第25章 死因がない
東の地平線から差し込んだ朝陽が、雪原を眩い白銀の海へと染め上げていた。
霧氷監視砦の中庭では、砦の守備隊から譲り受けた頑丈な四頭立ての幌馬車の前で、王都への出発準備が進められていた。
吹雪はすっかり止み、張り詰めた冬の朝の澄んだ冷気が肺を満たす。
遠くの山並みから吹き下ろす風も、昨日までの凶暴さを失い、穏やかな静寂を運んでいた。
「レン様! 昨夜はぐっすり眠れましたか? 干し肉と黒パンの包み、馬車の中に積んでおきましたよ!」
白銀の法衣に厚手の旅用マントを羽織ったリナが、息を白く弾ませながら駆け寄ってきた。
木製祈祷杖をしっかりと握りしめ、大きな琥珀色の瞳をキラキラと輝かせている。
昨夜の温かい根菜スープとカファ・アプルのおかげか、その頬には健康的な赤みが差し、生命の喜びに満ちあふれていた。
「……ああ。ありがとう、リナさん」
俺は微笑み返し、差し出されたリナの手をそっと握った。
指先から伝わってくる、確かな体温と柔らかい弾力。
幻ではない。生きている。その事実を肌で感じるだけで、凍てついていた胸の奥底に灯った火が、じんわりと温かく広がっていく。
「相馬蓮、リナ。準備はいいか」
馬車の御者台に腰を下ろしたセラが、手綱を握りながら振り返った。
深紅の軽装鎧と凛とした翠眼が、朝陽を浴びて神聖な輝きを放っている。
「街道の安全は砦の斥候が確認済みだ。ここから王都までは馬車を飛ばせば二日。……ラーナ陥落の報とガウェイン卿の最期を、王宮と魔導院へ報告せねばならん。急ぐぞ」
「はい、セラ隊長!」
リナが元気よく馬車の客室へと乗り込み、俺もそれに続いてステップを踏んだ。
セラが手綱を振るうと、四頭の軍馬が力強く雪を蹴立て、馬車は軋む音を立てて南へ向かって走り出した。
***
ガタゴトと揺れる馬車の客室。
対面に座るリナは、車窓の外を流れる雪景色を眺めながら、時折、道沿いに自生する冬の薬草を見つけては楽しそうに教えてくれた。
俺は胸ポケットから、革表紙の手帳と万年筆を取り出した。
(記録しておかなきゃならない……)
エンジニアとしての本能だった。
世界線を跳躍し、同一性忠実度が九三パーセントへと低下した今――俺自身の記憶がいつ薄れていくか分からない。
二度とリナを死なせないためにも、そして『WORLD_BRANCH_OPERATOR』という管理者権限の挙動を正確に把握するためにも、あの世界線で起きた全ての事象を、詳細に文字として外部ストレージへ退避させておく必要があった。
俺は手帳の新しいページを開き、万年筆のペン先を走らせた。
[BR-000 観測ログ]
- ラーナ要塞陥落: ミラによる『広域結合』で大結界消滅。
- ガウェイン卿戦死: 南門崩落の殿。
- リナの死亡: 礼拝堂での急襲戦。
そこまで書いた時、俺のペン先がピタリと止まった。
(……待てよ)
俺は眉間に指を当て、記憶のインデックスを深く検索した。
「リナさんが……どうやって死んだのか」の詳細を記録しようとしたのだ。
二度と同じ急襲を許さないために、敵の戦術や武器の特性、攻撃のベクトルを書き記さねばならない。
(あの礼拝堂に踏み込んできた敵は何人だった……? 三人か、五人か……? どんな顔をしていた? どんな紋章の鎧を着ていた……?)
――ビキッ……。
脳の奥底で、微かな走査線ノイズが走った。
思い出せない。
敵の顔はおろか、どんな背格好だったのか、どんな魔法を使って踏み込んできたのかすら、像が全く結ばれない。
(じゃあ……リナさんの胸を貫いた武器はなんだ……? 槍だったか? 細身の剣だったか? それとも黒い魔導の光弾だったか……?)
――ビキビキビキッ……!!
