第30章 母の声
戦闘の熱気が冷めやらぬヴァルディス砦に、茜色の夕暮れが静かに降り注いでいた。
兵舎の奥にある簡易病室。
木製の寝台の上で、白い包帯を幾重にも巻かれたセラが、解いた赤髪を枕の上に広げて横たわっていた。
左肩から脇腹にかけての重傷――特異点砲の余波を受け止めた傷口は深く、寝息はまだ浅く乱れていたが、その胸は確かに上下し、生きた命の鼓動を脈打たせていた。
「セラ隊長、痛むところはありませんか……? もう少し、『生命循環陣』の光を当てますね」
寝台の傍らで、リナが両手で祈祷杖を包み込み、柔らかな淡い緑の治癒光をセラの傷口へと注ぎ続けていた。
額に微かな汗を浮かべながらも、その琥珀色の瞳には、隊長の命を繋ぎ止められたことへの深い安堵の色が滲んでいた。
「すまない、リナ神官……。私の不覚だ。指揮官でありながら、手痛い一撃を喰らってしまった」
セラは苦笑いを浮かべようとして、傷口を押さえながら顔をしかめた。
寝台の脇のテーブルには、半ばからへし折れた愛用の長剣が静かに置かれている。
そして、部屋の入口に立っていた俺の方へと、翠眼を向けた。
「相馬蓮。……礼を言うぞ。お前が聖剣の砲撃支援で敵の砲台を沈めてくれなければ、私は今頃、この世にいなかったかもしれん」
「……いや。生きていてくれて……本当に、よかった」
俺は絞り出すようにそう応えた。
喉の奥が熱く焼けるようだった。
彼女は知らないのだ。
直前の世界線で、彼女が俺たちの目の前で胸を貫かれ、冷たい雪の上に倒れて息絶えたという事実を。
あの絶望的な死の記憶を背負っているのは、この世界でただ一人、世界線を跳び越えてきた俺だけなのだ。
「少し休んでくれ、セラさん。リナさんも、あまり根を詰めすぎないようにな」
「はい、レン様。セラ隊長の傷が塞がるまで、私がしっかりとお世話をいたしますから、レン様もお身体を休めてくださいね」
リナは温かい薬草茶のカップをセラの枕元に置き、優しく微笑みかけてくれた。
二人の穏やかな眼差しに見送られ、俺は静かに病室の扉を閉めた。
***
一人になった俺は、石造りの階段を上り、夕陽に染まる主城壁の頂上へと足を運んだ。
吹き抜ける冷たい風が、汗の滲んだスーツの襟元を冷やしていく。
遠く地平線の彼方に沈みゆく巨大な夕日は、まるで燃え尽きようとする命の残滓のように、雪原を鮮血のような赤に染め上げていた。
俺は胸ポケットから、革表紙の手帳と万年筆を取り出した。
『IDENTITY_FIDELITY: 0.8600』――。
二度目の跳躍によって支払わされた、十四パーセントの存在損失。
俺は震える手で手帳を開き、白紙のページに何かを書き留めようとした。
すでに手帳には、リナの好きなカファ・アプルのことや、セラの剣術の癖、オルドの研究室の配置などが細かく記録されている。
それらの文字を見つめながら、俺は先ほどの跳躍で失われたはずの「日本の過去」を書き残そうとペンを走らせようとした。
だが――ペン先は紙の上でピタリと止まり、インクの染みだけが黒く広がっていく。
(……書けない……)
失われたはずの「大学時代の友人たち」の記憶。
一緒に酒を飲み、研究室で夜を明かし、将来の夢を語り合ったはずのあいつらの名前が、顔が、完全に頭の中から消え去っている。
それだけではない。通い慣れていたはずの渋谷や新宿のスクランブル交差点、高層ビルの看板、通学電車の窓から見えた街並み、東京で一人暮らしをしていたアパートの部屋の間取り……情景を思い描こうとしても、脳内にはただ暗黒の空白が広がるばかりで、文字にすることすら叶わない。
(失われた記憶は……失われたこと自体を、正確に描写できなくなる……)
オルドの言葉が、冷酷な現実として突き刺さる。
手帳に記録できるのは、失われる前に書き留めておいたデータだけだ。
一度消去されてしまった記憶は、どれだけ脳を絞り尽くしても、二度と外部に出力することはできないのだ。
***
胸を締め付ける喪失感の中、俺はふと、日本の「母さん」のことを思い出そうとした。
名前は、リナさんを救うための最初の世界線移動ですでに失われた。
アルバムで見たはずの母の顔も、濃いモザイクがかかって思い出せない。
けれど――これまでは、耳の奥に確かに残っていたはずだった。
朝、俺を起こす時の、少し高くて柔らかな声。
『レン、ご飯できたわよ』
風邪を引いて寝込んでいた時、枕元で林檎を剥きながら囁いてくれた温かい声。
『大丈夫よ、すぐ良くなるからね』。
その『声の響き』だけは、俺の魂の最も深い場所に、消えない温もりとして刻まれていたはずだった。
(……母さんの声……)
俺は城壁の冷たい欄干に縋り付き、目を閉じて、耳を澄ませた。
脳内の音響インデックスを、必死に手探りで探す。
――だが。
いくら待っても、ノイズすら鳴らなかった。
青白い走査線の音も、砂嵐の音すらもしない。
そこにあるのは、底知れぬ深淵のような、完全な**『無音』**だった。
(……え……?)
