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神様、それはスキル付与ではなく権限昇格です  作者: J-AI


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第34章 歌の続き

 北門城壁での激戦が一段落し、夜の帳(とばり)が王都ルミナリアを覆っていた。


 平原を埋め尽くす北方連合軍の篝火(かがりび)が、地平線の彼方まで無数の赤い星のように瞬いている。

 昼間の総攻撃で決戦兵器を自壊させられた敵軍は、主結界の外縁まで一時後退し、部隊の再編と次なる攻城梯団の準備を進めていた。

 嵐の前の、束の間の静寂。


 兵舎の一角に割り当てられた控え室の暖炉には、薪が赤々と爆ぜていた。

 窓の外から吹き込む冷たい夜風を遮るように、厚手のカーテンが引かれている。


「レン様、カファ・アプルが淹れ終わりましたよ」


 湯気を立てる二つの陶器のカップをトレイに載せ、リナが小走りで戻ってきた。

 リンゴの甘酸っぱい香りと、焙煎したカファ豆のほろ苦い香気が、硝煙の匂いに染まった部屋の空気を柔らかく塗り替えていく。


「ありがとう、リナさん」


 俺は机の上の手帳から顔を上げ、差し出された温かいカップを受け取った。

 一口含むと、熱い液体が喉を通り、戦場で極限まで張り詰めていた神経がじんわりと解きほぐされていく。


「防衛第一梯団の負傷者の方々も、全員命に別状はありませんでした。……本当に、奇跡のようです。レン様のおかげですね」


 リナは自分のカップを両手で包み込み、暖炉の火に照らされながら穏やかに微笑んだ。

 その琥珀色の瞳には、昼間の激戦を乗り越えた安堵と、レンに対する無条件の信頼が宿っていた。


 ――コンコン。


 控えめなノックの音とともに、部屋の扉が開いた。

 入ってきたのは、肩の包帯を新しい清潔なものに取り替えたセラだった。

 甲冑の上衣を脱ぎ、動きやすい黒い軍服姿になっている。


「邪魔するぞ、相馬蓮、リナ」


「セラ隊長。お疲れ様です、お怪我の具合はいかがですか?」


「ああ、リナの治癒術のおかげで、剣を振るう分にはもう支障ない。……相馬蓮、作戦司令部の各隊長たちから、お前への感謝の言葉を預かってきた」


 セラは扉を閉めると、暖炉のそばの木製椅子を引き寄せて腰を下ろした。

 その切れ長の翠眼(エメラルド)が、じっと俺の顔を見つめる。


「重装歩兵の隊長などは、お前のことを『神の御業を振るう守護神』だと拝んでいたよ。……だがな、相馬蓮」


 セラの声のトーンが、わずかに低くなった。


「あの重力砲撃の直前……お前の目は、城壁の上の私たちを見ていなかった。……まるで見えない無数の未来を同時に品定めしているかのような、底知れない異様さがあった。お前は一体、何を見ていたんだ?」


 鋭い問いだった。

 武人としての直感で、セラは俺が『通常の剣技や魔導』ではない領域に踏み込んでいたことを嗅ぎ取っていたのだ。


「……何でもありませんよ。ただ、風の流れと魔力の偏りを極限まで計算していただけです。東京のエンジニア時代から、過負荷がかかった回線のトラフィックを捌くのは得意でしたから」


 俺は曖昧に笑って誤魔化した。

 セラは納得したような、していないような複雑な表情で息を吐き出すと、それ以上は追及しなかった。


「……そうか。お前が無理をしていないのならいい。ラーナでガウェイン卿を失ってから、お前はどこか自分を追い詰めすぎているように見える。……仲間を頼れ。一人で全てを背負い込むな」