思考を深めようとすればするほど、後頭部に激しい頭痛が走り、視界に青白い砂嵐のようなノイズが激しく明滅する。
まるで、アクセス権限のないシステム領域を読み出そうとして、エラーコード(ACCESS_DENIED / NULL_POINTER)を叩き返されているかのようだった。
リナが血を流して倒れたという『結論』と、冷たくなった亡骸を抱いて慟哭したという『感情の残滓』だけは、焼き鏝のように鮮明に残っている。
なのに――その結論に至るはずの『死因の具体的なプロセス』が、まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消滅していた。
***
「な……んだ、これ……?」
俺の手から万年筆が滑り落ち、木製の床に転がった。
指先がガタガタと震え、全身から嫌な冷や汗が噴き出してくる。
手帳に走る、途中で途切れたインクの染み。
「……レン様……? どうされたんですか? 顔色がすごく悪いです……!」
異変に気づいたリナが、心配そうに身を乗り出して俺の顔を覗き込んできた。
だが、俺はその澄んだ琥珀色の瞳を見つめ返すことすらできなかった。
(忘れたんじゃない……)
恐ろしい真実が、氷の刃となって俺の心臓を貫いた。
(この世界線においては……リナさんは南門を突破し、礼拝堂へなど行っていない。だから――『リナさんが殺された因果そのもの』が、この宇宙のデータベースから完全に削除されたんだ……!!)
オルドが通信越しに叫んでいた警告が、脳裏で耳をつんざくように蘇る。
『異なる世界線へ己の魂をねじ込むということは、二つの世界線の歴史の差異を、お前自身の存在情報を削って辻褄を合わせるということだ!』
同一性忠実度の低下。
それは単に「東京の駅名」や「昔の日常」が消えるだけではなかった。
『世界線を越えて救った対象が、なぜ死んだのかという死因そのものの記憶』が、世界線の位相整合性を保つための代償として、システムによって不可逆フォーマットされるのだ。
「そんな……馬鹿な……」
俺の喉から、震える掠れ声が漏れた。
もし……これからも世界線移動を繰り返したらどうなる? 誰かが死ぬたびに、別の世界へ跳躍して救い直す。
そのたびに、俺の同一性忠実度は九三パーセントから八十、五十、三十へと削られていく。
そして最後には――「俺はなぜこの人を救おうとしているのか」「この人は自分にとって誰なのか」という理由すら思い出せなくなるのではないか……!?
愛する人を救うために世界を改竄し、その結果として、愛した記憶そのものを失って空っぽの化け物になる。
これこそが――神のシステムに手を突っ込んだハッカーに下される、この宇宙で最も残酷な呪いだった。
***
「……レン様」
ガタガタと震える俺の両手を、柔らかな温もりがそっと包み込んだ。
見上げると、リナが俺の隣に座り直し、両手で俺の手をぎゅっと握りしめていた。
その温かい手のひらと、優しく微笑む琥珀色の瞳。
「理由は分かりませんけれど……レン様が、とても怖いものと一人で戦っていらっしゃるのは分かります」
「リナ……さん……」
「私は神官ですから、難しい魔法の理論や、レン様の背負っているものの半分も分からないかもしれません。でも……レン様が今、私の手を握ってくださっているこの温もりだけは、絶対に本物です」
リナは俺の手を自分の胸元へと引き寄せ、トクトクと脈打つ自らの心臓の鼓動を、手のひらを通して伝えてくれた。
「ほら、レン様。私、ここにいますよ。生きて、息をして、レン様の隣にいます。……だから、どうか一人で怯えないでください」
トクン……トクン……。
手のひらに伝わる、確かな生命のリズム。
その温もりが、冷え切っていた俺の魂の奥底を、ゆっくりと解きほぐしていった。
(……そうだ)
俺は奥歯を噛み締め、震える拳を握り直した。
記憶が削られようと、世界の因果から罰を受けようと、構わない。
今、この腕の中に、リナの命はある。
俺が世界をハッキングしてでも取り戻したかった奇跡は、確かにここにあるのだ。
「相馬蓮、リナ! 見ろ、王都の尖塔が見えてきたぞ!」
御者台からセラの澄んだ声が響き、馬車の窓の向こうに、遥かなる白亜の王都の威容が姿を現した。
失われた記憶の空白を胸に抱えたまま、俺は前を見据えた。
たとえ自分という存在がどれほど削られようと、俺はこの手で、みんなが生き残る唯一の未来を掴み取ってみせる――。
(第2部 完




