員が、冷たく整然とした眼差しで敬礼を捧げているだけだった。
「……ああ。苦労だったな、ガウェイン」
机の前に座るセラは、差し出された日報を受け取りながら、息苦しそうにガウェインの顔を見つめた。
「ガウェイン……今夜、非番だろう。……もしよければ、いつもの酒場で一杯どうだ? ラーナの宿舎でよく飲んでいた、あの強い麦酒を……」
セラの震える誘いに、ガウェインは怪訝そうに眉をピクリと動かした。
そして、丁寧だが明らかな距離感を保った笑みを浮かべた。
「お気遣い痛み入ります、セラ団長。ですが、滅相もございません。私ごとき平民出身の叩き上げ副団長が、名門ヴァーミリオン家の団長閣下とサシで酒を酌み交わすなど、規律上許されません。……それに、ラーナの麦酒とおっしゃいますが、私は三ヶ月前の親善演習で一度北境へ行ったきりでして、現地の酒場事情には疎いものでして」
「……っ」
セラの指先が、羊皮紙の日報を握りつぶしそうになった。
「そう……か。そうだったな。すまない、失言だった」
「いえ、団長閣下もお疲れのご様子。お早めにお休みください。では、失礼いたします」
ガウェインは再び完璧な敬礼を返し、軍靴の音を整然と響かせながら執務室を出て行った。
バタン、と扉が閉まった瞬間、セラは机の上に両肘をつき、顔を覆って激しく息を吐き出した。
――違う。
かつてのガウェインは、名門貴族の出身であるセラに対しても「おい団長! カタいこと言ってねえで酒飲もうぜ!」と豪快に笑い、ラーナ要塞の崩壊時には「ここは俺に任せて先に行けッ!」と血まみれになって命を預け合った、無二の戦友だった。
だが、戦争が起きなかったこの世界において、二人は「ただの業務上の上司と部下」に過ぎなかった。
命を懸けて背中を合わせた死線が存在しない以上、身分の壁を越えて魂を結び合う理由など、最初からどこにも生まれ得なかったのだ。
***
同じ頃、王都大聖堂の回廊。
「リナ神官。少しよろしいですか」
聖具の手入れを終えて礼拝堂を出たリナを呼び止めたのは、大聖堂の典礼を司る老司祭と、二人の先輩シスターたちだった。
その視線には、明らかな困惑と冷たい警戒の色が混じっていた。
「は、はい、司祭様……。何か不手際がございましたでしょうか……?」
「不手際、というわけではありませんが……」
老司祭は眉をひそめ、説教するように告げた。
「貴女が近衛騎士団のセラ団長閣下や、異世界から召喚された勇者様と、親しげにお話しされているのを見かけました。……リナ神官、貴女は孤児院から引き取られ、ずっとこの大聖堂の奥でお祈りを捧げてきた、身元も定かでない若輩の身です。名門貴族の騎士団長や国の英雄に馴れ馴れしく近づくのは、教会の品位を損ないますよ」
「え……?」
リナは息を呑んだ。
「で、ですが……私はラーナ要塞の従軍看護で、セラ隊長たちと一緒に……」
「何を夢のようなことをおっしゃっているのですか?」
シスターの一人が、呆れたようにため息をついた。
「北境のラーナ要塞へ従軍したのは、神殿騎士団の特級治癒師たちだけです。貴女のような未熟な神官が、過酷な北境の防衛戦へ派遣されるはずがないでしょう。……貴女はずっと、王都の大聖堂でお祈りをしていたのですよ」
「あ……」
リナの唇が震え、言葉が喉の奥で凍りついた。
――従軍記録の消滅。
ラーナ要塞の雪原で、泥と血にまみれた負傷兵たちを必死に手当てした日々も。
自分の小さな手で包帯を巻き、兵士たちから「ありがとう、リナ神官様」と涙ながらに感謝されたあの温もりも。
凍える夜、セラと抱き合って涙を流し、レンが大きなパンを分けてくれた記憶も。
この世界の教会記録には、一文字も存在しなかった。
リナはただの「王都から一歩も外に出たことのない、平民上がりの箱入り神官」へと、その人生の経歴を綺麗に書き換えられていた。
大聖堂の高い天井を見上げても、そこにあるのは冷たく整然としたステンドグラスの光だけ。
かつて自分が命を削って誰かを救ったという事実そのものが、この世界には最初から存在しなかったのだ。
***
夕暮れの茜空が、王都の街並みを紫紺の夜の帳へと染め上げていく。
魔導院の最上階テラス。
冷え始めた夜風の中、テーブルを囲んだ俺たちの前には、リナが淹れてくれた温かいカファ・アプルが湯気を立てていた。
俺はパン屋で買ってきた丸い白パンを真ん中から二つに割り、大きい方をリナの前へ置いた。
「……どうぞ、リナさん」
「……あ……ありがとうございます、レン様……」
リナは震える手でパンを受け取り、小さく微笑んだ。
この日常の習慣だけが、俺たちが狂っていないことの唯一の証明だった。
