第26章 記憶の棚卸し
【第3部 ARC-III:連続する喪失(THE COST OF WINNING)】
白亜の城壁に囲まれた王都ルミナリアは、重苦しい喧騒と混乱の渦に包まれていた。
城門の尖塔には弔意を示す黒い半旗が掲げられ、北の街道からは傷ついた兵士たちを乗せた救護馬車が次々と門をくぐっていく。
北の絶対防衛線――鉄壁を誇ったラーナ要塞の完全陥落。
そして、王国最高峰の剣士の一角であったガウェイン卿の戦死。
俺たち三人がもたらしたその凶報は、瞬く間に王宮、聖騎士団、そして貴族街を震撼させ、大通りを行き交う市民たちの顔から血色を奪い去っていた。
「相馬蓮、リナ。私はこれより王宮の作戦会議へ向かう」
王都北門前で馬車を降りたセラが、深紅のマントを翻して俺たちに向き直った。
その翠眼には、不眠不休の行軍の疲労を押し殺した、鋭い決意が宿っていた。
「北方連合軍の次なる標的は、この王都を守る外郭防衛線だ。ガウェイン卿の死を無駄にするわけにはいかない。軍の再編と防衛陣地の構築を急ぎ進める。……相馬蓮、王宮での査問会が開かれる際には、南門でお前が活路を開いてくれたことを私が責任を持って証言する」
「……ありがとう、セラさん」
「礼には及ばん。事実を言うだけだ」
セラは短く頷くと、大聖堂へ向かうリナの方を向いた。
「リナ神官、大司教への報告と傷病兵の対応、頼むぞ」
「はい、セラ隊長! 大聖堂の全神官を動員して、受け入れ準備を進めます!」
リナが木製祈祷杖を両手でしっかりと握りしめ、力強く頷いた。
その清らかな横顔に、昨夜までの恐怖の影はない。
南門を突破して生き延びたという揺るぎない現実が、彼女を前へと突き動かしていた。
「レン様も、あまりご無理をなさらないでくださいね。昨夜もあまり眠れていらっしゃらないようでしたから……。後で貴賓館でお会いしましょう!」
セラが軍部へ、リナが大聖堂へと足早に去っていく。
二人の背中を見送った後、俺は一人、石畳の路地を抜けて、王立魔導院の奥深くにある特異研究室へと足を向けた。
***
ガタガタと書類が散乱する薄暗い研究室の扉を開けると、ツンとした薬品と焦げた羊皮紙の匂いが鼻を突いた。
「――小僧か!!」
部屋の奥で巨大な真鍮製の量子干渉計に張り付いていた老学者――オルド・ケインが、丸眼鏡を跳ね上げながら勢いよく振り返った。
咥えていた煙管から灰が床に落ちるのも構わず、オルドは俺の胸元へと詰め寄ってきた。
「無事だったのか……! いや、それよりも……あの廃小屋での通信は一体何だったのだ!? 魔導通信網の波形が異常臨界を起こし、空間の位相座標が丸ごと〇・〇七二ラジアンも歪んだのだぞ! そして……リナ神官はどうなった!?」
「……リナさんは、生きているよ、オルドさん」
俺は静かに応え、胸ポケットから真鍮製のエントロピー検知計を取り出して、机の上に置いた。
「ほら。今、大聖堂へ元気に向かったところだ」
『なっ……!?』
オルドは息を呑み、信じられないものを見るように目を見開いた。
彼は震える手で検知計を掴み上げると、机の上に並ぶ水晶の測定器に接続し、真鍮の文字盤から出力される残留ログを貪るように走査し始めた。
「ば、馬鹿な……!? 空間のコヒーレンス残差波形に、明確な『世界線剥離痕)』が刻まれとる……! 不連続な位相の跳躍……。小僧……お前、本当に……世界の因果律そのものを跳び越え、別の世界線へ己の存在をねじ込んだというのか……!?」
「ああ。あんたの言った通りだ。リナさんを蘇生させることはできなかった。だから……リナさんが死んでいない世界線へ、俺自身が移動した」
オルドは測定器の光を見つめたまま、言葉を失って立ち尽くした。
驚愕と、学者としての畏怖、そして人間としての戦慄が、その老いた顔に複雑に交錯していた。
「……狂気だ。お前は神の領域に土足で踏み込み、宇宙の法則を力づくで書き換えたのだ……」
オルドは煙管を机に置き、重いため息をつきながら椅子に深く腰を沈めた。
「だが……無事で済んだはずがあるまい。小僧、測定台へ座れ。お前という存在の『情報ハッシュ』を監査する」
***
俺は言われるがまま、青白い光を放つ円形の魔導測定台の上に腰を下ろした。
オルドが操作盤の水晶レバーを引くと、頭上に設置された金属球から細い光の走査線が降り注ぎ、俺の脳神経と生体波形をスキャンし始めた。
AUDIT_TARGET: SOMA_REN [ROOT_OPERATOR]
IDENTITY_FIDELITY_MEASUREMENT:
- CURRENT_VALUE: 0.9300 (-0.0700)
- COGNITIVE_INTEGRITY: 93.0%
- UNRESOLVED_NULL_POINTERS: DETECTED
「……やはりな」
オルドが眉根を寄せ、測定器に浮かび上がるデータを見つめた。
「忠実度九三パーセント。七パーセントの記憶領域が完全に不可逆フォーマットされとる。……小僧、これから儂が問う質問に、即座に答えてみろ。『記憶の棚卸し』だ」
「……分かった」
俺は唾を飲み込み、オルドの目を見据えた。
「第一問。お前が召喚される前、元いた世界で通っていた『大学の名前』はなんだ?」
「え……?」
俺は記憶の引き出しを開けようとした。
キャンパスの銀杏並木、研究室のパソコン、教授の白髪混じりの頭……情景は浮かぶ。
だが――。
「……思い出せない。正門の看板に何て書いてあったか……文字が黒く塗りつぶされてる」
「次だ。第二問。お前が東京で乗っていた『通勤電車の路線名と、自宅の最寄り駅の名前』は?」
「山手線か……中央線か……。朝の満員電車の息苦しさは覚えてる。でも……駅名が、一つも出てこない」
背筋に冷たい汗が伝った。
オルドの表情が、さらに厳しさを増す。
「第三問。……お前の『母親の名前』と『顔』を言ってみろ」
「……っ!!」
心臓が、激しく跳ね上がった。
俺は必死に頭の奥底を探った。
優しい声。風邪を引いた時に作ってくれた温かい林檎のすりおろし。台所から漂ってきた出汁の匂い。
確かにそこにいたはずの、俺を育ててくれた母親。
なのに――。
(名前が……ない……?)
