第46章 知らない平和
王都ルミナリアの中央市場通りは、まばゆい初夏の陽光と、人々の屈託のない歓声に満ち溢れていた。
「いらっしゃい! 北方特産の霜果実の焼き立てパイだよ! 今朝、北門の交易使節団から仕入れたばかりの極上品だ!」 「銀細工の首飾りはいかがですか! 北方連合との平和条約を記念した特別細工ですよ! お嬢さんによくお似合いだ!」
石畳の両脇にずらりと並ぶ、色鮮やかな天蓋の露店。
道行く人々はみな晴れやかな笑顔を浮かべ、小さな子どもたちが風車を手に、石畳を駆け回っては笑い声を響かせている。
パン屋の店先からは香ばしい小麦と焦がしバターの匂いが漂い、噴水広場では吟遊詩人が竪琴を爪弾きながら『南北和合の春』という明るい調べを歌っていた。
――平和そのものだった。
昨日まで王都中に鳴り響いていた狂乱の警報鐘も、空を覆っていた赤紫の不気味な魔導陣も、地平線を埋め尽くしていた二十三万の軍勢も、何一つ残っていない。
王都の白亜の外壁を見上げても、七万の猛攻で砕け散ったはずの北門の胸壁や、重力砲で抉り取られたはずの要塞の巨石には、ひび割れ一つ存在しなかった。
まるで、過去数百年の間、一度も矢一本撃ち込まれることなくそこに建っていたかのように、滑らかな石肌が初夏の光を反射して白く輝いている。
「……信じられん」
隣を歩くセラが、礼装用の金刺繍マントの裾を強く握りしめ、青ざめた顔で周囲を見回しながら呟いた。
「今朝、私たちが軍務室で確認したはずの戦死者名簿も、重傷者の緊急搬送記録も……書類棚からすべて消えていた。……代わりに収められていたのは、過去半年間の『北方親善通商記録』と『定期合同軍事演習の報告書』だけだ。……あの血の海は、どこへ行ったのだ?」
「……ええ」
俺は網膜UIに薄く明滅する警告文字を見つめた。
CURRENT_BRANCH: BR-031
CONSISTENCY_DEBT: 0.3500 / 1.0000
LOCAL_HISTORY_STATUS: SYNTHESIZED_PEACE (REALITY_COHERENCE: LOCKED)
三十五パーセントの負債。
俺が未来の境界条件として『戦争不発生』を固定したことで、世界は過去数ヶ月の因果を丸ごと再計算し、破綻のない『平和な歴史』を辻褄合わせとして自動生成したのだ。
俺たちの記憶の中にある戦争は、世界全体の現実から完全に消去されていた。
***
「セラ団長! 蓮の小僧も一緒か!」
市場通りの角にある近衛騎士団の詰め所から、聞き慣れた豪快な笑い声が響いた。
現れたのは――重装騎士ガウェイン。
今朝、心膜を撃ち抜かれて心停止寸前だったはずの男が、ピカピカに磨き上げられた儀礼用の白銀胸甲をまとい、屈託のない笑顔で大股に歩み寄ってきた。
その胸元の内ポケットからは、あの『存在しない娘ミリィの銀の懐中時計』の細い銀鎖が覗いている。
「ガウェイン……」
セラが息を呑み、わずかに後退りした。
「どうしたんだ団長、そんな幽霊でも見たような顔をして。……ああ、今日の北方親善使節団歓迎パレードの警備配置か? 安心しな、北門から王宮正門までの護衛小隊は、俺が完璧に整えておいたぜ!」
ガウェインは親指を立てて白い歯を見せた。
詰め所の奥を見ると、かつてラーナ要塞で命を落としたはずの若い近衛兵たちが、傷一つない顔で笑い合いながら、儀礼用の槍を磨いている。
「半年前の停戦条約以来、北方とはすっかり仲良しこよしだが、まあ儀礼ってのは大事だからな。……そういや小僧、三ヶ月前にラーナ要塞でやった北方軍との『親善雪上演習』の時、お前が披露してくれたあの火球の温度制御、北方の魔導士連中が今でも絶賛してたぜ!」
「……ラーナでの……親善演習……?」
俺の声がかすかに震えた。
「おうよ! 雪原で模擬戦やったあと、北方の奴らと一緒に宿舎で温かいカファ・アプルを飲んで、夜通し腕相撲で盛り上がったじゃねえか。覚えてねえのか? あいつら、見た目は厳ついが酒が入ると陽気な連中だったよなぁ!」
ガウェインは豪快に肩を揺らし、胸ポケットの懐中時計を取り出して指先で愛おしそうに撫でた。
「俺の娘のミリィが生きてたら、あの北方の綺麗な銀細工をお土産に買ってやりたかったんだがな……。まあ、こうして形見の時計と一緒に平和な街を歩けるだけで、親父としては十分幸せってもんさ」
――違う。
俺たちの記憶の中のラーナ要塞は、虚空魔導士ミラの広域結合によって大結界を破られ、無数の魔獣に囲まれ、ガウェインが血まみれになって殿を務め、リナが命を落とした(BR-000)――あの血塗られた地獄の戦場だったはずだ。
そしてガウェインは独身で、ミリィという娘など存在しなかったはずなのだ。
だが、ガウェインの頭の中では、ラーナ要塞は「北方軍と楽しく雪上演習をしてカファ・アプルを飲み明かした思い出の地」へと完全に塗り替えられ、存在しない娘の死の記憶までが自然な人生として定着していた。
「じゃあな団長、式典の準備があるから先に行くぜ! 蓮の小僧、リナ神官と仲良くな!」
ガウェインは快活に手を振り、部下の騎士たちを引き連れて陽気に行進していった。
すれ違う兵士たちも、全員が五体満足で、誰一人として戦争の傷やトラウマを抱えていない。