「はい。肝に銘じておきます、セラさん」


「では、私は夜間の哨戒配置を確認してくる。少しでも体を休めておけ」


 セラは短く頷くと、静かに部屋を出て行った。


***


 再び二人きりになった部屋に、薪の爆ぜるパチパチという音だけが響いた。


 リナはカファ・アプルを一口飲むと、暖炉の炎を見つめながら、ふと思い出したように小さく唇を開いた。


「ふふ……セラ隊長も、本当はすごく心配しているんですね」


「ああ。不器用だけど、優しい人だよ」


「はい。……あの、レン様」


 リナがそっと顔を上げ、愛おしそうな眼差しで俺を見た。


「さっき、救護所で包帯を巻きながら、ずっとレン様が昔教えてくださった歌を思い出していたんです。……ほら、ヴァルディス砦の城壁で、私がハミングしたあの歌です」


 リナはカップを机に置き、澄んだ綺麗な声で、そっとメロディを口ずさみ始めた。


 ――静かで、どこか懐かしい、緩やかな旋律。


 それは、俺が日本にいた頃、夜遅くに中央線の電車に揺られながら、イヤホンから流していた大好きな曲のイントロだった。

 雨の降る夜、街の明かりが濡れたアスファルトに反射する光景を見つめながら、擦り切れるほど繰り返し聴いていた日本の曲。


「……リナさん、よく覚えていたね」


「はい! レン様が移動中の馬車の中で、時々小さく口ずさんでいらっしゃったのを聞いて、すごく素敵な曲だなと思って覚えたんです。……でも、私、最初の一節しか知らないんです。その先は、どんなメロディなんですか?」


 リナが無邪気に、期待に満ちた笑顔で尋ねてきた。


「その先か……」


 俺はふっと微笑んだ。


「その先は、テンポが少し上がって、サビに入るところがすごくいいんだよ。ちょっと歌ってみるよ」


 俺は息を吸い込み、リナが歌ってくれたフレーズに続けて、サビのメロディを口ずさもうとした。


 ――タララ、ラララ……。


 出だしの三音。

 そこまでは、確かに喉から音が出た。


 だが――。


「…………?」


 四音目を歌おうとした瞬間、頭の中で激しい耳鳴りが走った。


 次の音階が、出てこない。


 ――あれ?


 俺は喉を押さえ、頭の中の記憶を手繰り寄せようとした。

 何百回、何千回と聴き込んだはずの曲だ。

 歌詞カードを見なくても、口が勝手に動いて歌えるはずの、俺の青春の一部だった曲だ。


 サビの歌詞は何だった?

 どんなコード進行で、ドラムのビートはどう刻まれていた?  

アコースティックギターの音だったか?

 それともピアノのイントロだったか?

 そもそも――この曲のタイトルは何だ?

 歌っていたバンドの、アーティストの名前は何だった?


 ――ガガッ、と。

 思考を巡らせれば巡らせるほど、脳内の音楽プレイヤーの上に、無機質な灰色の砂嵐が吹き荒れた。


MEMORY_ACCESS_FAULT:

- TARGET_SECTOR: EPISODIC_AUDIO_JP_TRACK_04 (MUSIC)

