第27章 初対面を忘れる
夕暮れの茜色の光が、勇者貴賓館のステンドグラスを通して絨毯の上に長い影を落としていた。
暖炉の薪がパチパチと心地よい音を立てて爆ぜる中、俺はソファーに深く腰を下ろし、オルドの研究室から持ち帰った手帳の白紙のページを見つめていた。
『IDENTITY_FIDELITY: 0.9300』――。
七パーセントの記憶領域の喪失。
日本の大学の名前も、通勤電車の最寄り駅も、そして母さんの名前と顔すらも、俺の頭の中から完全に消え去ってしまった。
思い出そうとすればするほど、脳の奥底で青白い走査線ノイズが走り、霧のようなモザイクが記憶の輪郭を塗りつぶしてしまうのだ。
「レン様! ただいま戻りました!」
貴賓館の重い扉が開き、リナがパタパタと小走りで居間へと入ってきた。
白銀の法衣には微かに消毒用の香草の匂いが漂っていたが、その琥珀色の瞳には、大聖堂での仕事をやり遂げた安堵の色が浮かんでいた。
「おかえり、リナさん。大聖堂の方は大丈夫だったかい?」
「はい! 北から移送されてきた傷病兵の方々の手当ては、大聖堂の神官総出で一段落つきました。……レン様、温かいお茶を淹れますね」
リナは手際よく湯を沸かし、乾燥させたカモミールと蜂蜜を入れた二つの陶器のカップをテーブルに並べると、俺のすぐ隣にちょこんと腰掛けた。
ふわりと漂う甘い花の香りと、湯気の温もり。
隣から伝わってくるリナの体温と衣擦れの音が、張り詰めていた俺の神経を少しだけ緩めてくれた。
***
「こうして二人で貴賓館の暖炉に当たっていると……なんだか、召喚されたばかりの頃を思い出しますね」
リナが両手でカップを包み込みながら、懐かしそうに目を細めて微笑んだ。
「王都に召喚されたあの日、大聖堂に現れたレン様は、真っ黒な見慣れない服を着ていらっしゃって……本当に驚いたんですよ」
「……黒い服。ああ、このスーツのことだな」
俺は自分の着ているスーツの襟元に触れながら、ぎこちなく笑った。
「そうですよ! 大司教様たちも最初は『本当にこれが異界の勇者なのか』ってざわついてしまって……。でも、私が一番最初にレン様に駆け寄って、お声をかけたんです」
リナが嬉しそうに胸を張る。
「レン様、覚えていらっしゃいますか? あの大聖堂の召喚方陣の光の中で、レン様が私に最初に仰った第一声のこと」
「え……?」
俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「第一声……?」
「はい! すごく緊張した様子で、私の目を見つめて仰ったじゃないですか」
(……なんだ? 俺は、最初に何て言った……?)
俺は慌てて、脳内の記憶インデックスを深く検索した。
召喚されたあの日。目を開けた瞬間。
大聖堂の青白い光。床に描かれた複雑な幾何学魔法陣。
ステンドグラスの模様、周囲で祈りを捧げていた神官たちのざわめき、召喚のUIに一瞬だけ表示された赤い警告ログ……それらの周辺データは鮮明に思い出せる。
だが――。
――ビキッ……!
頭の奥底で、あの不吉な青白い走査線ノイズが走った。
光の向こうに立っていた少女の姿。
その少女が最初に何を言って、それに対して俺がどんな言葉を返したのか。
思い出そうと焦れば焦るほど、記憶の映像の最も肝心な中心部分に激しい砂嵐のようなノイズがかかり、音声トラックが完全にミュートされる。
(嘘だろ……? 大聖堂の天井のレリーフは思い出せるのに……リナさんと交わした最初の言葉が……出てこない……!?)
