第23章 最初の移動
世界が、バラバラの幾何学模様へと分解されていく。
視界を満たしていた廃小屋の丸太壁も、床に積もった粉雪も、セラの絶叫も、すべてがゼロとイチの光の粒子となって彼方へと吹き飛んだ。
上下も、左右も、時間というベクトルすら存在しない、超次元の位相空間――『Inter-Branch Void(世界線間の虚無)』。
――グオォォォォォォンッ……!!
鼓膜の奥で、無数の宇宙が擦れ合うような巨大な摩擦音が鳴り響いていた。
視界を埋め尽くすのは、幾重にも折り重なった確率の膜と、七色に発光する超弦の奔流。 俺の肉体と意識は、確固たる質量を失い、一本の細いデータストリームへと引き延ばされていた。
二つの世界線の間にある、〇・〇七二ラジアンの位相の断絶。
そのわずかな隙間を跳び越えるため、宇宙のシステムが俺という存在の構成情報を力づくで再計算し、次元の辻褄を合わせようと軋みを上げる。
(ぐ……ぁ……ぁぁぁぁぁっ……!!)
激痛が、脳髄を内側から引き裂いた。
それは肉体の痛みなどではない。己の魂の根幹――『記憶』と『自己同一性』が、荒削りのヤスリでガリガリと削り取られていく、精神の破壊音だった。
――パリンッ……。
俺の脳の奥底で、何かが音を立てて砕け散った。
毎朝満員電車に揺られて通っていた、東京の山手線の駅名。
オフィス街の雑居ビルで、深夜まで一緒にサーバーの復旧作業をしていた同僚の顔と名前。
学生時代によく聴いていたお気に入りの曲のメロディや、実家の固定電話の番号。
大学の研究室のホワイトボードに書かれていた数式、高校時代の通学路の坂道、実家の台所から漂っていた夕飯の匂い。
それらの記憶が、まるで突風に舞う乾いた砂のように、指の隙間からサラサラと抜け落ちて虚無の彼方へと消え去っていく。
思い出そうと必死に手を伸ばしても、そこにはただ、冷たい空白のノイズだけが残される。
まるで、ハードディスクのパーティションの一部が不可逆フォーマットされ、大切な個人データが跡形もなく消滅してしまったかのような戦慄。
恐ろしいのは、何かが消え去ったという感覚だけが胸に残り、具体的に『何を忘れてしまったのか』すら、二度と思い出せなくなることだった。
視界の右上に、真紅のシステムログが焼き鏝のように点滅した。
BRANCH_MIGRATION_PROGRESS: [||||||||||||||||||||] 100%
SOURCE_BRANCH: BR-000 [CANONICAL_FAILURE]
DESTINATION_BRANCH: BR-014 [RINA_SURVIVED]
CAUSAL_PHASE_LOCK: SYNCHRONIZED (DELTA_THETA = 0.000)
WARNING: UNRECOVERABLE_ENTROPY_EXPENSES
IDENTITY_FIDELITY: 1.0000 -> 0.9300 (-0.0700)
STATUS: RE-DECOHERENCE_COMMITTED
同一性忠実度、九三パーセント。
俺は確かに、自分という存在の七パーセントを、この跳躍の代償として永遠に支払ったのだ。
そして――世界が再び、急激に質量と色彩を取り戻し始めた。
***
「――っ、は……っ!!」
ドサッ!!
肺に飛び込んできた猛烈な冷気に、俺は激しくむせ返りながら雪の上に両手をついた。
重力が一瞬で戻り、身体が自らの重さを思い出す。
肌を切り裂くような極寒の北風。吹き荒れる雪の匂い。遠くで響く砲撃の残響と、生きている人間たちの荒い息遣い。
「……ぁ……」
俺は震える手で地面の雪を掴んだ。
そこは――血の匂いと絶望が充満していたあの薄暗い廃小屋ではなかった。
ラーナ要塞の南門から数キロメートル離れた、雪原の小高い丘の上。
背後を振り返れば、黒煙と火柱を上げて崩壊していくラーナの街並みが、遠い地平線の上で燃え上がっている。
傍らには車軸の軋む荷馬車が一台停まり、生き残った数名の近衛兵たちが必死に馬をなだめていた。
そして前方では、深紅の軽装鎧を纏ったセラが、愛用の長剣を構えて周囲の猛吹雪を鋭く睨みつけていた。
「おい、相馬蓮! 何をもたもたしている、立て!」
セラが振り返り、凛とした声で俺を叱咤した。
その翠眼には、先ほどまで俺の首元に刃を突きつけていたあの激しい怒りも涙もなく、ただ前線の指揮官としての研ぎ澄まされた緊張感だけが宿っていた。
「南門の瓦礫は何とか突破したが、敵の追撃部隊がまだ後方から迫っている! お前が放ったあの炎刃のおかげで落石の直撃は免れたが、馬車の車軸が限界だ。ここからは走るぞ!」
(セラ……さん……?)
