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神様、それはスキル付与ではなく権限昇格です  作者: J-AI


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第35章 知らない涙

 夜明け前の王都ルミナリアは、冷たい濃藍(こいあい)の薄闇に沈んでいた。


 東の空の際(きわ)が、かすかに白み始めている。  平原を覆っていた濃い朝靄(あさもや)が、地平線に並ぶ北方連合軍の無数の篝火(かがりび)をぼんやりと赤く滲ませていた。

 硝煙の匂いを含んだ冷気が、肌を刺すように冷たい。


 兵舎の中庭の石造りのベンチに腰掛け、俺は砥石(といし)で聖剣イグニスの刀身を静かに研いでいた。

 シュッ、シュッ、と規則正しい摩擦音だけが、静寂に満ちた庭に響く。

 指先を滑らせて刃の狂いを確かめる。

 手入れを終えた白銀の刀身は、わずかな朝の光を反射して青白く澄んだ輝きを放っていた。


 胸ポケットから、革表紙の手帳――『Memory(記憶) Ledger(台帳)』を取り出す。

 表紙をめくると、昨日まで確かにそこに書かれていたはずの日本のメモの幾つかが、かすれた薄墨のように輪郭を失いかけていた。

 通勤電車の路線名。好きだった定食屋の味。そして、昨夜失われたあの曲のタイトル。

 文字として書き留めてあったはずのページすら、認知の剥落とともに意味の通らない記号の羅列へと変質し始めている。


 だが――その次のページに刻まれた、リナの自筆のメッセージだけは、瑞々しいインクの香りを残したまま力強く輝いていた。


『私がレン様の証拠の人になります』


 その文字を指先でそっとなぞる。

 それだけで、凍てつきそうな胸の奥に、確かな熱が宿るのが分かった。


「……レン様。やっぱり、ここにいらっしゃったんですね」


 背後から、衣擦れの音とともに柔らかな声が届いた。

 振り返ると、薄手のウールのショールを肩に羽織ったリナが、小さな布袋と湯気の立つ水筒を両手で抱えて立っていた。

 寝起きの柔らかい金髪が朝風にふわりと揺れ、その白い頬が寒さでほんのり赤らんでいる。


「リナさん。起こしてしまったか?」


「ううん、自然と目が覚めてしまったんです。……お部屋にレン様がいらっしゃらなかったので、少し心配になって」


 リナはベンチの隣にそっと腰を下ろすと、抱えていた布袋から湯気の立つ焼き立ての丸パンを取り出し、慣れた手つきで二つに割った。

 立ち上る小麦の甘く香ばしい匂い。


「はい、レン様の分です。厨房の炊事兵さんが、朝一番に焼いてくださったんですよ。まだ温かいです」


「ありがとう。いただきます」


 半分に分けられたパンを受け取り、口に運ぶ。

 外側はカリッと香ばしく、中はふんわりと柔らかい。

 ラーナ要塞の宿舎でも、こうして二人で朝のパンを取り分けて食べたことがあった。

 あの時は、これから始まる戦争への不安を抱えながらも、どこか穏やかな日常の温もりがあった。


 ……だが、あの街はもうない。

 ガウェイン卿も、あの燃え盛る雪原で散った。

 そして――。


 俺は隣で小さくパンを頬張るリナの横顔を、じっと見つめた。

 朝靄の光を浴びて透き通るような白い肌。

 もぐもぐと小さく動く唇。

 生きている。

 確かに今、俺の隣で息をして、温かいパンを食べている。


 その奇跡のような光景を見つめているだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、熱いものが喉元まで込み上げてくる。


