第36章 安い代償
正午を過ぎた王都ルミナリア北門は、血煙と焦熱の地獄へと変貌していた。
北方連合軍の第二波攻城梯団――総勢三万の精鋭魔導部隊による波状攻撃。
空を覆い尽くすほどの黒色火球と、空間を歪ませる重力機雷が、雨あられと城壁へと叩きつけられていた。 轟音とともに砕け散る外壁の石材。
大気を震わせる衝撃波が、足元の胸壁を激しく揺さぶる。
――ドォォォォォンッ!!
――ズガガガガガガッ!!
「第二防壁、右翼が崩落するぞッ! 重装歩兵、大盾を連結して隙間を塞げ!」
硝煙と粉塵が渦巻く中、白銀の甲冑に身を包んだセラの凛冽な叫びが響き渡る。
彼女の長剣が空を薙ぐたび、足元から同心円状に広がる『静定領域(Decoherence Zone)』が敵の複合術式を凍結・無力化していく。
だが――敵の物量はそれを遥かに凌駕していた。
崩落した城壁の裂け目から、黒鉄の装甲を纏った三頭の巨大な魔獣が、地響きを立てて雪崩れ込もうとしていた。
――グオオオオオオオッ!!
その背後で、銀髪を揺らす特異魔導部隊が一斉に詠唱を開始。
多重の虚空槍が青白い軌跡を描いて励起される。
狙いは、防衛線を維持するセラと、その後方で負傷兵の止血に奔走するリナの救護陣地だった。
――ガガガガッ。
視界が何重にもズレ、俺の網膜に『Branch Perception』が強制展開される。
CRITICAL_BRANCH_WARNING:
- PATH_A: SERA_HEAVILY_WOUNDED (78% FATAL)
- PATH_B: MEDICAL_TENT_ANNIHILATED (RINA: CRITICAL)
- PATH_C: MAIN_WALL_COLLAPSE (CASUALTIES: 46)
誰かが死ぬ未来。
誰かが壊れる結末。
赤黒い警告ログが、俺の網膜を狂ったように埋め尽くしていく。
(……やらせるかよ)
俺は思考を冷徹なシステムへと同期させ、管理者権限のコマンドを空間位相へと叩き込んだ。
EXECUTE: WORLD_BRANCH_OPERATOR
PHASE_FORCE_PRUNING: REJECT_ALL_CASUALTIES
REDUCED_DEVIATION_TARGET: PATH_OMEGA (CASUALTIES == 0)
足元の城壁周辺の熱エネルギーを急激に絶対零度近傍へと奪い取り($\Delta T \to 0$)、大気の密度勾配を歪めて光学的・空間的な屈折率を強制偏向。
聖剣イグニスを両手で振り抜き、奪い取った莫大な熱量を高密度プラズマの衝撃波として前方へと解き放った。
――ズドォォォォォォォォンッ!!
突進してきた装甲魔獣の足元が瞬間凍結してバランスを崩し、そこへセラの静定の一撃が叩き込まれて巨体が城外へと吹き飛ぶ。
さらに虚空へと逸らされた敵の魔導弾は、城外の無人の雪原へと着弾し、巨大な水柱となって爆散した。
敵の第二梯団は指揮系統を乱され、散発的な後退を始めた。
「……敵軍、一時後退ッ! 防衛ライン、維持成功ッ!」
兵士たちの叫びが響き渡る。
二日目の猛攻もまた、味方の戦死者を『ゼロ』のまま凌ぎ切ったのだ。
***
だが――その奇跡の代償は、確実に俺の肉体と精神を蝕んでいた。
城壁の陰、救護天幕の裏手に崩れ落ちるように座り込んだ俺は、激しい目眩と吐き気に襲われていた。 心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、冷たい汗が額から顎へと滴り落ちる。
呼吸がうまく吸い込めない。
頭の奥底で、何かがパキパキとひび割れていくような、冷たい痛痒感が走っていた。
SYSTEM_INTEGRITY_NOTICE:
- IDENTITY_FIDELITY: 0.8500 -> 0.8400 (-0.0100)
- PURGED_SECTOR: EPISODIC_BUFFER_JP_YOUTH_03
- MEMORY_BUFFER_DEGRADATION: ONGOING
また、少し削れた。
今度は、東京の高校時代の通学路の風景、放課後に友人たちと笑い合っていた教室の情景が、真っ白い砂埃となって消え去っていく感覚があった。
どんな制服を着ていたのか、通学カバンはどんな色だったのか。
思い出そうとすればするほど、そこには無機質なノイズしか返ってこない。
震える手で胸ポケットから革表紙の手帳――『Memory Ledger』を取り出し、ページを開く。
昨日まで読めていたはずの日本語の文字が、またいくつか、意味を失った線の染みへと変わっていた。
「レン様ッ……!!」
息を切らした足音とともに、リナが駆け寄ってきた。
白いエプロンに負傷兵の血を滲ませた彼女は、地面に膝をつき、青ざめた顔で俺の顔を覗き込んできた。
「レン様! 大丈夫ですか!? お顔が……真っ青です……!」
「……ああ。大丈夫だよ、リナさん。ちょっと魔力を使いすぎて、息が上がっただけだ」
俺は手帳を慌てて胸ポケットに隠そうとした。
だが――リナの琥珀色の瞳は、俺の手の震えと、手帳のページに走ったノイズの跡を、見逃さなかった。
