第29章 二度目の跳躍
迎撃砲の轟音が静まり返った雪原に、再び凍てつくような殺気が満ち始めた。
一度は後退したはずの特異魔導士ミラが、虚空の遥か上空で静止し、銀の魔導杖を天へと垂直に突き立てていた。
その背後の吹雪の裂け目から、空間を軋ませながら巨大な黒鉄の魔導兵器が次々と実体化してくる。
砲門の先端には、周囲の光と熱、そして大気中の水分を貪るように吸い込む、漆黒の重力球が凝縮されていた。
「……空間圧壊型・虚空特異点砲……!」
俺の隣で、セラの息を呑む音が聞こえた。
その翠眼が、かつてないほどの戦慄に震えている。
「あのような広域戦略兵器を隠し持っていたのか……! あれが直撃すれば、砦の主城壁どころか、直下の救護所も避難民の街も丸ごと消滅するぞ! あそこにはリナ神官と、数百人の傷病兵がいるのだ!」
「ふふっ……神の結界を過信した報いを受けなさい」
ミラの冷酷な宣告と共に、黒い球体が臨界点に達した。
――ズズズズズズズズッ……!!
音のない咆哮と共に放たれた漆黒の重力光線が、大気を抉り、空間の座標軸を粉々に粉砕しながら、城壁の直下――リナたちが負傷兵の手当てを行っている救護天幕の直上へと一直線に照射された。
***
「リナさんッ!!」
俺が叫び、城壁から飛び出そうとした瞬間――。
視界の端を、燃えるような紅蓮の影が猛スピードで横切った。
「行かせるかぁぁぁッ!!」
セラだった。 深紅のマントをかなぐり捨てた彼女は、城壁の欄干を蹴って空中へと身を躍らせると、愛用の長剣を両手で構え、特異点砲の直撃軌道上へと自らの身体を割り込ませた。
「静定領域――全位相・最大出力展開ッ!!」
セラの全身から、青白い静定の光膜が爆発的に吹き荒れた。
漆黒の重力光線と、セラの静定領域が空中で激突する。
空間が激しく歪み、衝撃波が雪原の雪を津波のように巻き上げた。
――バキィィィィィィィィンッ……!!
しかし、天文学的な質量を凝縮した特異点の破壊エネルギーは、個人の静定の限界を遥かに超えていた。
セラの誇り高き長剣が半ばから粉々にへし折れ、漆黒の光線が彼女の深紅の鎧を無残に貫通した。
「ガ……ッ……!?」
血飛沫が雪原に舞い散り、セラが人形のように城壁の足場へと叩きつけられた。
「セラさんッ!!」
俺は転がるようにしてセラの元へ駆け寄った。
胸部を貫かれた傷口から、止めどなく鮮血が溢れ出し、白い雪を赤黒く染めていく。
異変を察知して階段を駆け上がってきたリナが、顔面を蒼白にしてセラの傍らに膝をついた。
「セラ隊長……! 嘘……そんな……! 『小光球・生命循環陣』……繋がって……お願いだから繋がってぇぇぇっ!!」
リナが泣き叫びながら祈祷杖をかざし、全身全霊の治癒光を注ぎ込む。
だが――俺の網膜には、あのラーナ要塞と同じ無情なシステムログが非情にも点滅していた。
CRITICAL_DAMAGE: SERA_VERMILION [TARGET_LOCKED]
HEALING_API_CALL: REJECTED
ZERO_AMPLITUDE_RULE: alpha_i = 0.000000
DECOHERENCE_STATE: LOCKED (FATAL_PHASE)
「ダメだ……治癒が……通らない……! セラ隊長、目を開けてください! セラ隊長ぉぉぉっ!!」
リナの涙が、セラの血まみれの頬にぽたぽたと零れ落ちる。
セラは弱々しく瞼を持ち上げ、濁り始めた翠眼で、俺のスーツの襟元を震える手で掴んだ。
その口から、赤い血が溢れ出る。
「相馬……蓮……」
「喋るな、セラさん! 今、助けるから……!」
「聞け……」
セラは途切れ途切れの声で、けれど強く俺の手を握り返した。
「リナと……民を……頼む……。お前は……この国の……希望だ……。だから……化け物に……なるな……。私のような者のために……お前自身の魂を……売るな……」
「セラさん……?」
彼女は、俺が何か恐ろしい禁忌を抱えていることを、本能で察していたのかもしれない。
セラの瞳から最期の光が失われ、掴んでいた右手が、力なく雪の上に滑り落ちた。
冷たくなっていく、動かない戦友の身体。 リナの絶望的な慟哭が、凍てつく空に木霊した。
***
(まただ……)
心臓が凍りつき、視界が真っ赤に明滅した。
リナの時と同じだ。
目の前で、仲間が血を流して死んでいく。理不尽な世界の悪意に踏み躙られて、命がゴミのように奪われていく。
俺の手は、胸ポケットのエントロピー検知計に触れていた。
だが――その指先は、ガタガタと激しく痙攣していた。
(怖い……)
胃の腑の底から、冷たい吐き気を伴う恐怖がせり上がってきた。
思い出すのは、魔導院の測定台でオルドが放ったあの冷酷な警告だ。
――『忠実度が八十、五十と落ちていけば、お前は相馬蓮という自分自身の名前すら忘れ、自我のない観測端末に成り果てるぞ』。
すでに七パーセントの記憶を失った。
母さんの名前も、顔も、もう思い出せない。
リナとの初対面の言葉すら、自分の頭からは消え去ってしまった。
もし……もしここで、二度目の跳躍を行えばどうなる?
