第24章 生きている
雪を踏みしめる靴の音が、凍てつく街道に規則正しく響いていた。
ラーナ要塞の南門から脱出して三時間。
車軸の折れかけた荷馬車を途中で乗り捨て、俺たち三人は、王都へと続く街道の中継点である『霧氷監視砦』を目指して夜の雪原を南下していた。
背後を振り返れば、地平線の彼方でラーナの街を飲み込んだ業火の残光が、夜空を暗い朱色に染め上げている。
俺は、並んで歩くリナの右手を、一度たりとも離さなかった。
革の手袋越しに伝わってくる、柔らかな指の感触。
時折、吹雪の突風が吹き付けるたびに、俺は無意識にリナの小さな身体を抱き寄せるようにして風上に立ち、その無事を何度も、何度も目で確かめていた。
「あ、あの……レン様……?」
リナが困ったように大きな琥珀色の瞳を瞬かせ、赤くなった頬をマントの襟元に少し埋めた。
そして、空いている左手を重ねて、俺の手袋の上から優しく包み込んでくれた。
「手……そんなに強く握りしめていたら、レン様の手が痛くなってしまいますよ? それに、レン様の手、すごく冷たくなっています……。私は大丈夫ですから……」
「……痛くないよ。絶対に、離さないから」
俺の声が掠れていた。
指先を緩めれば、あの薄暗い礼拝堂の石畳の上で、急速に冷たくなっていったリナの亡骸が幻のように蘇ってきそうで、恐ろしくて手を離すことなどできなかったのだ。
「相馬蓮、リナ。前方に砦の灯火が見えてきたぞ」
先頭を歩いていたセラが立ち止まり、長剣を鞘に納めながら振り返った。
深紅のマントには雪が白く積もっていたが、その凛とした翠眼には、歴戦の指揮官らしい冷静な光が宿っていた。
「今夜はあそこの宿舎で暖を取り、身体を休める。……王都への緊急報告と防衛線の再編は、明日の夜明けと同時に行う」
「はい、セラ隊長!」
リナが元気よく返事をして頷く。
その声にも、その表情にも、死の影など微塵も存在しない。
ただ前を向いて生きている、本物のリナがそこにいた。
***
霧氷監視砦の頑丈な石造りの宿舎に入ると、冷え切っていた空気が、薪の爆ぜる暖炉の温もりによって一気に解きほぐされた。
「ふぅ……っ! 生き返りましたね……!」
リナは濡れた旅用マントを脱いで壁のフックに掛けると、ほっと息をついて暖炉の火に両手をかざした。 白い法衣の胸元には、何の傷も、破れも、血の痕跡もない。
「レン様、セラ様。すぐにお湯を沸かしますね。身体の芯から温まるものをご用意します」
リナは甲斐甲斐しく厨房へと向かい、砦の備蓄庫から干し肉と根菜を取り出して、古びた鉄鍋で素早く温かいスープを作り始めた。
さらに、木皿に盛った旅用の硬い黒パンを両手で小さくちぎり、温かいスープの器の縁に浸して柔らかくしてから、テーブルの左側から俺の木皿へとそっと取り分けてくれた。
「はい、レン様。まずはこちらを召し上がって、身体を温めてくださいね」
右利きの俺がスプーンを持ちやすいように、自然に左隣から差し出されるその導線。
すべてが、俺の記憶にある愛おしい日常のままだった。
「セラ様もどうぞ。熱いですから気をつけてくださいね」
「すまない、リナ神官。助かる」
セラが素直に礼を言い、スープの器を受け取って口をつけた。
「……相馬蓮。南門でお前が放った炎刃がなければ、瓦礫で全滅していたのは私たちの方だった。よくリナを守り切ってくれたな」
「え……?」
「謙遜するな。ガウェイン卿を失ったのは痛恨の極みだが……お前が咄嗟に判断して活路を開いたからこそ、私たちはこうして生き延びているんだ」
セラの言葉に、俺は息を呑んだ。
この世界線では、俺が南門でリナを守り抜いた英雄として扱われているのだ。
三人で温かいスープを啜り、冷え切っていた胃の腑がじんわりと温まってきた頃、リナが嬉しそうに微笑みながら立ち上がった。
「そして……レン様のために、とっておきを淹れますね!」
リナが木製の棚の奥から大事そうに取り出したのは、深煎りの黒豆と、乾燥させたアプルの果皮だった。
手慣れた仕草で小鍋に湯を沸かし、豆と果皮を投入して、立ち上る香ばしい湯気を木匙でゆっくりと掻き混ぜる。
――カファ・アプル。
あの朝、ラーナの宿舎で淹れてくれたものと、寸分違わぬ甘く香ばしい香りが、部屋いっぱいに広がっていく。
その穏やかな光景を見つめながら、俺は震える手で、リナが差し出してくれた木製のカップを受け取った。
立ち上る湯気。
カップの底から伝わってくる、確かな熱。
口に含むと、豆の心地よい苦味と、林檎の微かな甘みが、乾き切った喉を優しく潤していった。
(……美味しい)
頭の中で、あの礼拝堂で聞いたリナの最期の声が、鮮烈にリフレインした。
『カファ・アプル……美味しかったですか……?』
『世界で一番美味しかったよ……! 明日も作ってくれよ……!』
あの時、血を吐きながら微笑んでいたリナが。