***
広場の中央、大噴水のそばにあるオープンカフェの木製テーブル。
セラが警備の確認へ向かった後、俺とリナは向かい合って座っていた。
「……どうぞ、レン様」
リナが、湯気の立つ陶器のカップを俺の前に差し出した。
カップの中に満たされているのは、濃い琥珀色のカファ・アプル。
そしてテーブルの中央には、市場のパン屋で買ってきたばかりの、焼き立ての丸い白パンが置かれていた。
「ありがとう、リナさん」
俺はパンを両手で持ち、真ん中から二つに割った。
ふわりと広がる小麦と酵母の香ばしい匂い。
大きい方の半分をリナの手元へ差し出す。ラーナ要塞の宿舎でも、北門防衛の夜の兵舎でも、ずっと繰り返してきた俺たち二人の当たり前の習慣(日常資産)だった。
「……ふふ、いつも大きい方をくださるんですね」
リナは微笑んでパンを受け取った。
だが――その細い指先は、小刻みに震えていた。
リナはパンを口元へ運ぼうとして、そのまま膝の上に置き、深く俯いた。
「……レン様」
「リナさん……?」
「街の人たち……みんな、笑っています。……ガウェイン様も、兵士の皆さんも、誰一人怪我もせず、元気で……。誰も死なない、誰も泣かない、一番望んでいたはずの世界です」
リナの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ち、テーブルの木目を濡らした。
「それなのに……どうしてこんなに、怖いんでしょうか……ッ。足元の地面が、全部作り物の薄氷になっていて……いつか底の抜けた闇に落とされてしまうような……そんな冷たい寒気がして、止まらないんです……」
リナが自分の両腕を抱きしめ、肩を震わせた。
「私たちが……ラーナで流した涙も……セラの腕の中で凍えそうになっていた夜も……全部、この世界には最初から『なかったこと』になっていて……。まるで、私たちだけが、世界中の人たちに嘘をついて騙しているような……そんな気がしてしまうんです……」
「……リナさん」
俺は席を立ち、リナの隣に座って、その震える肩を抱き寄せた。
「俺も……同じだよ」
胸の奥が締め付けられるように痛かった。
戦争を消し去り、全員を生かした。
リナの命も、セラの命も、ガウェインの命も、王都の何十万もの市民の命も、すべて守り切った。
これ以上のハッピーエンドはないはずだった。
だが――この世界には、血の通った痛みが存在しない。
人々が浮かべている屈託のない笑顔は、すべて 0.3500 の Consistency Debt(整合性負債)という、巨大な嘘の上に塗り固められた張り子の幸福なのだ。
「俺は……日本にいた頃の仕事も、日常も、家族の声も失った。……そして今度は、この世界でみんなと必死に戦ってきた歴史まで、俺の手で消してしまった」
「レン様……」
「だけど、リナさん。……たとえ世界がどんなに書き換わっても、俺たちが共に背負ってきた記憶と約束だけは、絶対に嘘じゃない。俺が覚えている限り、リナさんが覚えていてくれる限り、あの戦いも、祈りも、消えたりしない」
リナは俺の胸元に顔を埋め、小さく頷いた。
リナの冷たくなった指先が、そっと俺のこめかみへと伸ばされ、温かな聖樹の光で静かに撫でてくれた。
痛む頭の奥の緊張が、ゆっくりと和らいでいく。
***
その時だった。
「――失礼いたします。聖剣の勇者・相馬蓮殿、ならびにリナ神官ですね」
カフェのテラスに、王宮の豪奢な礼装をまとった侍従長が、二人の近衛兵を従えて厳かに歩み寄ってきた。
侍従長は胸に手を当て、深々と頭を下げた。
「国王陛下より、直々の召喚令状をお持ちいたしました。本日正午より大広間にて執り行われます『北方連合親善使節団 謁見式』に、両名とも特別栄誉客としてご臨席賜りたく存じます」
「国王陛下から……」
俺は立ち上がり、令状を受け取った。
王家の紋章が刻まれた羊皮紙の重厚な書状。
しかし――俺はその文面を一瞥して、奇妙な違和感に眉をひそめた。
(……あれ?)
書状の末尾に記されている王族の連名。
そこには『ルミナス王国国王 ルミナス六世』、そして各大臣たちの署名が並んでいた。
だが――。
(……ユリウス王太子の名前が、どこにもない……?)
かつて勇者召喚の儀を主導し、王都防衛の総司令官として常に王の隣に座っていた、あの尊大で責任感の強い王太子ユリウス。
式典の案内状であれば、次期国王たる第一王太子の名が筆頭に書かれていなければ不自然極まりない。
「……あの、侍従長」
俺は怪訝そうに尋ねた。
「ユリウス殿下も、この謁見式にはご同席されるのですか?」
すると――。
侍従長は、まるで生まれて初めて聞く外国の不可解な呪文でも耳にしたかのように、ぽかんと目を丸くした。
「……は? ユリウス……殿下、でございますか……? 失礼ながら……それは、どこのどなたのことでございましょう……?」
「え……?」
「ルミナス王家には、国王陛下にお世継ぎとなる王子はおられません。陛下は生涯独身であらせられますが……」
――ヒュッ、と。
初夏の暖かい風が吹き抜ける中、俺とリナの背筋を、氷のような戦慄が突き抜けた。
三十五パーセントの負債。
世界が改竄したのは、戦争の記録だけではなかったのだ。




