第43章 戦争は避けられない
王都ルミナリアの王宮軍務統括室は、重苦しい沈黙と羊皮紙の擦れる乾いた音に支配されていた。
石造りの円卓の中央には、大陸全土を描いた巨大な魔導立体戦略図が浮かび上がっている。
青白く発光する地形図の上を、赤黒い光の矢印が無数に蠢き、王都ルミナリア、南部の穀倉地帯ヴェルダ平原、そして西方の聖地アルカディアを幾重にも包囲していた。
壁際の長机には、魔導院から提出された術士たちの魔力残量グラフと、近衛騎士団の兵站補給状況を記した書類が山積みにされている。そのどれもが、王都の継戦能力が限界に近いことを赤インクで告げていた。
「……先日の防衛戦で、我らは北方軍の第一梯団七万を奇跡的に退けた。だが――」
円卓の正面に立つ近衛騎士団長セラ・ヴァーミリオンが、燃えるような紅蓮の長髪を揺らしながら、指揮棒の先を地図の北方領境へと突き立てた。
「北部国境の斥候部隊から、最悪の緊急報告が届いた。北方連合は、本隊十万に加え、凍結山脈の奥深くに温存していた第二・第三梯団を全面稼働させた。……総兵力は二十三万。王都への単一進軍ではない。王国全土の防衛拠点を同時に押し潰す、全面総力戦の態勢に入った」
「に、二十三万……ッ!?」
円卓を囲む近衛将校たちの間から、息を呑む呻き声が漏れた。
先日の七万の防衛戦ですら、王都の主結界は粉砕され、近衛騎士団の装備の三割が破損したのだ。
三倍以上の兵力で全方位から波状攻撃を仕掛けられれば、兵糧も魔導結晶も持たず、長期籠城戦すら成立しない。
「セラ隊長……北方連合に対し、講和や停戦の使者を送る余地は……本当にないのでしょうか?」
リナが痛ましそうに眉をひそめ、祈るように両手を胸の前で組んだ。
「ないのだ、リナ神官」
セラは首を横に振った。その琥珀色の瞳には、軍人としての冷酷な現実認識が宿っていた。
「北方の特異魔導士ミラたちが掲げているのは、単なる領土の奪回ではない。かつて聖環教会が『神の世界線剪定』によって北方諸都市を丸ごと虚空へ消去したことへの、生存を賭けた復讐なのだ。……彼らにとって、この戦争は妥協の余地のない、種族の存亡を懸けた聖戦だ。全面衝突は絶対に避けられん」
***
将校たちが重苦しい面持ちで撤退ルートや玉砕防衛の遅滞戦術を議論する中、俺は静かに椅子から立ち上がり、部屋の片隅のバルコニー窓へと歩み寄った。
ガラス越しに見下ろせば、先日の勝利の余韻の中で日常を取り戻そうと行き交う王都の市民たちの姿がある。
焼きたてのパンを運ぶ店主、笑いながら手を繋いで歩く親子、石畳を駆け抜ける子どもたち。 彼らはまだ知らない。
数週間後には、二十万を超える大軍によって、この街のすべてが炎に呑まれる運命にあることを。
(本当に……避けられないのか?)
俺は網膜UIを起動し、管理者権限の深層機能――『Branch Explorer(世界線分岐探索)』を展開した。
BRANCH_EXPLORER_INVOKED:
- TARGET_SCOPE: REGIONAL_STRATEGIC_TIMELINE (T + 30_DAYS)
- PERMUTATION_SCAN_DEPTH: 64_THREADS
- SCAN_CRITERIA: AVOID_TOTAL_WAR AND PRESERVE_LUMINARIA
視界の奥で、無数の青白い光の樹形図が爆発的に枝分かれを始めた。
通常の物理法則と因果律(ユニタリ時間発展)の範囲内で分岐し得る、六十四通りの並行世界線。
俺はそのすべてを、意識の演算領域へ一気に引き込み、超高速でシミュレーションした。
――スレッド01:王都徹底籠城戦。 包囲から二十二日目に外郭が崩壊。セラ戦死(確率94%)。王都陥落。
――スレッド08:聖地アルカディアへの全軍撤退戦。 北部幹線街道で伏兵に遭い壊滅。救護所ごとリナが消滅(確率98%)。
――スレッド19:レン単独での北方本陣奇襲。 ミラの広域結合と重力特異点の集中砲火によりレンが行動不能。王都は背後から蹂躙(生存率0.00%)。
――スレッド35:ユリウス王太子の親征。 開戦初日に王太子が暗殺され、軍の指揮系統が瓦解。全軍敗走。
――スレッド52:停戦交渉の強行。 使者団が全滅し、士気低下により三日で作戦崩壊。
――スレッド64:魔導院の古代兵器全面解放。 オルドが自爆術式を起動。王都の半数が巻き込まれて消滅(生存率12%)。
SIMULATION_COMPLETE:
- TOTAL_BRANCHES_EVALUATED: 64 / 64
- VIABLE_SURVIVAL_BRANCHES (CASUALTY < 10%): 0 (0.0000%)
- WAR_AVOIDANCE_PROBABILITY: 0.0000% (ZERO_AMPLITUDE)
- ERROR: TARGET_STATE_NOT_FOUND_IN_ACCESSIBLE_SUBSPACE