今、目の前で、生きて、湯気の向こうで俺を見つめている。
「う……っ……」
喉の奥が、激しく痙攣した。
***
「ポタッ……」と、木製のテーブルの上に、大粒の雫が落ちて染みを作った。
「……レン様……?」
隣に座っていたリナが、驚いて身を乗り出した。
俺の瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちていた。
カップを持つ両手が激しく震え、黒い液面に波紋が広がる。
どれだけ奥歯を噛み締めても、胸の奥底から込み上げてくる熱い嗚咽が止まらない。
「えっ……!? レ、レン様、どうされたんですか……!? どこかお怪我でも……!?」
「なんでも……なんでもないんだ、リナさん……」
俺は袖で必死に涙を拭おうとした。
だが、拭えば拭うほど、後から後から涙が溢れ出して止まらなくなる。
「相馬蓮、お前……」
向かいに座っていたセラが、痛ましげに眉をひそめて視線を落とした。
「……無理もない。要塞を失い、ガウェイン卿が私たちのために命を散らしたのだ。お前がどれだけ悔しく、心を痛めているかは分かる。……だが、泣くなとは言わんが、あまり自分を責めるな」
「そうですよ、レン様!」
リナが立ち上がり、俺の隣に膝をついて、両手で俺の右手をぎゅっと包み込んでくれた。
そして、空いた左手の指先を、俺の右のこめかみへとそっと優しく添えてくれた。
「『小光球・静穏の環』……」
微弱な温かい鎮静光が、過熱した俺の脳神経を優しく包み込む。
リナの柔らかな手のひらの温もりが、こめかみを通して直接心へと染み渡っていく。
「レン様は、最後まで私たちを守って戦ってくださいました。ガウェイン様が命懸けで繋いでくださったこの命を、私たちは今、こうして生きているんです。……だから、レン様。もう泣かないでください……」
リナは琥珀色の瞳を潤ませながら、聖母のように穏やかな微笑みを浮かべていた。
(違うんだ……リナさん……)
俺は心の中で叫んでいた。
(俺が泣いているのは、要塞を失ったからでも、ガウェインさんが死んだからでもない……。お前が……お前が目の前で死んだからなんだ……。心臓を貫かれて、血を流して、冷たくなって……俺の腕の中で息を引き取ったからなんだ……!)
喉元まで出かかったその言葉を、俺は必死に飲み下した。
言えるはずがなかった。
この世界のリナにとっても、セラにとっても、そんな惨劇は最初から起きていないのだ。
胸を貫かれた激痛も、冷たい廃小屋での絶望も、セラの抜剣も――すべては、あの世界に置き去りにしてきた、俺一人の記憶に過ぎない。
世界線を越えた者だけが背負う、誰とも分かち合えない、絶対の孤独。
七パーセントの記憶を削って手に入れたこの奇跡の裏に、どれほど深い断絶が横たわっているのかを、俺は痛切に思い知らされていた。
「……ありがとう、リナさん」
俺は掠れた声で呟き、リナの温かい手を自分の頬へと押し当てた。
どれほど孤独だろうと、誰にも信じてもらえなかろうと、構わない。
この温もりが本物であるなら、俺はどんな地獄でも背負い続けてみせる。
***
夜が更け、疲れ果てたリナとセラが奥の寝室で深い眠りについた頃。
俺は一人、静まり返った居間の窓辺に立ち、夜空を見上げていた。
吹雪の止んだ北の空には、二つの青白い月が静かに冷たい光を放っていた。
胸ポケットから、真鍮製のエントロピー検知計を取り出す。
あの狂ったように臨界突破を指していた真鍮の針は、今は静かに中央の正常値へと落ち着いていた。
王都のオルドとの通信も切断され、ガラス窓の奥はただ静まり返っている。
(リナさんは……生きている)
俺はそっと息を吐き出した。
自分の右手を見つめる。掌には、まだリナの頬に触れた時の柔らかな温もりが残っていた。
救えたのだ。
世界の法則をハッキングし、因果を跳び越え、俺は確かにリナの命を取り戻した。
だが――。
静寂の中で、俺の脳裏に、ふと奇妙な違和感が走った。
(……あれ……?)
俺は眉間に指を当て、記憶の糸を手繰り寄せようとした。
あの礼拝堂で、リナが俺を庇って倒れた瞬間。
リナの胸を貫いた、あの暗殺兵の姿。
あの時――リナは、一体どうやって……何に貫かれて死んだんだったか……?
――ビキッ……。
頭の奥底で、微かな走査線ノイズが走る。
槍だったか、刃だったか。敵は何人いたか。
あの鮮血の赤さと、手の冷たさだけは鮮明に覚えているのに――その『死因の具体的な光景』に触れようとすると、まるで霧の彼方に溶けていくように、像がぼやけて結ばれなくなっていた。
それだけではない。日本にいた頃の家族の顔も、通っていた会社のビルの名前も、輪郭が急速に曖昧になっていた。
「……俺は……何を忘れてるんだ……?」
月明かりが照らす雪原を見つめながら、俺の背筋に、得体の知れない冷たい戦慄が静かに走っていた。




