第45章 戦争は起きなかった
地平線の彼方が、赤黒い業火と立ち上る噴煙で埋め尽くされていた。
王都ルミナリアの最高峰――魔導院の屋上観測テラス。
吹き荒れる熱風が、セラの紅蓮の長髪とリナの純白の法衣を激しく煽っていた。
王都中に鳴り響く狂乱の警報鐘。
眼下に広がる広大な平原の先、凍結山脈の尾根を越えて押し寄せてくるのは、北方連合軍の総兵力二十三万。
連なる装甲魔獣の巨群、天を衝く黒鉄の攻城塔、そして虚空を赤紫に染め上げる幾千もの巨大魔導陣。
先日の七万を遥かに凌駕する圧倒的な軍勢の質量が、地鳴りのような重低音となって王都の石壁を根底から震わせていた。
――ビキッ……バリバリバリッ!!
王都上空を覆う半球状の主防衛結界に、早くも蜘蛛の巣のような巨大な亀裂が走った。
先鋒部隊が放った三基の大型重力収束砲の余波だけで、結界維持の魔導結晶群が火花を散らして砕け散っているのだ。
「……保って半日だな」
黒板の前に立つオルドが、大型量子干渉計と望遠鏡から目を離し、チョークを握る手を止めて冷ややかに呟いた。
「北方の特異魔導士どもは、手加減する気など毛頭ない。結界が破られれば、近衛騎士団も魔導院も、夕暮れを待たずに呑み込まれる。……小僧、貴様が演算した通り、通常の戦闘手段では生存確率ゼロ(Zero-Amplitude)だ。全滅は一〇〇パーセント確定しておる」
「……ええ」
俺はテラスの石の手すりを強く握りしめた。
掌の中の聖剣イグニスが、空間の臨界振動を感じ取って青白く激しく脈動している。
正面からの戦術では全滅。
だが、自我の記憶を削る世界線移動(Branch Migration)は使えない。
そして――。
(記憶を削らない代わりに、歴史そのものを書き換える……)
先ほど中庭で、ガウェインの命を救った瞬間の光景が脳裏をよぎる。
ガウェインは助かった。
だがその代償として、存在しない娘の形見の懐中時計が世界に生み出され、ガウェイン自身の記憶まで書き換わった。
(俺は……あの『神』と同じことをしているんじゃないのか……?)
かつて聖環教会と神が、都合の悪い歴史や都市ヴェルダを『世界線剪定』によって丸ごと虚空へ消し去ったように。
自分たちにとって都合のいい未来を選ぶために、世界そのものを偽造し、過去を都合よく塗り替える。
それは、世界線移動による自己犠牲とはまた別の、背徳的で傲慢な神の領域への侵犯だった。
「……レン様」
隣でリナが、震える俺の手の上に、温かな両手をそっと重ねた。
「迷わないでください。……もしそれが罪だとしても、私も一緒に背負います。レン様が一人で消えてしまう世界より……みんなで一緒に生き残る罪を、私は選びたいです」
「リナさん……」
「相馬蓮」
セラもまた、腰の長剣を抜き放ち、決然とした眼差しで俺の前に立った。
「私たちは騎士だ。だが、勝てぬ戦で民を無駄死にさせる愚行は犯さん。……お前の力で、この破滅を捻じ伏せろ。どんな請求書が届こうと、近衛騎士団が共に引き受ける!」
***
二人の言葉が、迷いかけていた俺の背中を強く押し出した。
(そうだ。綺麗事を言っている場合じゃない。……全員を助けるんだ!)
俺は聖剣イグニスを両手で天へと掲げ、管理者権限(WORLD_BRANCH_OPERATOR)を全開にした。 視界いっぱいに、深層のシステムコマンドが爆発的な輝きを伴って展開される。
EXECUTE_MACRO_POSTSELECTION:
- TARGET_TIMELINE: CANON_REGIONAL_HISTORY
- TIME_WINDOW_FORWARD: +30_DAYS
- INJECT_FUTURE_BOUNDARY_CONDITION:
* STATE_01: WAR_STATUS == "NON_EXISTENT"
* STATE_02: NORTHERN_FEDERATION_STATUS == "PEACE_TREATY_SIGNED"
* STATE_03: TOTAL_CASUALTIES == 0
* STATE_04: LUMINARIA_DEFENSE_BARRIER == "INTACT"
- ENFORCE_RETROACTIVE_COLLAPSE: TRUE
「小僧ッ! 本気かッ!?」
オルドが血相を変えて叫んだ。
「コイン一枚や人間一人の局所事後選択ではないのだぞ! 『二十三万の戦争そのものが最初から起きなかった』などという巨大すぎる未来を指定すれば、過去数ヶ月の歴史が丸ごと激変するぞッ!!」
「それでも……これしか道はないんだッ!!」
俺は叫びとともに、コマンドラインの確定キーを意識の底で叩き込んだ。
POSTSELECTION_TRIGGER: COMMITTED
- COLLAPSING_SUPERPOSITION_INTO_TARGET_FUTURE...
