第28章 救える街
未明の冷たい風が、王都北方を守る第一外郭防衛線――『ヴァルディス砦』の石壁を吹き抜けていた。
兵舎の控え室で、俺は革表紙の手帳を内ポケットに収め、革ベルトのバックルを固く締め直していた。 召喚された日から着続けている、黒いビジネススーツ。
すっかり激戦の泥や煤で汚れ、袖口や裾があちこち擦り切れてはいるが、今ではその上から聖具の革製ショルダーアーマーと防寒用の頑丈な軍用コートを重ね着し、胸にはエントロピー検知計、腰には『灼熱の聖剣イグニス』を帯びる、俺にとって最も動きやすい実戦装束となっていた。
「相馬蓮、お前……いつまでその黒い異界の平服を着ているつもりだ?」
部屋に入ってきたセラが、愛用の長剣を腰に吊りながら、呆れたように苦笑いを浮かべた。
深紅の軽装鎧を隙なく纏い、赤髪のポニーテールを揺らすその姿は、一軍を率いる若き指揮官そのものだった。
「騎士団の予備の鋼鉄鎧を着ればいいものを。防御力ならそちらの方が遥かに上だぞ。金属板の一枚もない布切れでは、流れ弾一発で命を落としかねん」
「いや、これが一番しっくりくるんだよ、セラさん」
俺はスーツの胸元を軽く叩いて見せた。
「内ポケットが多くて、手帳もエントロピー検知計もすぐに取り出せる。それに……日本の記憶がどんどん消えかけている今、この服だけが、俺が東京でシステムエンジニアをやっていたっていう『最後の錨』なんだ。これを脱いだら、自分が元々誰だったのか、本当に全部忘れてしまいそうでな」
俺の言葉を聞き、セラの翠眼がわずかに和らいだ。
彼女は俺の肩のプロテクターを軽く叩き、真剣な眼差しで見つめ返してきた。
「……そうか。ならば何も言わん。お前がお前であるための鎧なのだな。……いくぞ、相馬蓮。守るべき街が、私たちの背後にある」
「ああ!」
***
ヴァルディス砦の巨大な主城壁の上に立つと、眼下に広がる広大な雪原と、遥か後方に広がる白亜の王都ルミナリアの街並みが一望できた。
城壁の内側の外郭都市には、ラーナ要塞から命からがら逃れてきた数万の避難民と、王都の市民たちが身を寄せ合っている。
立ち上る炊き出しの煙。毛布にくるまりながら怯える子供たちの瞳。
ここを抜かれれば、背後の王都にはもはや遮るもののない大平原が広がるのみ。
まさに、王国滅亡を阻む最後の防波堤だった。
「レン様、セラ隊長!」
城壁へと続く階段の踊り場で、白銀の法衣を纏ったリナが木製祈祷杖を抱えて駆け寄ってきた。
城壁直下の救護天幕では、大聖堂の神官団が負傷兵の受け入れ態勢を整えている。
「救護所の準備、完了いたしました。……お二人とも、どうかご無事で……! 怪我をされた方は、私が命に代えても全員治癒いたします!」
「ああ、頼んだぞ、リナ神官。無理はするな」
セラの言葉に、リナは力強く頷いて救護所へと戻っていった。
俺とセラが主城壁の頂上へと駆け上がると、砦の防護魔導士たちが大結界発生器を取り囲み、青白い半透明の巨大なドーム状結界を天へと展開しているところだった。
――ビキッ……ビキビキッ……!!
その時、胸ポケットのエントロピー検知計が、鋭い電子音のような警戒ノイズを撒き散らした。
文字盤の真鍮の針が、空間のコヒーレンスの急激な歪みを捉えて北の方角を指し示している。
「敵襲ッ!! 北方より魔導反応、急速接近ッ!!」
見張り兵の絶叫が、砦の静寂を切り裂いた。
***
地平線の吹雪を切り裂いて現れたのは、整然たる隊列を組んだ北方連合の先鋒部隊――そして、その先頭の虚空を優雅に飛翔する、一人の少女の姿だった。
白銀の長い髪を冷たい風になびかせ、氷碧の魔導ローブを纏った少女。
手にした銀の魔導杖の先端から、空間そのものを折り畳むような、不気味な青白い幾何学方陣が幾重にも展開されている。
特異魔導士――ミラ。
「ふふっ……また会えたね、異界の勇者」
ミラの鈴を転がすような澄んだ声が、大気を震わせて城壁の上へと直接届いた。
その琥珀色の瞳は、ラーナ要塞の時と同じように冷徹で、けれど底知れぬ哀しみと執念を湛えている。
「ラーナ要塞では見事に逃げおおせたようだけど……この狭い砦で、どれだけ神の傲慢な結界が保つかな? ――世界線剪定で消された私たちの故郷の痛みを、今度はこの王都の人々に教えてあげる!」
ミラが銀の杖を虚空へと掲げた。
――グオォォォォォォンッ……!!