「…………っ!」
冷たい汗が、背筋を伝い落ちた。
ゼロ。
どの道を選んでも、誰かが死ぬ。
どの世界線へ進んでも、戦争は絶対に勃発し、王都は灰燼に帰す。
完全な全員救済と戦争回避を両立する世界線など、この宇宙の確率空間には最初から存在しない(Zero Cannot Be Chosen)。
通常手段の、絶対的な限界。
***
「……相馬蓮」
背後から、セラの静かな声がかけられた。
振り返ると、軍議を終えた将校たちが重い足取りで退室し、広い統括室にはセラとリナだけが残っていた。
リナの手には、湯気を立てる三つの陶器のカップ。甘く香ばしいカファ・アプルの香りが漂っていた。
「お前の顔を見れば分かる。……また、お前だけの視界で、破滅の未来を覗き見ていたのだろう」
「セラさん……」
「先日の防衛戦、お前が奇跡を起こしてくれたことは感謝している。近衛の兵たちも、民たちも、お前を救世主のように崇めている。……だが、次は二十万だ。いくらお前が神の異能を持っていようと、個人の知覚や力で覆せる規模を完全に超えているのだ」
セラは一歩歩み寄り、俺の肩に革の手袋をそっと置いた。
その手のひらから伝わってくるのは、百戦錬磨の武人の力強さと、それ以上に深い哀切だった。
「相馬蓮。お前は異界から召喚された客人だ。この世界の因果に巻き込まれ、命を落とす義理はない。……リナ神官を連れて、南方の安全な属領へ落ち延びろ。近衛騎士団が、命に代えてもお前たちの脱出路を切り開く」
「何を言ってるんですか……!」
俺はセラの言葉を即座に遮った。
「セラさんや近衛の皆さんを置いて、俺たちだけ逃げるわけがないでしょう! 俺たちが逃げたら、王都は数週間で灰になるんだぞ!?」
「それが軍人の本分だ!」
セラの凛とした、だが痛切な叫びが室内に響いた。
その紅蓮の瞳の奥には、仲間を守りきれない無念と、レンを巻き込んでしまった罪悪感が渦巻いていた。
「私は騎士団長だ! 国と民のために命を捨てる覚悟など、剣を握った日から出来ている! お前一人にすべてを背負わせ、お前の心や大切な記憶を削り続けさせることなど……これ以上、私が許せると思うかッ! お前はもう十分に戦った……十分に私たちを救ってくれたのだ!」
「セラ隊長……っ」
リナが二人の間に割って入り、セラの腕を両手で強く包み込んだ。
「誰も……誰も死んではいけません。レン様を一人で逃がすことも、セラ隊長が身代わりに散ることも……絶対に間違っています」
リナは涙を堪えながら、俺とセラをまっすぐに見つめた。
その胸元には、いつも肌身離さず持っている聖印が揺れていた。
「レン様は、もうご自分を切り捨てないと約束してくださいました。セラ隊長も、命を捨てるなんて言わないでください。……三人で、王都のみんなと一緒に生き残る道を、絶対に諦めたくありません……!」
***
リナの祈りが、冷え切った室内に静かに染み渡っていった。
セラは目を閉じ、深く息を吐き出すと、俺の肩から手を離した。
「……すまない。取り乱した」
「いいえ。……俺こそ、感情的になってすみませんでした」
差し出されたカファ・アプルを受け取り、一口含む。
甘く温かい液体が、冷え切っていた胃の腑をじんわりと温めてくれた。
俺は胸ポケットの手帳に触れた。
手帳の中には、リナの署名がある。
俺の自我は 0.8300。もう記憶を削る世界線移動は使えない。
そして、通常の確率分岐(Branch)には、全員が助かる道は一筋も存在しない。
正面から進めば全滅。
世界線を渡れば自我の崩壊。
通常手段は、完全に詰んでいる。
(……なら、選ぶべき道は一つしかない)
昨日の地下実験室での光景が脳裏に鮮明に蘇る。
水晶のコイン。
未来の結果を先に確定させ、原因を逆算して現実を固定した、あの禁忌の力――。
(POSTSELECTION(事後選択)だ……)
過去の事実が書き換わり、世界に Consistency Debt(整合性負債)が積み上がるとしても。
この手で行使できる唯一の武器は、神の因果律そのものを力づくで書き換える、あの禁忌のアーキテクチャしかない。
その時だった。
――バアンッッ!!
軍務統括室の重厚な扉が乱暴に蹴破られ、血相を変えた近衛の伝令兵が転がり込んできた。
「ほ、報告ッ! 中庭の閲兵場にて、前線指揮を執られていた副団長・ガウェイン卿が……何者かの不可視の狙撃を受け、心停止寸前の重体ですッ!!」
「ガウェインがッ!?」
セラの表情が凍りつき、手元のカップを取り落としそうになった。
開戦を前にした、王都首脳陣の暗殺工作。
いよいよ、破滅の歯車が回り始めた。
俺は聖剣イグニスの柄を握りしめ、網膜UIのコマンドラインを意識の最前線へと引き上げた。
(結果から……選ぶんだ。十秒後の未来を……!)
因果を逆算する実戦が、今まさに始まろうとしていた。