――グォォォォォォォォォォォォォォォォッッッ!!!!
大地が、天空が、空間のすべての次元が、引き裂かれるような超重低音の咆哮を上げた。
***
視界のすべてが、純白の閃光に包まれた。
逆流する時間。
巻き戻る因果。
平原を埋め尽くしていた二十三万の軍勢が、地平線の彼方の煙が、上空の結界の亀裂が、まるで巻き戻される幻灯機のように、光の渦の中へと吸い込まれて消えていく。
自我の記憶は無傷。頭の中の知識も失われない。
だが、耳の奥で、無数の巨大な歯車が逆回転して噛み合っていくような、すさまじい因果の再計算音が響き渡っていた。
――ピキィィィィンッ!!
世界線の位相が決定的に反転し、現実が新たな基底へと収束した。
WORLD_LINE_TRANSITION:
- PREVIOUS_BRANCH: BR-021
- NEW_CANON_BRANCH: BR-031
- PHASE_SHIFT: +0.4120 rad
- CAUSAL_RETROFIT_STATUS: APPLIED
***
――チュン、チュン。
のどかな小鳥のさえずりが、静寂の中に響いた。
そよぐ風は柔らかく、初夏の草木の甘い香りを運んでくる。
「……え……?」
リナが恐る恐る目を開けた。
俺もまた、聖剣を下ろし、テラスの手すりから平原を見下ろした。
そこには――。
二十三万の大軍も、立ち上る黒煙も、重力砲の爆炎も、何一つ存在しなかった。
広大な緑の平原がどこまでも穏やかに広がり、王都の上空には雲一つない真っ青な青空が広がっていた。
王都の街角からは、露店の呼び込みの声や、子どもたちの無邪気な笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「せ、戦争が……消えた……?」
セラが呆然と剣を下ろし、信じられない面持ちで平原を見つめた。
ふと見ると、セラの甲冑の胸元にあったはずの戦闘用の傷や泥汚れが消え、きらびやかな礼装用の金刺繍マントに変わっていた。
その時、テラスの階段を駆け上がってきた近衛の伝令兵が、爽やかな笑顔で敬礼した。
「セラ団長、こちらにいらしたのですか。北方連合からの親善交易使節団が、予定通り北門に到着いたしました。半年前の停戦不可侵条約に基づく、第十回通商会談の準備が整っております!」
「な……親善使節団……? 半年前の、不可侵条約……?」
セラが声を失った。
伝令兵は不思議そうに小首をかしげている。
彼らにとって、北方との戦争など「半年前の条約でとっくに平和裏に解決した過去の出来事」なのだ。
戦争は、最初から起きなかった。
***
ピピッ、と。
俺の網膜UIの最下段に、深紅の警告線とともに、かつてない桁数の監査ログが焼き付けられた。
MACRO_POSTSELECTION_AUDIT_REPORT:
- TARGET_EVENT: TOTAL_WAR_ERADICATION [RESOLVED]
- RESULT: PEACE_ESTABLISHED (RETROACTIVE_COLLAPSE)
- CURRENT_BRANCH: BR-031
- RETROACTIVE_CAUSAL_MUTATIONS:
* NORTHERN_WAR_HISTORY: ERASED (REPLACED_WITH_DIPLOMATIC_TREATY)
* CASUALTY_RECORD_6_MONTHS: OVERWRITTEN_TO_ZERO
* GEOPOLITICAL_ALLIANCE_TOPOLOGY: RECONFIGURED
* MASS_OBSERVATION_CONSISTENCY: REWRITTEN
- CONSISTENCY_DEBT_ACCRUED: +0.3188
- CURRENT_CONSISTENCY_DEBT: 0.3500 / 1.0000
「……オルドさん」
俺は震える声で、その数値を読み上げた。
「負債が……一気に +0.3188 増えました。現在の整合性負債は、合計 0.3500 です……」
オルドは手元の大型量子干渉計を見つめたまま、微動だにしなかった。
干渉計の真鍮の針は、完全にレッドゾーンへと深く突き刺さっていた。
「……三十五パーセントだ」
オルドが乾いた声で呟いた。その顔は、死人のように青ざめていた。
「世界の因果の三分の一以上が、虚偽と帳尻合わせによって歪められた。……お前は記憶を削らず、誰一人死なせずに戦争を消し去った。だが小僧……この平和の裏で、世界は一体どれほどの『本当の歴史』を削り取られたのだ……?」
リナが自分の手を見つめ、震える声で呟いた。
「私たちが……ラーナ要塞で必死に戦った日々も……ガウェイン様たちと流した血も……全部、この世界の歴史から消えてしまったのでしょうか……?」
青く澄み渡る美しい空の下。
完璧な平和を手に入れたはずの俺たちの足元で、偽造された世界(BR-031)の底知れぬ亀裂が、音もなく口を開けていた。




