第47章 存在しない王太子
王宮の大理石の床を、セラと俺、そしてリナの足音が激しく打ち鳴らしていた。
「侍従長の言葉が聞き間違いであることを祈る……! ユリウス殿下が存在しないなど、そんな莫迦な話があるはずがない!」
セラの顔は蒼白を通り越し、唇まで血の気を失っていた。
先ほど中央市場通りで侍従長から告げられた『国王陛下は生涯独身で、お世継ぎはおられない』という一言。
その言葉の真偽を確かめるため、俺たちは親善謁見式を控えた王宮の奥深く――歴代王族の肖像画が並ぶ東翼の『光輝の回廊』へと駆け込んだ。
回廊へ向かう途中、俺たちはかつて俺が初めてこの世界に召喚された場所――『大聖堂の召喚の間』を通り抜けた。
あの召喚初日、青白い召喚陣の光の中で目覚めた俺の目の前には、高い壇上に立ち、白銀のマントを翻して「余こそがルミナス王国第一王太子ユリウスである! 勇者よ、余を失望させるなよ」と尊大に言い放った、あの男がいた。
リナが緊張で手を握りしめ、セラが近衛団長として壇の下で片膝をついて控えていた、あの日の空気。 傲慢で、高圧的で、だが誰よりもこの国の未来を背負う覚悟に満ちていた王太子の声が、今でも耳の奥に鮮明に焼き付いている。
だが――今、その大聖堂の壇上には、王太子の玉座などどこにもなく、ただ質素な聖樹の燭台が置かれているだけだった。
――ズラリと並ぶ、金縁の豪奢な油彩画。
光輝の回廊に足を踏み入れると、建国の祖ルミナス一世から代々の歴代国王たちの肖像が、厳粛な眼差しで回廊を見下ろしていた。
そして、回廊の最深部。
現国王ルミナス六世の肖像画のすぐ隣――本来なら、金髪をオールバックに撫で付け、自信に満ちた眼差しで腰の宝剣に手を添えていたはずの『第一王太子ユリウス』の巨大肖像画があるべき場所。
「……っ!」
セラが息を呑み、その場に縫い止められたように立ち尽くした。
そこにあったのは、ユリウスの姿ではなかった。
朝霧煙る穏やかなルミナリア湖畔と、水鳥の群れを描いた、どこにでもある平凡な風景画が掛けられていた。
画枠の下に埋め込まれた真鍮のプレートには、『王都近郊の静寂 宮廷画家筆』とだけ刻まれていた。
「ない……。肖像画が、掛け替えられている……?」
「セラさん、あそこを見てください」
俺は風景画のすぐ隣の壁面を指差した。
王族の公式年表を金文字で刻んだ、巨大な白大理石の石碑。
第十九代国王 ルミナス六世 (在位: 聖暦742年〜現在)
- 治世: 平和外交および魔導産業の振興
- 配偶者: なし (生涯独身)
- 子女: なし (傍系継承予定)
一文字の削り跡も、彫り直しの痕跡もない。
最初からその石碑が彫られた瞬間から、ルミナス六世には息子など生まれず、ユリウスという王太子は影も形も存在しなかったことになっていた。
***
「嘘……そんな……」
リナが口元を両手で覆い、へたり込むように膝をついた。
「ユリウス殿下は……レン様をこの世界に召喚した方です……! あの大聖堂の召喚の儀式で、真っ先にレン様をお迎えして……! 王都防衛戦でも、誰よりも陣頭に立って騎士たちを鼓舞してくださったのに……ッ!」
「記録室だ! 王統譜と召喚記録を確認するぞ!」
セラが悲痛な叫びを上げ、回廊の脇にある宮廷記録室の重厚な鉄扉を乱暴に押し開けた。
室内に並ぶ幾千もの羊皮紙の公文書。
セラは震える手で、聖暦七六〇年の『勇者召喚事蹟録』と『ルミナス王家正統譜』の分厚い革表紙を棚から引き抜いた。
――バサリ。
開かれた古文書のページ。
そこには、俺が召喚された初日の記録が、整然とした公用筆致で記されていた。
『聖暦七六〇年 四月十二日。魔導院最高長老会議の総意に基づき、異世界より聖剣の資格者・相馬蓮を召喚せり。召喚主座:魔導院総監オルド・ケイン。立ち会い:リナ神官』
「……召喚の主座が……魔導院長老会議に書き換わっている……」
俺は乾いた喉で呟いた。
ユリウス王太子の命令で召喚されたはずの歴史が、「魔導院の決議」へと完全にすり替わっていた。 さらにセラが王統譜をめくると、ユリウスの母であるはずの先代王妃の記録すら『婚姻前に若くして病没、子なし』と書き換わっていた。
「そんな……。私の主君が……王太子殿下の三十年の人生が……どこにもないというのか……ッ!? 殿下が歩んできた日々も、戦場で流した汗も、全部……最初からなかったことになっているというのか……ッ!?」
セラが書類を抱きしめ、壁に背を預けて崩れ落ちた。
王家に忠誠を誓い、ユリウスに仕え続けてきた近衛騎士団長にとって、それは主君の戦死よりも遥かに残酷な、実存そのものの完全な抹消だった。
***
「……小僧。やはりそう来たか」
背後から、コツコツと杖を突く乾いた足音が響いた。
現れたのは、手に小型の量子干渉計を握りしめたオルドだった。
その顔は険しく、ガラス円盤の奥で激しく危険域を指し示す干渉計の針を見つめていた。
「オルド先生……! これは一体どういうことなのですか!? なぜユリウス殿下が消えてしまわれたのですか!?」
リナが涙ながらに詰め寄った。
オルドは深くため息をつき、手元の手帳を開いてチョークで荒々しく因果のトポロジー図とテンソル方程式を書き殴った。
「因果の逆算収束……POSTSELECTION(事後選択)の冷酷な最適化アルゴリズムの結果だ」
