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神様、それはスキル付与ではなく権限昇格です  作者: J-AI


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第31章 証拠の人

 深夜の静寂が、ヴァルディス砦の石造りの宿舎を深く包み込んでいた。


 窓の外では、雪原を撫でる冷たい夜風が低く唸りを上げている。

 ランプの油がパチリと微かな音を立てる机の前で、俺は革表紙の手帳を開き、万年筆の先を見つめていた。

 『IDENTITY_FIDELITY: 0.8600』――。

 二度の世界線跳躍によって削り取られた十四パーセントの存在情報。

 大学時代の友人たちの名前も、東京の街並みも、そして母さんの声すらも、俺の頭の中からは二度と再生できない無音の虚無へと消え去ってしまった。

 失われた記憶の穴を埋めようと手帳にペンを走らせても、出力すべきデータそのものが脳内に存在しないため、紙の上にはインクの黒い染みだけが虚しく広がっていく。


 コン、コン……。


 控えめなノックの音が、静まり返った部屋に響いた。


「レン様、まだ起きていらっしゃいますか……?」


「リナさん? ああ、入ってくれ」


 扉が開き、湯気を立てる木製の角盆を持ったリナが入ってきた。

 白銀の法衣の袖を軽くまくった彼女の手には、二つの陶器のカップが大切そうに乗せられている。

 部屋の中に、香ばしい焙煎黒豆と甘い乾燥林檎、そして微かな蜂蜜の香りがふわりと広がった。


「カファ・アプルを淹れてきました。……夜風が、少し冷えてきましたから」


 リナはテーブルの上にカップを置くと、湯気で少し赤くなった指先を合わせ、俺の隣の椅子にそっと腰掛けた。

 黒く澄んだ液体から立ち上る温かい湯気が、張り詰めていた俺の胸を静かに解きほぐしていく。


***


「セラさんは、よく眠れているかい?」


「はい。生命循環陣の光をしっかり当てましたから、熱も下がって、今はとても穏やかに休まれています。……明日の朝には、少し起き上がれるようになると思います」


 リナはそう言って柔らかく微笑むと、机の上に広げられた俺の手帳へと視線を落とした。

 インクでびっしりと埋め尽くされたページ。

 リナの好きな飲み物、パンの取り分け方、右のこめかみにかける『小光球・静穏の環』、セラの剣術の癖、オルドの研究室の配置……そして、黒く塗りつぶされた空白の数々。


「レン様。……その手帳、先ほど城壁の上でも大切そうに抱きしめていらっしゃいましたね。何を書いていらっしゃるのですか?」


「……これはね」


 俺は温かいカップに両手を添え、静かに息を吐いた。

 今まで、誰にも言えなかった。

 オルドさん以外の誰にも、自分が世界線を渡り、その代償として自分自身の記憶を切り売りしていることなど、話せるはずがなかった。


 けれど――夕暮れの城壁で、母の声を失って泣き崩れる俺を抱きしめてくれたリナの温もりを思い出し、俺はついにすべてを打ち明ける決意をした。


「これは……『記憶の(Memory)台帳(Ledger)』なんだ、リナさん」


「記憶の……台帳……?」


「ああ。俺が……元いた世界のことや、この世界で出会った大切な人たちとの出来事を、忘れてしまわないように書き留めているんだ」


 リナが琥珀色の瞳を丸くして、手帳を見つめた。


「俺はね、リナさん。……大切な記憶を、どんどん失っていっているんだ」


「え……?」


「日本で通っていた大学の名前も、東京で乗っていた電車の駅名も、もう思い出せない。……それだけじゃない。俺を育ててくれた母さんの名前も、顔も……さっき城壁の上で、母さんの『声』すら、全部消えて思い出せなくなっていたんだ」


「そんな……っ……!」


 リナが息を呑み、両手で口元を押さえた。その瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていく。


「俺は……自分が誰だったのか、少しずつ消えていっている。失われた記憶は、失われたこと自体を正確に認識できなくなるんだ。……このまま戦い続ければ、いつか俺は、リナさんやセラさんのことすら全部忘れて……ただ世界線を彷徨うだけの、空っぽの化け物になってしまうかもしれない」