幼い頃の食卓の情景は浮かぶ。台所で誰かが動いているシルエットも見える。
その人が口を開き、俺に向かって何かを語りかけている。
なのに――まるで、音声トラックだけが完全に削除された無声映画のように、何の音も響いてこない。
高かったのか、低かったのか。 優しかったのか、厳しかったのか。
怒った時の声はどんなトーンだったのか、笑った時の声はどんな響きだったのか。
――何一つ、思い出せない。
(嘘だろ……? 声まで……母さんの声まで消えたのか……!?)
俺は両手で耳を塞ぎ、必死に頭を振った。
「思い出せ……! 思い出せよ、俺……! 母さんの声だぞ……! 俺を産んで育ててくれた人の……声なんだぞ……!!」
必死に叫んでも、頭の中に広がるのは冷酷な静寂だけだった。
自分が二十数年間生きてきた日本という世界の、最も温かかったはずの原風景が、まるで最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱり消去されている。
「う……あぁ……っ……!」
膝から力が抜け、俺は城壁の冷たい石畳の上に崩れ落ちた。
爪が割れるほど強く頭を抱え込み、胸の奥底から込み上げる嗚咽を抑えきれずに、ぼろぼろと涙を流した。
リナを救った。セラを救った。
その引き換えに、俺は自分を育ててくれた母親の顔も名前も、そして声すらも差し出してしまったのだ。
この先、さらに誰かが死に、それを救うために世界を渡り続ければ――最後には俺の中に何が残るというのか。
愛した人の声すら失った抜け殻の化け物に、一体何の存在価値があるというのか。
***
「――レン様」
涙で滲む視界の中、背後から柔らかく澄んだ声が響いた。
ふわりと漂う、温かい香草の匂い。
振り返ると、そこには白銀の法衣を夕陽に染めたリナが立っていた。
彼女は何も言わず、城壁の冷たい床の上に跪くと、泣き崩れる俺の震える肩を、その細い両腕でそっと包み込んでくれた。
「リナ……さん……」
「大丈夫です、レン様……。私は、ここにいます」
リナの胸元から、トクトクと生きている温かい心臓の鼓動が伝わってくる。
彼女の柔らかな手が、俺の冷え切った手を優しく包み込み、背中をそっと撫でてくれた。
「レン様が何を背負っていらっしゃるのか……私には、全部を理解することはできないかもしれません。でも……レン様が私たちのために、どれほど傷つきながら戦ってくださっているかは、痛いほど分かります」
リナの琥珀色の瞳から、一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。
「忘れてしまっても……失ってしまっても……レン様がレン様であることは、私がずっと覚えています。レン様が私を救ってくださったことも、今ここにいてくださることも、私が絶対に忘れません」
「……っ……リナさん……」
俺はリナの肩に額を押し当て、子供のように声を上げて泣いた。
リナは俺を抱きしめたまま、かつてラーナの宿舎で歌ってくれたあの日本の童謡のメロディを、静かに、優しくハミングしてくれた。
母の声は、もう二度と戻らない。
日本の記憶も、いつかすべて消え去るのかもしれない。
けれど――今、この手の中に伝わってくるリナの体温と、耳元で響く少女の歌声だけは、確かに本物だった。
失われた過去の暗闇の中で、この少女たちの命の鼓動だけが、俺が人間であり続けるための唯一の光だった。
夕陽が沈み、王都の空に冷たい夜の帳が降りていく。
俺は手帳を強く胸に抱きしめ、二度と戻らない故郷の喪失を噛み締めながら、前を向くための祈りを捧げていた。