「あ、レン様……カファ・アプルも淹れてきましたよ」


 リナは水筒の蓋を開け、小さな木製のカップに温かい琥珀色の液体を注いで手渡してくれた。

 立ち上るリンゴの甘酸っぱい香りと、カファ豆の香ばしい薫香。

 一口飲むと、熱い液体が胃に染み渡り、夜明けの冷気で強張っていた身体の芯がじんわりと解きほぐされていく。


「美味しいよ。いつもありがとう、リナさん」


「えへへ……レン様のお口に合ってよかったです」


 リナは嬉しそうに目を細めると、ふと俺のこめかみへと視線を向けた。


「レン様、また少しお顔に疲れが出ています……。こめかみ、痛くないですか? 少しだけ、癒しの光を当てましょうか?」


「いや……大丈夫だよ。リナさんの魔力は、これからの戦いのために温存しておいてほしい」


「でも……」


 リナは心配そうに眉を下げたが、俺が静かに微笑むと、それ以上は無理に術を使おうとはしなかった。


***


 二人の間に、静かな沈黙が流れた。


 薄紫色の空が、ゆっくりと橙色の光を帯び始めていく。

 風が吹き抜けるたび、中庭の木々がサワサワと葉を揺らし、朝露が地面へと零れ落ちる。


「…………あの、レン様」


 カップを両手で包み込んだまま、リナが膝の上で小さく身を縮め、躊躇(ためら)うように口を開いた。


「どうした?」


「……ずっと、お聞きしてもいいのか、迷っていたことがあるんです」


 リナの声は、いつもよりずっと小さく、震えていた。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、琥珀色の瞳で真っ直ぐに俺の瞳を見つめてきた。

 その瞳の奥には、深い戸惑いと、痛切なまでの心配が滲んでいた。


「レン様は……どうして、私を見る時だけ、そんなに泣きそうな目をするのですか?」


「…………」


 心臓が、跳ねるように脈打った。

 息が、喉の奥で詰まる。


「戦場で兵士の方々を指揮する時も、セラ隊長と作戦を話していらっしゃる時も、レン様はすごく凛々しくて、頼もしいお顔をされています」


 リナは震える指先で、そっと自分の胸元を押さえた。


「でも……私と二人きりになった時や、ふと私と目が合った時……レン様はいつも、今にも泣き崩れてしまいそうな、ひどく悲しい目をされます。……まるで、私がどこか遠くへ消えてしまうのを、一人きりでずっと見送っているかのような目で」


 リナの言葉が、冷たい氷の針となって俺の胸の奥深くに突き刺さった。


「昨日、歌の続きを思い出せなくなった時もそうでした。……レン様は、私が知らない『何か』を、一人でずっと抱え込んでいらっしゃるんじゃないですか? 私が知らない場所で……レン様は、何をそんなに悲しんでいるんですか……?」


 リナの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、朝露の濡れた石畳へと吸い込まれていった。


 知らないのだ。

 リナは、自分がなぜそんな風に見つめられているのか、その本当の理由を知らない。


 ――知るはずがない。


 この世界線(BR-021)のリナは、南門を突破して無傷で生き延びたリナだ。

 彼女の記憶には、あの半壊した礼拝堂の冷たい床の感触もない。

 虚空魔導槍に心臓を貫かれた時の、引き裂かれるような激痛も知らない。

 俺の腕の中で、血を吐きながら『東京の街……見たかったな……』と呟いて息を引き取った記憶など、彼女の頭の中には一欠片も存在しないのだ。


 ――【救われた本人は、自らが死んだ事実を知らない】。


 それが、世界線移動(Branch Migration)がもたらす、絶対的な非対称性の呪いだった。


 リナの死の記憶を持っているのは、世界中で俺一人だけ。

 彼女が冷たくなった時の手の重さも、止まってしまった脈拍の絶望も、全て俺一人の脳内にだけ焼き付けられている。


 リナが生きていることの奇跡を。

 彼女が笑い、話し、息をしていることの尊さを。

 世界中で俺だけが、痛烈すぎるほどの解像度で理解してしまっているからこそ――俺は彼女を見るたびに、涙を堪(こら)えることができないのだ。


***


「……言えないよ」


 掠れた声が、乾いた喉からこぼれた。


 言えるはずがない。 『君は前の世界線で、俺を庇って心臓を貫かれて死んだんだ』なんて。 『俺は君が死んだ現実を受け入れられず、自分の記憶を切り売りして世界線を捨てて逃げてきたんだ』なんて。


