第44章 十秒後を先に決める
王宮中庭の閲兵場は、立ち込める硝煙と血の匂い、そして近衛兵たちの怒号に包まれていた。
「総員、防御結界を展開しろ! 狙撃地点を特定しろッ!」 「衛生兵! 早く担架と高位止血帯を持ってこいッ!」
白亜の敷石の中央に、深紅の絨毯を敷いたような生々しい鮮血の水たまりが広がっていた。
その中心で倒れ伏しているのは――近衛騎士団副団長、ガウェイン。
ラーナ要塞の激戦から共に死線を潜り抜け、王都防衛の最前線を支え続けてきた、あの頼もしい巨躯の重装騎士だった。
ガウェインの分厚い重装甲鋼鉄胸甲の左胸――心臓の直上には、親指大の不気味な円形の貫通痕が穿たれ、そこからどす黒い血液が噴水のように脈打って溢れ出していた。
「ガウェインッ!!」
セラが軍務統括室から全力疾走で中庭へ飛び込み、敷石の上に膝をついてガウェインの頸動脈に指を当てた。
その紅蓮の瞳が、傷口から立ち上る紫色の残留魔力を見て戦慄に染まる。
「虚空魔導狙撃弾だ……! 通常の障壁をすり抜けて、胸甲の内部で直接位相を炸裂させている……! 心膜が破裂し、大動脈が断裂しているぞ!」
「ガウェインさん……ッ! 私が……治癒を……ッ!」
リナが駆け寄り、両手から白銀の聖樹光を全開にしてガウェインの胸元へと押し当てた。
しかし――神聖な光の粒子は傷口に触れた瞬間、パチパチと乾いた紫色の火花を散らし、激しいノイズを上げて霧散していった。
「だ、ダメです……! 傷口に虚空属性の浸食魔力が残留していて、治癒術式が定着しません……! 細胞のデコヒーレンスが早すぎます……! 心停止まで、あと……あと五秒も持ちません……ッ!」
リナの悲痛な叫び。
あの頑丈無比だったガウェインの瞳孔が急速に開き始め、豪快な顎が力なく落ちた。
このままでは、あと数秒で不可逆な死(DECOHERENCE_LOCKED)が確定する。
ラーナで命を賭して殿を務め、レンが世界線移動で繋ぎ止めたはずの命が、今まさに目の前で散ろうとしていた。
***
(間に合わない……! ガウェインさんまで失うのか……!?)
俺の網膜UIに、冷酷な警告ログが明滅した。
CRITICAL_BIOLOGICAL_MONITOR:
- TARGET: GAWAIN (VICE_COMMANDER)
- VITALS: CARDIAC_ARREST_IMMINENT (t_remaining = 4.2s)
- NORMAL_HEALING_SUCCESS_RATE: 0.0000% (INTERFERENCE_LOCKED)
- SURVIVAL_AMPLITUDE: 0.0000% (ZERO_AMPLITUDE)
通常の魔法や医療では、傷口を塞ぐ物理的プロセスが絶対に間に合わない。
そして――俺はもう、過去の世界線を捨てて別の世界線へ跳躍する世界線移動を使うことはできない。
リナとの魂の約束がある。これ以上、俺の自我や大切な記憶を削ることは許されないのだ。
原因から結果へと進む通常の因果律では、ガウェインは一〇〇パーセント死ぬ。
世界線を渡ることもできない。
(……なら、昨日実験したばかりの『あれ』を実戦へ投入するしかない!)
俺は聖剣イグニスの切っ先を敷石に突き立て、管理者権限の深層コマンドラインに意識を直結させた。
EXECUTE_LOCAL_POSTSELECTION:
- TARGET_ENTITY: GAWAIN_KNIGHT_01
- TIME_WINDOW_FORWARD: +10.000s
- MANDATORY_FINAL_STATE:
* VITALS: STABLE (HEART_RATE = 72bpm, BP = 120/80)
* LETHAL_CHEST_WOUND: ABSENT (SUPERFICIAL_GRAZE_ONLY)
* CONSCIOUSNESS: RECOVERED
- INJECT_FUTURE_BOUNDARY_CONDITION: CONFIRMED
(十秒後の未来を……先に決める!!)
――ズズズッ……!!
