第32章 忘却の規則
王都ルミナリアの中央作戦司令部は、重苦しい緊迫感と怒号に満ちていた。
大広間の中央に投影された巨大な立体魔導地図。
王都を取り囲む外郭防衛線の外側は、地平線を埋め尽くすほどの無数の赤い光点でびっしりと覆い尽くされていた。
北方連合軍、総勢十万。
雪原を黒く染め上げるその大軍勢は、王都を取り囲む八つの主要街道を完全に封鎖し、幾重もの魔導砲囲陣を構築し終えていた。
「敵の布陣は完璧だ。十万の本隊が展開したことで、王都への補給路は完全に絶たれた」
左肩に白い包帯を巻いたセラが、指揮棒で立体地図の一角を指し示した。
その翠眼には、不眠不休の防衛指揮による疲労と、研ぎ澄まされた戦士の厳しさが宿っていた。
「ヴァルディス砦を始めとする外郭前哨地は、兵力を王都本城壁へと撤収させた。……だが、王都の大結界発生器にかかる負荷はすでに限界値を超えている。敵の総攻撃が始まれば、結界が保つのは長くて三日だ」
「三日……」
俺の隣で、リナが木製祈祷杖をぎゅっと握りしめて息を呑んだ。
十万の軍勢による総攻撃。
それは、ラーナ要塞で味わったあの悪夢のような物量の暴力が、この王都で再現されることを意味していた。
「相馬蓮、リナ神官。王都防衛の最終配置が決まるまで、少し時間がある。……お前たちは魔導院へ向かえ。オルド卿が、至急お前に渡したい解析結果があると言っていた」
「分かりました。行ってきます、セラさん」
俺とリナはセラに短く頷くと、作戦司令部を後にした。
***
王立魔導院の最上階。
薄暗いオルドの研究室に入った瞬間、待ち構えていた老魔導士の怒声が部屋中に響き渡った。
「馬鹿者がッ!! 儂の警告を何一つ聞いとらんかったのか、この大馬鹿垂れがぁぁぁッ!!」
オルドが手にした羊皮紙の束を机に叩きつけ、丸眼鏡の奥の目を吊り上げて俺を怒鳴りつけた。
その白髪混じりの髭が、激しい怒りと恐怖で震えている。
「オルドさん……」
「『オルドさん』ではないわッ! 見ろ、この量子干渉計の波形をッ!!」
オルドが指差した真鍮製の測定器の盤面には、激しく乱れた二重の位相干渉縞が焼き付けられていた。
QUANTUM_INTERFERENCE_LOG:
- BASE_BRANCH: BR-000 (ORIGIN)
- FIRST_HOP: BR-014 (PHASE_DIFF: 0.0720 rad, FIDELITY: 0.9300)
- SECOND_HOP: BR-021 (PHASE_DIFF: 0.0850 rad, FIDELITY: 0.8600)
- TOTAL_ENTROPY_LOSS: -0.1400 (CRITICAL_ZONE)
「位相差〇・〇八五ラジアン……忠実度八六パーセントへの低下! 貴様、ヴァルディス砦で二度目の世界線跳躍をやりおったな!?」
オルドの厳しい追求に、俺は唇を噛み締めて小さく頷いた。
「……セラさんが、特異点砲の直撃を受けて倒れたんです。リナさんの治癒術式も通らなかった。……俺には、世界線を跳ぶしか選択肢がなかった」
「だからと言うて、自分の魂を切り売りしてどうするッ!」
オルドは机を激しく叩いたが、やがて深く、重いため息を吐き出すと、椅子に深く腰を沈めた。
その表情には、怒りの奥にある深い悲痛と悔しさが滲み出ていた。
「……死んだ者を救いたいというお前の心を、儂は責められん。だがな、小僧……お前が払わされた代償の正体を、儂は突き止めてしまったのだ」
***
オルドは立ち上がり、壁一面に広がる巨大な黒板へと向かった。
チョークを手に取ると、凄まじい速度で複雑なテンソル方程式とメモリブロックの構造図を書き殴っていく。
「リナ神官も、よく聞いておくがいい。これは、小僧の魂を削り取っている『忘却の規則』の正体だ」
オルドのチョークが、黒板の上に三つの階層構造を描き出した。
「世界線跳躍を行う際、多次元の位相差を埋めるための情報補正エネルギーとして、お前の脳内メモリからデータが強制消去される。だが……その消去は決してランダムに行われとるわけではない」