俺は息を呑んだ。
彼女は、俺を憎々しげに睨んでいない。
俺が世界線を跳躍したことも、先ほど首元に剣を突きつけて激論を交わしたことも――この世界のセラは、何一つ知らないのだ。
この世界線での俺は、南門の崩落寸前に炎刃で瓦礫を逸らし、ガウェインの殿に守られながら三人で正面から突破してきたことになっている。
ここは、『BR-014』。
リナが死んでいない、奇跡の並行世界線。
ということは――。
ドクン、と心臓が激しく跳ね上がった。
恐る恐る、俺は自分の右側へと視線を向けた。
***
「レン様……! 大丈夫ですか……!?」
鈴を転がすような、穏やかで、澄んだ少女の声。
振り返った俺の瞳に飛び込んできたのは――。
淡い亜麻色のボブヘアを吹雪になびかせ、木製祈祷杖を両手で握りしめた、リナの姿だった。
その白銀の法衣には、あの黒ずんだ血の痕などどこにもない。
胸を貫かれたはずの傷も、衣服の破れも、一切存在しない。
白く温かい息を吐き出しながら、リナは大きな琥珀色の瞳を心配そうに潤ませて、俺の目の前へと駆け寄ってきた。
「レン様、お怪我はありませんか? 顔色が真っ青です……!」
リナが両手を伸ばし、雪の上に膝をついていた俺の右手をぎゅっと包み込んだ。
――温かい。
冷え切って硬直していたはずのあの指先が。
今は柔らかな弾力を保ち、皮膚の奥からトクトクと確かに脈打つ生命の温もりを、俺の手のひらへと直接伝えていた。
「あ……」
俺の喉が、熱く締め付けられた。
「リナ……さん……?」
「はい、リナです! レン様、南門を出る時にガウェイン様が命懸けで切り拓いてくださった道を、私たちは今、必死で走ってきたんですよ? ……ガウェイン様を救えなかったこと、悔しいのは分かります……でも、レン様がそんなに自分を責めることはありません!」
リナが困ったように眉を下げ、自らの手袋を外して、素手で俺の手を温めようとしてくれる。
その澄んだ瞳には、一片の死の影もない。
幻覚ではない。
幽霊でも、走査線ノイズの残像でもない。
生きている。
心臓が動き、肺が呼吸し、体温を持った本物のリナが、俺の目の前で笑い、息をしているのだ。
「う……あ……」
「えっ……? レン様……? どうして泣いているんですか……!?」
リナが驚いて目を丸くした。
俺の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出し、頬を伝ってリナの包んでくれた手の上へとポタポタと零れ落ちていた。
止まらなかった。
どれだけ袖で拭おうとしても、胸の奥から込み上げてくる熱い嗚咽が、声となって零れ落ちていく。
「相馬蓮? おい、どうしたんだ急に!」
セラも怪訝そうに眉をひそめて駆け寄ってきた。
だが、俺には二人の言葉に答える余裕など、微塵も残されていなかった。
「……よかった……」
俺はリナの小さな身体を、力いっぱい腕の中に抱きしめた。
「えっ……!? レ、レン様……!? セ、セラ様が見てますっ……!」
リナが顔を真っ赤にしてあたふたと戸惑い、祈祷杖を取り落としそうになる。
だが、俺はその華奢な背中に顔を埋め、生きているその温もりと、今朝宿舎で淹れてくれたあのカファ・アプルの微かな香りを、貪るように確かめ続けていた。
「よかった……! 生きてる……生きていてくれた……ッ!!」
吹雪の吹き荒れる雪原の丘で、俺はリナを抱きしめたまま、子供のように泣きじゃくっていた。
七パーセントの記憶を失おうと、世界を欺く大罪人になろうと、構わない。
俺は確かに――リナの命を、死の淵から奪い返したのだ。




