第33章 全員生存
王都ルミナリア北門主城壁の上は、灼熱の爆風と砕けた石材の粉塵で白く煙っていた。
大気中を切り裂いて飛来する、無数の紅蓮の火球と青白い虚空魔導弾。
外郭結界を破った北方連合軍十万の先鋒部隊が、王都を取り囲む平原一面に漆黒の陣形を敷き詰め、重層的な攻城魔導陣から絶え間ない斉射を浴びせかけていた。
――ドォォォォォンッ!!
城壁の胸壁が直撃を受け、激しい衝撃波が足元の石畳を激震させる。
吹き飛んだ石片が甲高い音を立てて空を舞い、兵士たちの悲鳴と怒号が耳を劈いた。
「怯むなッ! 第三、第四防衛隊、胸壁の裂け目に魔導盾を展開しろ! 負傷者は速やかに後方救護所へ搬送!」
立ち込める硝煙の向こうで、白銀の甲冑に身を包んだセラが長剣を抜き放ち、凛冽な声で指揮を飛ばしていた。
左肩の包帯に血を滲ませながらも、その翠眼に一切の動揺はない。
彼女の足元からは不可視の波動――『静定領域(Decoherence Zone)』が同心円状に広がり、城壁周辺の乱れた大気エントロピーを強制的に冷却・固定していた。
「勇者殿! リナ神官! 前線へようこそ!」
崩落した城壁の隙間に巨大なタワーシールドを並べ、押し寄せる飛来物を必死に防いでいた近衛重装歩兵隊の隊長が、血煙に塗れた顔を上げて叫んだ。
「敵の第一攻城梯団が外堀を埋めにかかっています! 中央の大型魔導兵器……あれを止めねば、この北門城壁ごと消し飛ばされますぞ!」
隊長の指差す先、平原の中央に、黒鉄で組まれた巨大な櫓のような兵器が鎮座していた。
砲身を取り囲む魔導回路が不気味な紫光を放ち、周囲の空間そのものを歪めながら莫大な魔力粒子を吸引している。
北方軍の決戦兵器『連鎖重力収束砲』だ。
「リナ神官は重装歩兵の背後で救護陣地を維持しろ! 相馬蓮、お前は私と共に中央の砲撃を――」
セラの指示が、唐突に途切れた。
平原の中央で、重力収束砲の天頂が眩い閃光を放ったのだ。
空間が軋むような甲高い不協和音が鳴り響き、王都全体の大気圧が一気に跳ね上がる。
――ガガガガッ、と。
俺の網膜の奥で、無機質な青いシステムUIが異常な速度で展開した。
CRITICAL_ALERT: HIGH_DENSITY_ENTROPY_ATTACK DETECTED
SOURCE: CONVERGENCE_GRAVITY_CANNON
TARGET: NORTH_GATE_MAIN_RAMPART
ESTIMATED_IMPACT: T-MINUS 4.2 SECONDS
時間が、粘性を帯びたように極端に減速した。
俺の知覚が世界から剥離し、多重の可能世界を同時に観測する『Branch Perception(世界線分岐知覚)』が強制的に全開になる。
視界が何重にもズレ、網膜の上に、これから起こり得る無数の『未来の残像』が半透明の映像となって一斉に投射された。
――スレッド・アルファ。
セラが長剣を構えて前へ飛び出し、重力砲の直撃を静定領域で受け止めようとする。だが防ぎきれず、空間圧壊の衝撃波に呑み込まれて胸部を粉砕され、即死する残像。(Casualties: 14 / CHR-SERA: DEAD)
――スレッド・ベータ。
重装歩兵部隊が大盾を重ねてセラの前に割り込む。重力の奔流に盾ごと部隊全員が圧殺され、防壁が一気に崩壊して防衛線が壊滅する残像。(Casualties: 21 / DEFENSE_UNIT: WIPED)
――スレッド・ガンマ。
砲弾が城壁を貫通して後方へ着弾。救護天幕が丸ごと吹き飛び、負傷兵を手当てしていたリナの身体が瓦礫の下に埋もれる残像。(Casualties: 19 / CHR-RINA: CRITICAL)
十六通りの分岐スレッド。
その全てに、赤黒い文字で刻まれる『誰かの死』の結末。
――戦場の確率論。
十万の軍勢が放つ巨視的質量の前では、個人の力など無に等しい。誰かが生き残れば、誰かが必ず死ぬ。それがこの世界の、物理法則の冷酷な帰結だった。
脳裏をよぎるのは、ラーナ要塞のあの燃え盛る雪原の記憶。
南門の崩落を背負い、俺たちを逃がすために散っていったガウェイン卿の最期の笑顔。
そして、先ほど魔導院でオルドが黒板に書き殴った数式と、痛切な怒声だった。
『日本のバッファが尽きた瞬間、消去の刃は異世界の記憶へと向かう! リナ神官の名前も、顔も、全ての思い出も、小僧の頭の中から跡形もなく消え去るのだ!』
魂を削るな、とオルドは言った。
これ以上の世界線操作は、人間性の死を意味すると。
だが――。
ラーナでは、ガウェインを救えなかった。
だが、ここは王都だ。
目の前で、仲間を守ろうと剣を握りしめるセラの横顔。
必死に防壁を支える兵士たちの背中。
怯える負傷兵の手を握りしめ、必死に光球を灯すリナの祈り。
失っていい命など、一つもあるものか。
二度と、あんな思いで仲間を見送ってたまるか……ッ!