相馬、という自分の名字は分かる。
だが、母の下の名前を思い出そうとした瞬間、脳内で激しい走査線ノイズが走り、視界が白く明滅する。
それだけではない。アルバムで見たはずの母の顔に、まるで濃い霧のようなモザイクがかかり、どれだけ目を凝らしてもその目鼻立ちを結ぶことができなかった。
「嘘だろ……母さんの……名前が……顔が思い出せない……」
俺の手が激しく震え、測定台の縁を爪が白くなるほど強く握りしめた。
育ててくれた親の顔すら忘れてしまうという、人間としての罪悪感と底知れぬ恐怖が、胃の腑を冷たく締め上げる。
***
「それが、世界線を跳躍した代償だ、小僧」
オルドの声は、どこまでも重く、痛ましさに満ちていた。
「お前は、リナ神官が死ななかった別の世界線へ己の存在を接続した。だが、二つの世界線の間には歴史の差異がある。その位相のズレを埋めるために、お前自身のデータストリームから『重要度の低いと判定された過去の局所記憶』が、不可逆のエントロピー損失として削り取られたのだ」
「重要度が低い……? 母さんの名前が……俺の生きてきた過去が、重要じゃないっていうのか……!?」
「システムにとっては、だ!」
オルドが机を強く叩いた。
「この異世界で生きるお前の存在確率を維持する上で、別の次元の母親の名前など、ただの冗長なデータに過ぎんと判定されたのだ! ……さらに言えば、お前が救ったリナ神官の『死因』すら、この世界線には存在しない因果だからこそ、綺麗さっぱり消去されたのだろう!」
「く……っ……」
俺は両手で頭を抱え込んだ。
リナを救えた。
その代償として、俺は自分自身の根幹である『日本の記憶』と『母親の顔』を差し出したのだ。
もしこのまま世界線を跳躍し続ければ……いつか俺は「日本へ帰りたい」という動機そのものすら忘れ去ってしまうのではないか。
「小僧、よく聞け」
オルドは円形の測定台に歩み寄り、俺の肩に骨ばった両手を置いた。
「今回は七パーセントの損失で済んだ。だが……もしこの先、別の誰かが死に、それを救うためにお前が再び世界線を跳躍すればどうなる? 忠実度が八十、五十、三十と落ちていけば……お前は『相馬蓮』という自分自身の名前すら忘れ、ただ世界線を彷徨うだけの自我のない観測端末(化け物)に成り果てるぞ」
「……それでも」
俺は顔を上げた。
震える瞳の奥に、消えることのない黒い炎を宿して、オルドを見つめ返した。
「俺は、リナさんを救えたことを後悔していない。……あの冷たい亡骸の前で絶望するくらいなら、俺自身の記憶が削られたって構わない」
「小僧……お前というやつは……」
オルドは悲痛そうに目を伏せ、首を横に振った。
ゴォォォォン……ゴォォォォン……。
その時、王都の大聖堂から、低く不吉な警報の鐘の音が響き渡った。
重厚な石造りの研究室の窓の外を見上げると、北の空から、不気味な鉛色の暗雲が王都の上空へと急速に広がり始めていた。
「……鐘の音か。軍部の緊急召集だな」
オルドが窓辺に歩み寄り、暗雲の立ち込める空を睨みつけた。
「ラーナが落ちた今、北方連合の進軍速度は予測を遥かに超えておる。……小僧、お前の言う『救いたい仲間』は、リナ神官一人だけでは済まなくなるかもしれんぞ」
失われた記憶の痛みを胸の奥底に封じ込め、俺は立ち上がった。
世界のシステムがどんな試練を突きつけてこようと、俺はもう、二度と立ち止まるつもりはなかった。
世界線:BR-014 | 観測忠実度(Identity Fidelity):0.9300