「……また、使ったんですね」
リナの声が、低く震えた。
「その手帳……また、何かが消えたんですね? お昼の戦いでも……レン様は、ご自分の記憶を差し出して、あの奇跡を起こしたんですね!?」
「リナさん、落ち着いてくれ。……大したことじゃないんだ」
俺は荒い息を整えながら、努めて穏やかな声で微笑みかけた。
「見てごらんよ。二日目の総攻撃も、誰一人として死なずに済んだ。セラさんも無事だし、重装歩兵の兵士たちも全員生き残った。……誰も泣かずに済んだんだよ」
「大したことじゃない……? レン様が、ご自分を削って……日本での大切な思い出を消しているのに、それが大したことじゃないんですか!?」
「そうだよ」
俺は、心の底からそう信じ切っていた。
救済中毒の甘い毒に冒された俺の思考回路は、その歪んだ等価交換を完全に正当化していたのだ。
「誰かの命が助かるんだ。家族のもとへ帰れる兵士が何十人もいるんだよ。……それに比べたら、俺一人の昔の記憶が消えるくらい、何でもない。忘れるのが俺一人だけで済むなら――こんなの、安すぎる代償だよ」
***
――パァンッ、と。
乾いた鋭い音が、静まり返った救護所の裏に響き渡った。
「…………っ」
頬に走る、鋭い衝撃と熱。 俺は呆然として、目の前のリナを見つめた。
リナの右手が、宙で小さく震えていた。
あのいつも優しく、誰に対しても微笑みを絶やさなかったリナが――俺の頬を、力いっぱい平手打ちしたのだ。
「リナ……さん……?」
「安くなんか……安くなんかありませんッッ!!」
リナの口から、張り裂けんばかりの絶叫が爆発した。
その大粒の涙が、堰を切ったように頬を伝い落ちる。
彼女は両手で俺の軍服の胸ぐらを掴み、激しい怒りと悲痛に顔を歪めて、俺を真っ直ぐに睨みつけていた。
「何が……『安すぎる代償』ですか……! 何が『俺一人だけで済む』ですかッ!! ふざけないでくださいッ!!」
「リナさん……」
「そんなの……レン様の、ただの傲慢ですッッ!!」
リナの叫びが、雷鳴のように俺の耳元を貫いた。
傲慢――?
俺が、全員を救うために自分を犠牲にしている行為が、傲慢だと……?
「レン様は……ご自分がどれだけ残酷なことを言っているか、分かっているんですか!?」
リナは俺の胸を、小さな拳で何度も、何度も叩いた。
「『忘れるのが自分だけで済む』? ……じゃあ、レン様が自分を削って、どんどん空っぽになっていくのを隣で見ている私たちは、一体どんな気持ちでいればいいんですか!? レン様が自分の心を切り売りして買ってきた命で、私たちが『助かってよかったね』って笑って暮らせると本気で思っているんですか!?」
「それは……」
「自分一人だけが傷つけばいいなんて……周りの人たちを全員見下して、置き去りにするのと一緒ですッ!!」
リナの言葉が、鋭利な刃となって俺の心臓を抉り出した。
「私たちは……レン様のお人形じゃないんです! レン様に救われるためだけに生きているんじゃないんです! セラ隊長も、兵士さんたちも、私も……みんな、レン様と一緒に生きたいから戦っているんです! それなのに……レン様が自分を安売りして、私たちの思い出まで全部忘れて化け物になってしまったら……助けられた私たちは、一体何を背負って生きていけばいいんですかぁッ……!!」
リナは俺の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて号泣した。
彼女の熱い涙が、俺の軍服の胸元をぐっしょりと濡らしていく。
***
頭を、巨大な槌で殴られたような衝撃だった。
俺は……何をしていたんだ?
自分を無価値なリソースとして使い潰し、「俺一人が傷つけば全員が救われる」という悲劇の聖者のような全能感に酔いしれていた。
だが――それは他者を救っていたのではない。
傷つく恐怖から逃げ、自分を安売りすることでしか他者と繋がれない、俺自身の最も醜悪で、最も傲慢な自己満足だったのだ。
自分の記憶を削るということは、リナやセラと積み重ねてきた『絆の証拠』を、俺自身の都合で一方的にゴミ箱へ投げ捨てているのと同じだった。
『レン様が何を背負っていても……私は、レン様の味方です』
今朝、リナが言ってくれた言葉が蘇る。
彼女は俺の痛みを分かち合おうとしてくれていたのに、俺は彼女の手を払い除け、一人で勝手に殉教者気取りで魂を削り続けていたのだ。
「……ごめん」
震える声が、俺の唇からこぼれた。
「ごめん……リナさん……」
俺はリナの震える小さな肩を、力いっぱい抱きしめた。
彼女の温もり。心臓の鼓動。流れる涙の熱さ。
「ごめん……俺が、間違っていたよ。……安くなんて、なかった。俺の記憶も……リナさんたちと過ごした時間も……何一つ、安くなんてなかったんだ」
「う……うぅ……っ……レン様ぁ……っ……!」
リナは俺の背中に両手を回し、すがりつくように泣き続けた。
硝煙の漂う城壁の陰。
自分の致命的な欠点と、救済中毒という名の呪いを突きつけられた男は、ただ冷たい風の中で、泣きじゃくる少女の体温を抱きしめ続けていた。