- STATUS: NULL_DATA / UNRECOVERABLE_PURGE

- RESIDUAL_TRACE: 0.0000%


 何もない。  真っ白だ。


 まるで、最初からそんな曲などこの世に存在しなかったかのように。

 俺の頭の中から、その曲の旋律も、歌詞も、曲名も、歌声も、すべてが完璧に消滅していた。


***


「レン様……?」


 黙り込んでしまった俺の異変に気づき、リナが不安そうに眉を寄せた。


「あの……続きは、どういう歌なんですか?」


「…………」


 俺は口を開いたまま、声が出なかった。

 喉がカラカラに乾き、冷たい汗が背筋を伝い落ちていく。


 思い出せない。

 一音も、一文字も。


 昼間の北門防衛戦で、俺が『全員生存』を強引に確定させた代償。

 網膜UIに表示された DELETED_SECTOR: EPISODIC_BUFFER_JP_MISC_08 の文字。

 オルドが言っていた【忘却の規則】。


 ――高エントロピーデータである音響周波数データから、優先的に圧縮・破棄される。


 母の声に続いて、俺が愛していた日本の音楽まで、システムは容赦なく消去し尽くしたのだ。


「レン様……手、すごく冷たいです……」


 リナが立ち上がり、震える俺の両手を包み込んできた。

 彼女の温かい手のひらが触れているのに、俺の心の芯は、凍てつくような孤独と恐怖に震えていた。


「……思い出せないんだ」


 掠れた声が、自分の口から漏れた。


「え……?」


「歌の続きが……思い出せない。どんな歌詞だったかも、どんな曲だったかも……タイトルも、誰の歌だったのかも……全部、消えちゃったんだ」


 リナの息が止まった。

 彼女は目を見開き、それから痛ましそうに顔を歪めた。


「そんな……お昼の、あの戦いで……?」


「ああ。……俺が、代償を払ったからだ」


 俺は力なく笑ってみせた。

 だが、その笑みはひどく歪んでいたはずだ。


「いいんだよ。……ただの歌だ。日本の流行り歌の一つくらい、忘れたって生きていくのに何の支障もない。……セラさんも、ガウェインさんが守ろうとした兵士たちも、みんな生きてるんだ。曲の一つくらい、安いもんだよ」


「安くなんか、ありませんッ!!」


 リナが、叫ぶように遮った。

 その瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。


「レン様にとって、日本での思い出は……レン様がレン様であるための、大切な宝物じゃないですか! それを……歌まで失ってしまうなんて……!」


「リナさん……」


「私が、覚えていますから……!」


 リナは俺の手を胸に押し当て、涙で濡れた顔で必死に訴えかけてきた。


「最初の一節だけでも、私がずっと歌い続けます! レン様が忘れてしまっても、私がこの世界で、レン様の歌を歌い残します! だから……そんな風に、自分を安売りしないでください……!」


 リナの叫びが、胸に突き刺さる。

 彼女の温かい心臓の鼓動が、手のひらを通してトクトクと伝わってくる。


 だが――俺の頭の中からは、日本の街並みが、通勤電車の車窓が、改札を通る時のタッチ音の感触が、急速に色褪せていっていた。


 もう、思い出せない。

 東京の空がどんな色をしていたのか。

 雨の日のアスファルトがどんな匂いだったのか。

 金曜日の夜の居酒屋の喧騒が、どんな音だったのか。


 ――故郷を、失ったのだ。


 俺はもう、日本という世界に戻るための『自分』を失ってしまった。

 もし今、奇跡が起きて東京の街に放り出されたとしても、俺は自分の家すら、自分の好きな曲すら分からない、ただの異邦人として立ち尽くすしかないのだ。


 俺にはもう、帰る場所などどこにもない。


***


 リナが泣き疲れてベッドで浅い眠りに落ちた後、俺は一人、静かに窓辺へと歩み寄った。


 カーテンを少しだけ開け、夜の闇を見つめる。

 地平線を染め上げる、北方連合十万の赤い篝火。

 冷たい風が吹き抜け、王都の尖塔を揺らしている。


 ポケットから、革表紙の手帳――『Memory(記憶) Ledger(台帳)』を取り出した。

 リナが自筆で『私がレン様の証拠の人になります』と書き記してくれたページを、指先で優しくなぞる。


 ――俺の故郷は、消えた。


 だが、絶望はなかった。

 不思議なほど、胸の中は澄み渡るように静かだった。


 帰る場所がないのなら、この世界を俺の居場所にするまでだ。

 日本の記憶が消え去ったとしても、目の前にいるリナの温もりは本物だ。

 セラの凛とした覚悟も、兵士たちの生きた笑顔も、すべてこの世界に確かに実在している。


(……誰も、死なせない)


 手帳を胸ポケットへと仕舞い込み、俺は夜の闇に向かって静かに誓った。


 俺の魂がどれほど擦り減ろうとも。

 過去の全てが消去され、空っぽの抜け殻になろうとも。

 この手にある権限の全てを使って、リナを、セラを、この街に生きる全ての人々を守り抜いてみせる。


 冷たい夜風が、二度と戻らない故郷の残骸を、静かに吹き散らしていった。

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