 そんな残酷な真実を打ち明ければ、リナの心は砕け散ってしまう。

 自分のせいでレンが故郷を失い、記憶を削られていると知れば、彼女は自分を激しく責め苛(さいな)み、耐え難い罪悪感に押し潰されてしまうだろう。


 この痛みも、この孤独も、俺一人だけが背負えばいい。

 それが、死者を選別して並行世界へと逃げ延びた『管理者』としての、俺の永遠の十字架なのだから。


「レン様……」


 答えを待つリナの瞳が、切なげに揺れている。


 俺は深く息を吸い込み、強張った顔の筋肉を緩めて、静かに口元を綻(ほころ)ばせた。

 できる限り優しく、穏やかな笑みを作って。


「……ごめんね、リナさん。心配させて」


「え……?」


 俺はそっと手を伸ばし、リナの柔らかい金髪を優しく撫でた。

 指先から伝わってくる、確かな体温。


「泣きそうな顔をしてたのは……リナさんが、あまりにも綺麗で、眩しいからだよ」


「……え……?」


 リナがぽかんと口を開け、それから耳まで真っ赤に染まった。


「な、何を仰っているんですか、レン様……っ!」


「本当だよ」


 俺はリナの頭に手を置いたまま、遠く白みゆく空を見上げた。


「日本の記憶を忘れていって、故郷を失って……俺は今、自分が何者なのかすら分からなくなりかけてる。……でもね、リナさんが隣で笑ってくれるだけで、俺はこの世界にいていいんだって思えるんだ」


 嘘ではない。  半分は、俺の魂の底からの本心だった。


「リナさんが、俺の光なんだよ。だから……消えてしまいそうに見えるんじゃなくて、失うのが怖くて、大事すぎて、胸がいっぱいになっちゃうんだ」


「レン様……」


 リナは赤くなった顔を手で覆い、それから指の隙間から、潤んだ瞳で俺を見つめ返した。


「ずるいです……そんな風に言われたら、私……何も聞けなくなっちゃいます……」


「はは……ごめん」


「……でも」


 リナは覆っていた手を下ろし、そっと俺の胸元へと額を預けてきた。

 薄手のショール越しに伝わる、彼女の柔らかな体温と、トクトクと刻まれる確かな鼓動。


「レン様が何を背負っていても……私は、レン様の味方です。レン様が私を眩しいと思ってくださるなら、私はずっと、レン様のお隣で笑い続けますから」


「……ああ。ありがとう、リナさん」


 俺はリナの背中にそっと手を添え、目を閉じた。


 日本の記憶は消えた。

 母親の声も、友人の名前も、愛した歌の旋律も、もう二度と戻らない。


 ――だが。


 この胸の中に灯る、リナへの愛おしさだけは。

 この温もりを守り抜きたいという、魂の奥底の感情の残滓(Affective Residue)だけは。

 どんなシステムのエラーでも、どんな忘却の規則でも、決して消し去ることはできない。


***


 ――ブオォォォォォォォォォンッ……!!


 その時、王都の北東の空を切り裂いて、重苦しい開戦の角笛が鳴り響いた。

 朝靄を突き破り、地平線の彼方から響いてくる、大地を揺るがす無数の足音と鬨(とき)の声。


「敵の……第二波が来ましたね」


 リナが俺の胸から顔を上げ、凛とした表情で立ち上がった。

 その瞳には、もはや迷いも涙もない。


「行こう、リナさん。城壁へ」


「はい、レン様!」


 俺は立ち上がり、腰の聖剣イグニスの柄を強く握りしめた。


 朝日が昇り、白亜の王都ルミナリアを黄金色の光が照らし出す。  二日目の総力戦が、今まさに始まろうとしていた。

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