だが、その琥珀色の水面を見つめる三人の表情は、あまりにも重く沈んでいた。
「……ガウェインだけではない」
セラが、陶器のカップを両手で握りしめながら、絞り出すような声で言った。
「近衛騎士団の部下たちも……魔導院の術士たちもそうだ。……皆、私に対して礼儀正しく敬意を払う。だがそこには、共に死線を越えた者だけが通わせ合う『魂の温度』がない。……あいつらにとって私は、ただの『ヴァーミリオン家の優秀な騎士団長』という記号に過ぎないのだ」
「セラさん……」
「リナ神官も同じだったのだろう?」
セラが痛ましげにリナを見つめると、リナは小さく頷き、大粒の涙を膝の上に落とした。
「はい……。教会の方々からは、『なぜ平民の神官が勇者様や近衛団長様と親しいのか』と叱られてしまいました。……私とセラ隊長が……レン様と一緒に命を懸けて戦った思い出は……全部、私だけの妄想だと言われているみたいで……」
俺は奥歯を強く噛み締めた。
胸が張り裂けそうだった。
戦争を消し、全員を生かした。
だがその代償として、世界は「仲間同士が命を懸けて結びついた理由(因果の根拠)」を、余分なノイズとして綺麗さっぱり消去してしまったのだ。
原因のない結果は存在できない。
戦争という過酷な試練が最初から起きなかった世界において、「身分や立場を越えて魂を分かち合った深い絆」など、因果律の上ではあり得ないエラーに過ぎないのだ。
***
ピピッ、と。
俺の網膜UIに、またしても冷酷なシステムログが明滅した。
POSTSELECTION_CONSISTENCY_AUDIT:
- CURRENT_BRANCH: BR-031
- CONSISTENCY_DEBT: 0.6000 / 1.0000
- TOPOLOGICAL_MUTATION:
* RELATIONSHIP_HISTORICAL_DECOUPLING: APPLIED
* INTER_ENTITY_ENTANGLEMENT: REDUCED_TO_DEFAULT_BASELINE
* OBSERVER_COGNITIVE_PRESSURE: ACTIVE (DRIFT_RATE: +0.02%/day)
画面の最下段に表示された『OBSERVER_COGNITIVE_PRESSURE(観測者認知修正圧力)』。
世界そのものが、前の世界線の記憶を保持している俺たち三人に対して、「この世界の歴史こそが正しいのだ」と、記憶の上書きを迫る圧力をかけ始めている。
「……蓮」
セラがふと、自分の額を指先で押さえながら、怯えたような声で呟いた。
「時折……頭の奥で、奇妙な感覚がするのだ。……『私はなぜ、蓮やリナに対して、これほど深い執着を抱いているのだろう』という、冷たい他人のような思考が一瞬だけ脳裏をかすめる。……世界が、私の心の中からお前たちへの絆を、力づくで引き剥がそうとしているような……」
「セラ隊長……ッ!」
リナがセラの手に縋り付いた。
「忘れないでください……! 私たちは、ラーナでも王都でも、ずっと一緒でした! セラ隊長が私を庇ってくださったことも、レン様がセラ隊長を救うために世界を渡ったことも……全部、本当のことなんです……ッ!」
「ああ……わかっている。絶対に手放すものか……!」
セラはリナの手を強く握り返した。
「私にとって、お前たちはただの異世界の勇者や若き神官ではない。……死線を共にし、命を預け合った、魂の家族なのだ。世界の辻褄合わせなどに、この想いを消されてたまるか……!」
「ええ、そうです」
俺も二人の手に自分の手を重ねた。
三つの手のひらの温もりが重なり合う。
「世界がどれだけ歴史を書き換えても、俺たちが共有してきた痛みと記憶だけは、絶対に奪わせない。……俺が覚えている限り、二人の絆も、俺たちの約束も、消させはしない」
しかし――その時だった。
リナが不意に、自分の胸元をぎゅっと押さえ、青ざめた顔で小さく声を漏らした。
「……あれ……?」
「リナさん……? どうしたんだ?」
俺が問いかけると、リナは怯えた仔鹿のように瞳を泳がせ、震える唇を開いた。
「レン様……。私……自分の子供の頃のことを思い出そうとしたのですが……。教会に引き取られる前の……故郷の村やお父様、お母様の顔が……なんだか、全然知らない別の家族の記憶になっているような気がするんです……」
――ドクンッ、と。
俺の心臓が、底知れぬ恐怖で跳ね上がった。
歴史改変の侵食は、王太子の消滅や戦友の絆だけに留まらず――リナ自身の過去とアイデンティティそのものにまで、すでに手を伸ばしていた。