今度は、日本の友人も、東京の思い出も、自分が日本で生きていたという証のすべてが削り取られるのではないか。
やがて俺は、「なぜ仲間を救いたいのか」という心すら失い、ただ世界線を彷徨うだけの空っぽの肉塊になってしまうのではないか。
(自分が消えるのが……怖い……。人間じゃなくなるのが……怖いよ……!)
俺は膝をつき、歯を食いしばりながら、自分の頭を両手で強く抱え込んだ。
自分を守りたいという卑小な本能が、心の中で激しく警鐘を鳴らし続ける。
だが――。
目の前には、俺たちを庇って胸を撃ち抜かれたセラの亡骸がある。
折れた長剣を握りしめたまま、二度と動かない戦友の冷たい指先。
その傍らで、声を枯らして泣き崩れるリナの小さな背中。
(……何を迷ってるんだ、俺は……!)
俺は血の滲むほど強く唇を噛んだ。
(セラさんは、俺たちを生かすために命を投げ出したんだ。リナさんは、今もこんなに泣いている。……それなのに、俺が自分自身の記憶を惜しんで、この死を受け入れるのか!?)
記憶が消えたっていい。
心が壊れたっていい。
東京の思い出を全部失って、自分が誰なのか分からなくなったって構わない。
(俺が化け物になったって……この人を死なせてたまるかぁぁぁッ!!)
恐怖を怒りで叩き潰し、俺は真鍮製のエントロピー検知計を天へと掲げた。
魂を燃料にして、脳内のシステムコンソールを限界までオーバードライブさせる。
「システム権限昇格――『Branch Explorer』、全位相スレッド強制走査ッ!!」
――ビキビキビキビキッ……!!
頭蓋骨の内側でシナプスが焼き切れるような激痛。
網膜の上に展開された千通りの破滅の未来の中から、俺は血眼になって、ただ一つの座標を掴み取った。
SCAN_RESULT: BRANCH_CANDIDATE_FOUND
- TARGET_BRANCH: BR-021
- PHASE_DIFF: 0.0850 rad
- SURVIVAL_STATE: SERA_VERMILION [ALIVE: HEAVY_WOUNDED]
- ESTIMATED_IDENTITY_FIDELITY: 0.8600 (-0.0700)
(見つけた……! BR-021……! セラさんが生きている世界線!!)
俺は震える指先を、一切の躊躇なく、網膜の処刑ボタンへと叩きつけた。
「WORLD_BRANCH_OPERATOR――『MIGRATION_EXECUTE』ッ!!」
***
――ドォォォォォォォンッ……!!
空間が硝子のように粉々に炸裂し、天地の概念が反転した。
超次元の深淵――『Inter-Branch Void』の暗黒が、俺の肉体と精神を丸ごと呑み込んでいく。
――ゴォォォォォォッ……!!
恐るべき情報のエントロピー剥離が、俺の自我の領域を容赦なく削り取っていく。
IDENTITY_FIDELITY_DROP: 0.9300 -> 0.8600 (-0.0700)
FORMATTING_NON_ESSENTIAL_SECTORS:
- TOKYO_COLLEGE_FRIENDS: PURGED
- SHIBUYA_SHINJUKU_STREETSCAPE: PURGED
- ORDO_FIRST_DOUBLE_SLIT_EXPERIMENT: FRAGMENTED
(あ……あぁぁぁぁぁぁぁッ……!!)
脳髄を直接やすりで削られるような、耐え難い精神の激痛。
大学時代に一緒に朝まで語り明かした友人の笑顔が、名前が、声が、黒いインクをぶちまけたように塗りつぶされて消える。
雨の日の渋谷のスクランブル交差点、新宿の雑踏、通い慣れた飲食店の匂いが、コンクリートの質感ごと消滅していく。
さらに、この世界に来てからオルドの研究室で最初に行った『二重暗箱実験』の記憶まで、バラバラに砕け散って霧散していく。
(俺の……俺の生きてきた証が……消える……!)
それでも、俺は胸ポケットの手帳を、そしてエントロピー検知計を、血を流しながら抱きしめ続けた。
そして――。
パァァァァァァンッ……!!
強烈な閃光と共に、俺の足元に冷たい石畳の感触が戻ってきた。
***
「――相馬蓮ッ!! ボーッとするな、敵が退いていくぞッ!!」
耳を劈く凛冽な怒号に、俺はハッと顔を上げた。
冷たい風が吹き抜ける、ヴァルディス砦の主城壁の上。
そこには――左肩から血を流し、深紅の鎧を煤で汚しながらも、折れた長剣を杖にして毅然と仁王立ちする、生きているセラの姿があった。
「セラ……さん……?」
俺の視界が、止めどなく溢れ出る涙で歪んだ。
「何を呆けている。特異点砲の余波を私の静定で逸らし、お前の聖剣の砲撃支援で敵の砲台を沈めたのだ。……北方軍が後退を始めたぞ!」
城壁の向こうでは、ミラ率いる北方軍の残党が、吹雪の中を撤退していくのが見えた。
救護天幕からは、リナが負傷兵たちを抱き起こしながら、安堵の声を上げている。
救えたのだ。
リナに続き、セラもまた、この世界線では生きている。
だが――俺の頭の中からは、かつて日本で過ごした青春の情景が、二度と戻らない暗黒の空白となってぽっかりと抜け落ちていた。
二度目の世界線跳躍。 忠実度八六パーセント。
仲間を救うために自らの魂を切り売りする、底知れぬ狂気の旅路が、今まさに本格化していた。