(誰一人として、死なせない……ッ!)
俺は奥歯を噛み砕くほど強く噛み締め、腰の聖剣イグニスを両手で握り直した。
感情を氷のように凍りつかせ、脳内の思考回路をインフラエンジニアの冷徹なアーキテクチャへと切り替える。
叫ばない。激情に身を任せない。
ただ淡々と、管理者権限のコマンドを空間位相へと叩き込む。
EXECUTE: WORLD_BRANCH_OPERATOR
MODE: MULTI_THREAD_PRUNING & PHASE_STEERING
TARGET_CONVERGENCE: CASUALTIES == 0 (ALL_SURVIVE)
――十六の破滅スレッドを、片っ端から手動で却下する。
セラが死ぬ世界線を破棄。
重装歩兵部隊が圧殺される世界線を破棄。
リナが血を流す世界線を破棄。
名も知らぬ防衛兵たちが瓦礫に押し潰される世界線を、一つ残らず強制キルする。
消去し、消去し、消去したその先に――針の穴を通すような、確率〇・〇〇一二パーセントの極小特異点を捕捉した。
(そこだ……ッ!)
俺は城壁の天辺へと駆け上がり、聖剣イグニスの切っ先を飛来する重力弾の軌道へと向けた。
プロトコル・シーケンス開始。
まず、足元の城壁周辺の熱エントロピーを絶対零度近傍へと急激にドロップ($\Delta T \to 0$)。局所吸熱によって大気の密度勾配を極限まで引き上げ、光学的・空間的な屈折率を強制偏向。
同時に、奪い取った膨大な熱エネルギーを聖剣の刀身へとフィードバックし、高密度プラズマの位相干渉波として励起する。
「セラさん! 前方三〇度の空間へ、静定領域を最大出力で展開してください!」
「なっ……了解だッ!」
セラが即座に応じ、長剣を空間へと突き出した。
不可視の静定の壁が、歪んだ空間をガチリと硬直させる。
そこへ、俺が放った聖剣の吸熱干渉波が衝突した。
二つの相反するベクトル――確率を固定する静定と、確率を歪める吸熱偏向が噛み合い、飛来した連鎖重力弾の位相ノードを完全にデカップリングする。
――カチリ。
世界の因果が、音を立てて噛み合った。
――チュドォォォォォォォォォンッ……!!