空間が、まるで巨大な布を逆方向に絞り上げたかのような、強烈な位相の軋みを立てた。
空気中の光の粒子が逆流し、地面に広がっていた血飛沫が一瞬だけ空中で静止する。
自我の記憶を削られる感覚はない。
ただ、この世界そのものの『過去の筋書き』が、未来に指定された【ガウェインの生存】という結果に向かって、超高速で強引に再計算されていく不可思議な引力。
カチッ。
十秒のカウントがゼロに達した瞬間、世界がカチリと音を立てて再接続された。
***
「……え?」
リナが、信じられないものを見るように目を見開いた。
ガウェインの左胸から激しく噴き出していた血が、まるで最初から流れていなかったかのようにピタリと止まっていた。
左胸の貫通痕は消え去り、鋼鉄の胸甲の表面には、浅い斜めの擦り傷が一本刻まれているだけになっていた。
「……ぐ……お……っ、げほっ!」
心停止寸前だったはずのガウェインが、激しく咳き込みながら力強く息を吸い込み、ゆっくりと両目を開けた。
「ガウェイン……ッ!?」
セラが息を呑み、巨漢の副団長の上体を支え起こした。
「団長……? レンの小僧に……リナ神官まで……。俺は……一体どうしたんだ……?」
「ガウェイン、お前は狙撃されたのだ! 虚空弾で胸を撃ち抜かれて……」
「狙撃……? ああ、確かにチクリと胸に衝撃があったが……」
ガウェインは怪訝そうに頭を掻き、自身の胸甲の内ポケットへと手を突っ込んだ。
そして、そこから取り出されたのは――。
中央が鋭く凹み、銃弾の破片をガッチリと受け止めてひしゃげた、分厚い銀の懐中時計だった。
時計の裏蓋には、精巧な筆記体で『最愛の父へ ミリィ』という文字が刻まれている。
「おお……! 娘の形見の懐中時計を、今朝たまたま内ポケットに入れておいたんだった。……こいつが弾丸を弾いてくれたおかげで、かすり傷で済んだらしいぜ。娘が守ってくれたんだな……!」
ガウェインは懐中時計を愛おしそうに握りしめ、白い歯を見せて豪快に笑った。
周囲の近衛兵たちからも「副団長が生きてるぞ……!」「奇跡だ……!」と割れんばかりの歓声が沸き起こる。
だが――。
***
その場にいた何百人もの兵士たちの中で、俺とセラ、そしてリナの三人だけが、血の気の引いた顔で立ち尽くしていた。
(……懐中時計……?)
俺は震える手で、自分の網膜UIを見つめた。
セラが俺の耳元に身を寄せ、他人に聞こえない極小の囁き声で告げた。
「……蓮。ガウェインは独身で、娘などいない。……それに奴は、軍務中に私物を身につけることを絶対にしない男だ。今朝の軍議の時、彼の胸ポケットに懐中時計など入っていなかった。私は確認している」
「ええ……」
リナも震える唇で頷いた。
「胸を貫通して心臓が止まりかけていたはずなのに……『最初から娘の形見の懐中時計が弾丸を弾いてかすり傷だった』ことに……過去が書き換わったんですね……? 存在しない娘の名前まで……世界が勝手に作り出したんですか……?」
ピピッ、と。
俺の視界の最下段に、あの冷酷な監査ログが赤い警告文字で展開された。
POSTSELECTION_AUDIT_REPORT:
- TARGET_EVENT: GAWAIN_ASSASSINATION_ATTEMPT [RESOLVED]
- RESULT: SURVIVED (FUTURE_STATE_ENFORCED)
- RETROACTIVE_CAUSAL_MUTATIONS:
* POCKET_WATCH_CREATION: SILVER_WATCH_INSERTED (HISTORY_RETROFITTED)
* DAUGHTER_BACKSTORY_FABRICATION: "MILLY_WATCH" [COMMITTED]
* BULLET_TRAJECTORY_SHIFT: +1.42_DEGREE_DEFLECTION
* GAWAIN_MEMORY_OVERWRITE: "PLACED_WATCH_THIS_MORNING" [COMMITTED]
* WITNESS_OBSERVATION_CONSISTENCY: REWRITTEN
- CONSISTENCY_DEBT_ACCRUED: +0.0300
- CURRENT_CONSISTENCY_DEBT: 0.0312 / 1.0000
「……セラさん、リナさん」
俺は喉の渇きを覚えながら、二人に告げた。
「負債が……+0.0300 加算されました。現在の整合性負債は 0.0312 です」
セラが腰の革袋から、オルドから渡されていた小型の携帯型量子干渉計を取り出した。
ガラス円盤の中の極細の針が、昨日のコイン実験の時とは比べ物にならないほど大きく右へと振れ、赤い危険域の手前で小刻みに震えていた。
「……オルド先生の測定器も、空間の因果残差が完全に〇・〇三一二歪んだことを示している。報告通りだ」
セラは青ざめた顔で、豪快に笑うガウェインを見つめた。
「人の命を一人救い、致命傷を無効化しただけで、三パーセントもの因果が書き換わった。……存在しない娘の形見が生成され、ガウェイン自身の記憶まで『娘がいた過去』に偽造されたのだ」
「記憶を削らずに……誰も死なせずに済んだ……」
俺は自分の掌を見つめた。
IDENTITY_FIDELITY: 0.8300。
俺の頭の中の記憶は、何一つ消えていない。
リナとの約束を守り、セラの命も、ガウェインの命も守り抜くことができる。
それは、神にすら匹敵する、あまりにも甘美で圧倒的な全能の力だった。
「……だが、蓮」
セラが俺の腕を強く掴んだ。その紅蓮の瞳には、深い畏怖と決意が宿っていた。
「これを繰り返せば……いずれ世界そのものが、巨大な嘘の負債に耐えきれなくなって破綻する。……だが、二十万の大軍から国を守るには、我々はこの禁忌をさらに巨大な規模で使うしかないのだな……?」
「……ええ」
俺は深く頷いた。
網膜UIに浮かぶ 0.0312 の数字を見つめながら、俺たちは因果を偽造する禁忌の深淵へと、決定的な一歩を踏み出していた。