「最適化……?」
俺が問い返すと、オルドは手帳の数式を突きつけてきた。
「小僧、貴様は指定したな? 『北方との二十三万の戦争が起きず、平和条約が結ばれた未来』をな。……では問うが、北方連合と王国の間で、過去十年間にわたって最も強硬に主戦論を唱え、停戦交渉をことごとく握り潰してきた主犯は誰だ?」
――ハッと、セラの息が止まった。
「……ユリウス、殿下……」
「そうだ」
オルドは冷徹な声で告げた。
「ユリウス王太子は、誇り高く、好戦的で、王国の領土的覇権を何よりも重んじる男だった。……あの男が生きて王宮に座っている限り、半年前の停戦条約など絶対に呑むはずがなかったのだ。どんな有能な外交官が交渉しようと、ユリウスが拒絶し、必ず戦争への引き金を引いていた」
オルドの言葉が、鋭利な刃物のように俺の胸を深く抉った。
「世界にとって、二十三万の兵士の行動や無数の戦局の確率を力づくで捻じ曲げるのは、天文学的な計算コスト(情報エントロピー)がかかる。……量子力学における『最小作用の原理』と同じだ。未来の境界条件を指定された因果律は、常に最も作用の少ない経路を通って帳尻を合わせようとする」
オルドは手帳のテンソル記号をチョークで叩いた。
「二十三万の軍勢の弾道や行軍をすべて捻じ曲げるコストに比べれば、三十年前にたった一個の受精卵の結合確率をゼロにして、ユリウスが生まれてこなかった歴史を作る方が、世界にとっては遥かに低コストで自然な帳尻合わせだったのだ。……それが【ユリウスという人間そのものを、歴史の始点から生まれなかったことにする(Unborn)】という解だったのだ」
「そんな……」
リナが青ざめて息を呑んだ。
「戦争を止めるために……世界が、ユリウス殿下を消した……?」
「そうだ。ユリウスさえ生まれなければ、温厚なルミナス六世は平和条約を結び、北方連合との通商が成立する。……二十三万を救うために、世界はユリウス一人を存在ごと生贄にしたのだ!」
***
記録室の奥にあるアーチ状のテラスから、眼下の大広間が見渡せた。
そこでは今まさに、北方連合親善使節団の謁見式が執り行われていた。
玉座に座る国王ルミナス六世は、後継ぎを持たない老王として、穏やかな笑みを浮かべて北方の使節と親善杯を交わしている。
その隣に、誇らしげに胸を張る王太子の姿はどこにもない。
王太子がいないということは、この平和の先に待つのは、王家の断絶と傍系貴族による権力闘争という、別の歪んだ未来だ。
ピピッ、と。
俺の網膜UIに、血のように赤い監査ログが突き刺さるように出力された。
POSTSELECTION_CAUSAL_SETTLEMENT:
- ERADICATED_ENTITY: JULIUS_LUMINAS_PRINCE
- CAUSAL_REASON: WAR_TRIGGER_NODE_ELIMINATION
- RETROACTIVE_MUTATION: UNBORN_STATE_COMMITTED
- CONSISTENCY_DEBT_ACCRUED: +0.2500
- CURRENT_CONSISTENCY_DEBT: 0.6000 / 1.0000
六十パーセント。 整合性負債が、一気に 0.6000 へと跳ね上がっていた。
「……っ、う……あ……」
俺は膝から崩れ落ちそうになり、近くの書棚を必死に掴んだ。
視界が激しく歪み、激しい吐き気が込み上げてくる。
(俺が……ユリウス殿下を消したのか……?)
自分を異世界へ呼び出し、偉そうに笑い、時に理不尽に怒鳴り、それでも王都を守るために先頭に立っていた、生身の一人の人間。
その人間の人生も、思い出も、存在そのものを――俺が『平和』を先払い指定したせいで、この宇宙から完全に消し去ってしまった。
自分の記憶を削りたくないからと選んだPOSTSELECTION。
リナとの約束を守るため、自分を保つために選んだ禁忌の代償。
だが、その代わりに削り落とされたのは、俺の記憶なんかよりも遥かに重い、『仲間であった一人の人間の実存そのもの』だった。
「俺は……何をやってるんだ……」
床に拳を叩きつけた。石の冷たさが骨に染みる。
「誰も死なせないなんて……嘘だ。俺は自分の記憶を守るために、他人の命と人生を、最初からなかったことにして消滅させただけじゃないか……ッ!」
「……蓮」
セラが震える手で、俺の肩を強く抱きしめた。
その紅蓮の瞳には、とめどない涙が溢れていた。
「お前一人を責めはせん。……だが、これが我々の手に入れた平和の正体だ。……私たちは、仲間を一人この世から消し去って……その消滅の上に立っているのだな……」
「セラさん……」
「私も……同罪です」
リナが俺のもう片方の手を両手で包み込み、涙で濡れた額を預けてきた。
「レン様が選んだ道を、私も選びました。……ユリウス殿下を消してしまった罪も、背負わなければならない罰も……全部、一緒に背負います……! 一人で泣かないでください、レン様……ッ!」
窓の外からは、大広間での親善使節団を歓迎する華やかなファンファーレが鳴り響いていた。
歓声に沸く平和な世界の中で、俺たちは取り返しのつかない罪の深淵に、ただ震えながら立ち尽くしていた。