オルドはチョークの先で、黒板の一番下の階層を叩いた。
「【規則一:位相距離による優先破棄】。お前が元いた世界――『日本』の記憶は、この異世界の空間位相から最も遠い場所にある。システムは、この世界での行動に直接影響が少ない『遠隔キャッシュ』から順番にデータを切り捨てていくのだ」
「だから……日本の友人の名前や、東京の街並みから消えていったんですね」
俺の言葉に、オルドは重々しく頷いた。
「そうだ。そして【規則二:高エントロピーデータの優先圧縮】だ。風景や概念のような曖昧な低解像度データよりも、固有名詞、顔の微細な形状、そして『声の音響周波数データ』のような情報密度の高い高解像度データから真っ先に消去される。……小僧、お前が母親の顔と名前、そして声を失ったのは、この規則によるものだ」
オルドの言葉が、冷たい氷の刃となって俺の胸を貫いた。
すべては、冷酷なシステムの数理的必然だったのだ。
「だが……本当に恐ろしいのは、その先だ」
オルドはチョークを止め、振り返って俺とリナを真っ直ぐに見つめた。
その眼が、戦慄に揺れていた。
「小僧の頭の中に残っておる日本の記憶……『低周波バッファ』の容量は、すでに残りわずかだ。あと一回……せいぜい二回の跳躍で、日本の記憶は完全にゼロになる」
「ゼロになったら……どうなるんですか?」
リナが震える声で尋ねた。
オルドは痛ましそうに顔を歪め、黒板の一番上の階層――『異世界の記憶』のブロックを指差した。
「日本のバッファが尽きた瞬間、消去の刃は次の領域へと向かう。……すなわち、『この世界に来てから出会った人々の記憶(高周波バッファ)』だ」
「っ……!!」
「次に跳躍すれば、小僧は王都で過ごした日々を忘れる。その次に跳べば、ガウェインの死を忘れ、儂の研究室を忘れる。……そして最後には、リナ神官、お前の名前も、顔も、共に過ごした全ての思い出も、小僧の頭の中から跡形もなく消え去るのだ」
***
部屋の中に、凍りつくような沈黙が落ちた。
リナの記憶すら、消える。
俺が命を懸けて救い、手帳に『証拠の人』としての誓約を刻んでくれたこの少女のことすら、俺自身の頭からは綺麗さっぱり消去されてしまうのだ。
「そんな……」
リナの琥珀色の瞳から、涙が溢れ出した。
だが――彼女は震える両手で、俺のスーツの袖を力強く握りしめた。
「忘れてしまっても……私が覚えています! レン様が私のことを忘れてしまっても、私がレン様のお名前を呼び続けます! 何度でも、最初から出会い直せばいいんです!」
「リナさん……」
「健気な誓いだがな、リナ神官……」
オルドが静かに首を振った。
「愛した理由を失い、相手の顔すら分からなくなった男が、果たしてこれまでと同じように命を懸けてお前を救おうとするかね? ……人間性を失った者は、最後にはただ自らの生存本能だけで動く、冷酷な観測機械に成り果てるのだ」
オルドの残酷なまでの正論が、胸に重くのしかかる。
自分が自分でなくなることの、底知れぬ恐ろしさ。
――ドォォォォォォォォォンッ……!!
その時、王都全土を揺るがす凄まじい地響きが研究室を襲った。
机の上の魔導器具が一斉に倒れ、窓の外の空が、不気味な紅蓮の炎に染め上げられる。
――カンカンカンカンカンカンッ……!!
王宮の尖塔から、緊急事態を告げる大警報鐘が狂ったように乱打され始めた。
「な、何事だッ!?」
オルドが窓辺に駆け寄り、空を見上げた。
王都を覆っていた白亜の大結界の天頂部に、巨大な蜘蛛の巣状の亀裂が走り、無数の火球が雨のように降り注いでいた。
『緊急伝令ッ!! 北方連合軍十万、全戦線において一斉砲撃を開始ッ!! 外郭第一防衛線、突破されましたッ!!』
通信魔導器から、絶叫のような悲鳴が響き渡る。
「……始まったか」
俺は胸ポケットの手帳を強く押さえ、腰の聖剣イグニスを引き抜いた。
忘却の恐怖に怯えている時間はない。
今、この瞬間にも、王都の民と仲間たちの命が脅かされているのだ。
「行こう、リナさん。……俺たちの街を守るために」
「はい、レン様ッ!!」
二人は研究室を飛び出し、戦火に包まれゆく王都の城壁へと駆け出した。