「……レン様……?」
沈黙した俺の顔を見て、リナが不思議そうに小首を傾げた。
「どうされたんですか? まさか……本当に忘れちゃったんですか?」
「あ……いや……その……」
冷や汗が、額を伝って顎へと落ちていく。
日本の記憶だけではない。
この世界に召喚されてから、リナと共に歩んできたはずの『大切な初対面の記憶』にまで、Fidelity低下の侵食が及んでいるのだ。
「ふふっ、レン様ったら!」
俺の動揺に気づかないリナは、くすくすと悪戯っぽく笑った。
「あの日、レン様は私の手をぎゅっと握って、『ここはどこですか? あなたのお名前は?』って、消え入りそうな声で仰ったんですよ? 私、その時に『この方はとても誠実で、優しい人なんだ』って確信したんです」
「……っ……」
リナの言葉を聞いた瞬間、脳内のノイズの奥から、「ここはどこですか」と口にした自分の情景がぼんやりと浮かび上がった。
だが――それは、俺自身の原記憶が自発的に蘇ったのではない。
リナという外部端末から、欠落したデータを『後からインポート()された』に過ぎないのだ。
まるで、他人の昔話を聞いて「そうだったのか」と納得しているかのような、冷酷な疎外感。
(もしリナさんが教えてくれなかったら……俺は一生、リナさんとの出会いの言葉すら思い出せなかった……)
底知れぬ恐怖が、冷たい水のように足元から這い上がってきた。
救うために世界を渡り、その結果として、救った相手との思い出が内側から腐食して消えていく。
このまま記憶が削られ続ければ、俺はいつか、リナの笑顔を見ても「なぜこの人のために命を懸けたのか」すら分からなくなってしまうのではないか。
***
バタンッ!!
居間の扉が勢いよく開き、冷たい外気と共にセラが入ってきた。
深紅の軽装鎧の上から羽織ったマントには、夜露が濡れていた。
「相馬蓮、リナ。すまない、遅くなった」
セラは愛用の長剣を腰から外し、テーブルの上に置くと、険しい表情で俺たちの前に立った。
「セラ隊長! 王宮の作戦会議はどうでしたか……?」
リナが立ち上がって尋ねると、セラは重いため息をつきながら首を横に振った。
「最悪の展開だ。王宮の文官どもはラーナ陥落の報に怯え切って右往左往するばかりだ。……だが、北方連合の進軍速度は私たちの予想を遥かに上回っている。先鋒部隊がすでに北部幹線を突破し、王都の外郭防衛砦群へと迫っている」
「なっ……!? もうそこまで…権…!?」
リナが息を呑む。
セラは鋭い翠眼で俺を見据えた。
「相馬蓮。査問会ではお前の南門での功績を証言し、王宮からの公式な賞賛と全委任を取り付けておいた。……だが、悠長に休んでいる暇はない。敵の先鋒には、あの特異魔導士ミラが率いる結界破壊部隊が含まれているという情報がある。明日未明、私たちは王都外郭の第一防衛線へ出陣する」
「……分かった」
俺は奥歯を噛み締め、静かに頷いた。
「北方連合を、この王都へ一歩たりとも踏み込ませるわけにはいかない。……俺も行くよ、セラさん」
「頼むぞ、勇者殿。お前の力だけが、この王国に残された最後の希望だ」
セラは力強く俺の肩を叩いた。
その信頼に満ちた瞳を見つめながら、俺は胸の奥底で、誰にも言えない痛切な決意を固めていた。
***
夜が更け、貴賓館が深い静寂に包まれた深夜。
俺は自室の机に向かい、ランプの灯りの下で万年筆を握りしめていた。
手帳を開き、震える手で、先ほどリナから教わった言葉と、これまでに起きた全ての事象を、一文字一文字、魂を刻みつけるように書き殴る。
[MEMORY_LEDGER: 記憶台帳]
- 召喚初日の記録:
* 場所: 王都大聖堂の召喚方陣。
* リナ・アルヴェルの第一声: 「大丈夫ですか、勇者様?」
* 相馬蓮の第一声: 「ここはどこですか? あなたのお名前は?」
* リナの手は温かく、琥珀色の瞳をしていた。
- 日常の記録:
* リナの好きな飲み物: カファ・アプル(黒豆と乾燥林檎)。
* パンを取り分ける時は、いつも左側から差し出してくれる。
* 頭痛の時は、右のこめかみに『小光球・静穏の環』をかけてくれる。
- 戦友の記録:
* セラ・ヴァーミリオン: 赤髪ポニーテール、長剣の静定の使い手。一人称は「私」。
* オルド・ケイン: 王立魔導院の特異研究者。煙管と量子干渉計。
ペン先が紙を削るカリカリという音が、静まり返った部屋に響く。
(忘れてたまるか……)
俺は歯を食いしばり、滲みそうになる涙を堪えながら書き続けた。
(脳のシナプスがどれだけ壊れようと、システムにどれだけ記憶を消されようと……俺はこの手帳に、リナさんやセラさんとの全てを書き残してやる。俺が俺であるための証を、一文字たりとも奪わせはしない……!)
机の上に置かれた真鍮製のエントロピー検知計が、ランプの光を浴びて鈍く輝いていた。
迫り来る北方連合との決戦を前に、俺の孤独な『記憶の防衛戦』が、今静かに幕を開けていた。