凄まじい光と轟音。
だが、放たれた重力砲弾は城壁に直撃することなく、硬直した空間の境界面で大きく上方へと弾き飛ばされ、王都上空の何もない虚空で大爆発を起こした。
天空を焼き尽くす紫電と衝撃波。
降り注ぐ破片は、重装歩兵の大盾列とリナの防護結界によって完全に弾き返された。
硝煙が、風に流されて消えていく。
……城壁は、一枚の石板すら崩れていなかった。
***
静寂が、北門城壁を包み込んだ。
耳を澄ませても、兵士たちの呻き声も、肉が焼ける臭いも、血の滴る音もしない。
敵の大型魔導兵器は過負荷によって砲身が自壊し、平原の北方軍は信じられないものを見るように一時後退を始めていた。
「おい……嘘だろ……」
重装歩兵隊長が大盾を下ろし、呆然と空を見上げた。
城壁の上に並ぶ兵士たちも、互いの顔を見合わせ、自分の手足を触って生きていることを確かめている。
「防衛第一梯団……死者、ゼロ……?」
セラの震える声が、静寂を破った。
彼女は血の気の引いた顔で、周囲の兵士たちと城壁の損害状況を見回した。
「重傷者なし、軽傷三名のみ……。あの直撃を受けて、誰一人として死んでいない……!?」
「う、おおおおおおおおおッ!!」
一人の兵士が叫んだのを皮切りに、城壁全体から割れんばかりの大歓声が爆発した。
「助かった……! 俺たち、生きてるぞッ!」 「勇者様だ! 勇者様が敵の決戦砲撃を弾き返してくださったんだッ!」 「全員生き残ったぞぉぉぉッ!!」
兵士たちが互いに肩を抱き合い、涙を流して拳を突き上げている。
歩兵隊長が感涙に声を詰まらせて礼拝の姿勢を取り、セラもまた、胸に手を当てて深く安堵の息を吐き出していた。
「見事だ、相馬蓮……。信じがたい知略と剣技だ。お前がいなければ、今頃私たちは全員、瓦礫の塵となっていただろう」
「……いえ。セラさんと隊長、それに皆さんが持ちこたえてくれたおかげです」
俺は息を整えながら、穏やかに答えた。
「レン様ッ!」
救護所から、リナが駆け寄ってきた。
その琥珀色の瞳は涙で潤み、安堵で胸を詰まらせながら、俺の無事な姿を確かめるように両手で俺の手をぎゅっと包み込んだ。
「よかったです……本当によかったです……! 誰も死なずに済みました……! レン様が、全員を救ってくださったんですね!」
「ああ。誰も死なずに済んだよ、リナさん」
温かいリナの手の感触。
仲間の生きた笑顔。
兵士たちの歓声。
誰も死んでいない。
ラーナの時のように誰かを置き去りにすることもなく、セラの死も、兵士たちの壊滅も、リナの流血も、全てこの手で叩き潰し、無傷の生存へと書き換えてやったのだ。
胸の奥から、言葉にできないほどの甘美な高揚感が湧き上がってきた。
救えたのだ。
この手にある権限を使えば、どんな理不尽な死も、どんな絶望的な戦況も、思いのままにねじ伏せることができる。
――ピピッ、と。 視界の隅で、冷徹なシステムログが静かに点滅した。
PHASE_CONVERGENCE_REPORT:
- RESULT: FORCED_SUCCESS (CASUALTIES: 0)
- COHERENCE_STRAIN: CRITICAL
- IDENTITY_FIDELITY: 0.8600 -> 0.8500 (-0.0100)
- DELETED_SECTOR: EPISODIC_BUFFER_JP_MISC_08
ツン、と頭の芯を細い針で突かれたような微小な痛痒感。
脳の奥底の書架から、何かの本が音もなく抜き取られ、白紙の灰となって消え失せるような感覚があった。
……また、何かを忘れたのか?
俺は一瞬だけ足を止め、自らの記憶を探った。
だが、何を忘れたのかすら思い出せない。 日本のどこかの風景か、誰かの顔か、あるいは何の役にも立たない昔の記憶か。
――だが、それが何だというのだ。
俺は視線を上げ、目の前で嬉しそうに微笑むリナと、生きている仲間たちを見つめた。
日本のどうでもいい記憶が一つ消えた。
ただ、それだけだ。
俺の頭の中のガラクタのような過去が少し削られるだけで、セラが生き延び、防衛隊が守られ、リナが温かい涙を流し、何十人もの兵士たちが家族の元へ帰ることができる。
(……こんなに、安い取引があるか?)
誰も死なない世界。
誰も泣かない結末。
その代償が、俺一人の記憶の欠片で済むのなら――いくらでもくれてやる。
十回でも、百回でも、俺の記憶を支払って、全員を生かしてみせる。
「レン様……? どうかされましたか?」
じっと立ち尽くす俺の顔を、リナが不思議そうに覗き込んできた。
「いや……何でもないよ」
俺はリナの頭を優しく撫で、微笑んでみせた。
その笑みに、微塵の曇りもなかった。
「次の攻撃が来る前に、防壁の補強を進めよう。……大丈夫だ。俺がいる限り、この街では誰も死なせない」
「はいっ!」
リナが満面の笑みで頷く。
自分の魂が削れゆく音に耳を塞ぎ、全能の陶酔に浸る男の背中を、戦火の煙が静かに包み込んでいた。