 カップを持つ俺の手が、情けなく激しく震えた。

 失われていく自分自身への底知れぬ恐怖と孤独。

 それを告白した瞬間、目頭が熱くなり、視界が歪んだ。


***


 だが――リナは、決して引かなかった。

 怯えることも、逃げ出すこともなく、彼女は椅子から立ち上がると、震える俺の両手を、自らの温かい両手でしっかりと包み込んだ。


「レン様……手帳の文字だけでは、温もりまでは残せません」


 リナの琥珀色の瞳から、大粒の涙が頬を伝って零れ落ちていた。

 けれど、その瞳の奥には、どんな吹雪にも消えない神聖な光が宿っていた。


「だから……私が、レン様の『証拠の人』になります」


「証拠の……人……?」


「はい!」


 リナは力強く頷き、俺の目をまっすぐに見つめ返した。


「レン様がもし、ご自身の過去を忘れてしまっても。ご家族のお顔や、生まれ育った街の景色を忘れてしまっても……レン様がどれほど優しくて、どれほど誠実で、どれほど命を懸けて私たちを守ってくださったか、私が全部心の中に覚えておきます!」


 リナの手から、トクトクと脈打つ生きた温もりが、冷え切った俺の指先へと流れ込んでくる。


「レン様が私を救ってくださったあの日から、今日まで一緒に過ごしてきた全ての時間を、私が記憶の砦として守り続けます。もしレン様がご自身を見失いそうになったら……私が何度でも、『レン様はこういう温かい方なんですよ』って、最初から教え直します!」


「リナ……さん……」


「手帳が破れても、インクが消えても、私は消えません。レン様が私を守ってくださるように……私が、レン様がレン様であったことの『生きた証拠』になります!」


 リナは机の上の万年筆を取ると、手帳の最新のページの余白に、震える手で、けれど一文字一文字に魂を刻みつけるように文字を書き入れた。


[WITNESS_SIGNATURE: 証拠人の誓約]

- 私はリナ・アルヴェルです。

- 相馬蓮様は、優しく、温かく、命を懸けて私たちを守ってくださる勇者様です。

- レン様が全てを忘れてしまっても、私がレン様の心を覚えています。

- ずっと、お隣にいます。

 書き終えたリナが顔を上げ、涙で濡れた顔で、花が咲くように柔らかく微笑んだ。


「これで、魂の契約完了です。……もう、怖がらなくて大丈夫ですよ、レン様」


「……ありがとう……リナさん……」


 俺はリナの小さな手を両手で包み込み、胸の奥底から込み上げる感謝の涙を流した。

 魂の記憶が削られようとも、俺にはこの少女がいる。

 俺が人間であったことを証明してくれる、世界でたった一つの『生きた外部バックアップ』が、今ここにいてくれるのだ。


***


 ドォォォォォォォン……ッ!!


 その時、夜空を引き裂くような重低音が、遠く王都の方角から地響きと共に届いた。

 机の上のランプの火が激しく揺れ、エントロピー検知計が狂ったように警戒アラートを鳴らし始める。


 バタンッ!!


 宿舎の扉が蹴破るように開き、肩に包帯を巻いた伝令兵が血相を変えて飛び込んできた。


「ほ、報告ッ!! 北方連合軍の本隊、主力十万が王都平原へと展開を完了ッ!! 王都ルミナリアを取り囲む全外郭防衛線が、完全に重層包囲されましたッ!!」


「なっ……!? 十万の包囲網……!?」


 俺とリナは息を呑んで立ち上がった。

 窓の外を見上げると、夜の闇に沈む王都の空が、無数の敵の魔導投光器によって赤黒く照らし出され、天を焦がしていた。


「……リナさん」


 俺は手帳をしっかりと胸の内ポケットに収め、腰の聖剣の柄に手を置いた。


「俺たちの街を、そして俺の記憶を守ってくれるリナさんを……絶対に奪わせはしない」


「はい、レン様……! 私も、どこまでもお供いたします!」


 王都の命運を賭けた最終決戦の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。

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