大気が激しく軋みを上げた。
ミラの杖の先から放たれた無数の青紫色の光の糸が、ヴァルディス砦を覆う大結界の表面へと放射状に張り巡らされていく。
『広域結合(Grand Entanglement)』――!
結界を構成する魔力の量子状態を、外部の無秩序な熱浴と強制的に量子もつれさせ、天文学的な計算コストを押し付けて一瞬で崩壊させる、あの要塞を消滅させた悪魔の術式だ。
「くっ……結界の魔力流が急速に乱されている……! 結合術式を遮断できませんッ!」
大結界発生器を操作していた防護魔導士たちが悲鳴を上げる。
砦の青白いドームに、蜘蛛の巣のような亀裂が走り始めた。
「相馬蓮ッ!!」
セラが長剣を抜き放ち、叫んだ。
***
「二度も同じ手でやられるかッ!!」
俺は城壁の端へと駆け出し、脳内のシステムコンソールを全開にした。
――ビキビキビキッ……!
『Branch Perception(世界線分岐知覚)』が起動し、ミラの張り巡らせた光の糸――量子もつれの結合ノードが、網膜の上に無数の座標軸として可視化される。
(見えている……! ミラの広域結合は、空間全体を均等に壊しているんじゃない。結界の基底周波数と共鳴する『十二箇所の特異ノード』に干渉を集中させているんだ!)
ラーナ要塞では、千通りの計算爆発に呑まれて手も足も出なかった。
だが、今の俺は違う。世界線を越え、システムの生ログを覗き見てきた俺には、そのアルゴリズムの弱点が手にとるように分かっていた。
「聖剣イグニス――局所吸熱・確率偏在権限、全開!!」
ジャキィィィンッ!!
腰の聖剣を鞘から抜き放つ。
白熱する刀身から、周囲数キロメートルの熱エネルギーを瞬時に貪り尽くす絶対零度の吸熱フィールドと、空間の確率を偏在させる炎の刃が同時に展開された。
「デカップリング――執行ッ!!」
俺は聖剣を虚空へと一閃させた。
放たれた十二条の紅蓮の光刃が、ミラの光の糸が結節する『特異ノード』へと寸分の狂いもなく突き刺さる。
バチィィィィィィィィンッ……!!
空間を切り裂く、ガラスが割れるような凄まじい炸裂音。
聖剣の局所吸熱が結合点の熱揺らぎを一瞬で凍結させ、ミラの大結界への量子もつれリンクを根元から強制切断したのだ。
「なっ……!? 私の結合魔導が……切断された……!?」
虚空で銀の杖を構えていたミラが、信じられないものを見るように琥珀色の目を大きく見開いた。
崩壊しかけていた砦の青白い大結界が、再び安定した光を取り戻し、砦全体を強固に包み直す。
術式を真正面から破られたミラは、歯噛みしながら城壁の上の俺を射抜くように睨みつけた。
「異界の勇者……お前、一体何者なんだ……!? なぜ私の結合を断ち切れる!?」
「俺はただのシステムエンジニアだ!」
俺は城壁の端から、白銀の魔導士を見据えて叫び返した。
「お前たちの受けた理不尽も、神の世界線剪定への怒りも分かった! ……だが、この街の人たちを巻き込むことだけは、絶対に許さない!!」
「くっ……!」
ミラがたじろぎ、虚空で体勢を崩したその瞬間――。
「今だ、全軍、迎撃砲火――ッ!!」
俺の隣で長剣を抜いたセラの凛冽な号令が轟いた。
城壁に並ぶ十数門の迎撃砲が一斉に火を噴き、雪原を進軍していた敵の先頭部隊へ向けて無数の魔導砲弾が降り注ぐ。
結界を突破できず砲撃の直撃を受けた北方軍の隊列が崩れ、ミラは悔しげに杖を引いて一時後退を余儀なくされた。
初撃を防ぎ切り、歓声を上げる城壁の兵士たち。
だが、退いていくミラの冷たい瞳を見つめながら、俺の胸ポケットのエントロピー検知計は、依然として不気味な微振動を刻み続けていた。
白亜の王都を背にした外郭防衛戦は、まだ始まったばかりだった。




