第22章 分岐を見る
廃小屋の中を満たす青白い走査線ノイズの光が、さらにその輝度を増していった。
俺の網膜の奥深くで、視覚と意識の境界線が音を立てて融解していく。
『Branch Perception(世界線分岐知覚)』――。
召喚されたあの日、ステータス画面の最下段にひっそりと刻まれていた権限名『WORLD_BRANCH_OPERATOR』が、今やかつてないほどの計算リソースを喰らいながら、この宇宙の隠されたデータストリームを網膜に展開していた。
――ビキビキビキッ……!
視界の全方位に、無数の幾何学的なグリッドラインが走り、樹形図のように枝分かれした並行世界線のインデックスが高速でスクロールしていく。
SYSTEM: BRANCH_EXPLORER_INITIATED
CURRENT_BRANCH: BR-000 [CANONICAL_FAILURE]
- RINA_STATUS: DEAD (T = 00:34:12 AGO)
- LOHNA_STATUS: FALLEN (OCCUPIED)
SEARCHING_FEASIBLE_MIGRATION_TARGETS...
TOTAL_CANDIDATE_BRANCHES: 1,024
- BR-001 ~ BR-013: RINA_FATAL / DEVIATION_TOO_LARGE (P = 0.0)
- BR-014: RINA_ALIVE (CHEST_WOUND_AVOIDED / ESCAPED_SOUTH)
* PHASE_DIFFERENCE: DELTA_THETA = 0.072 RAD (MINIMAL)
* PROBABILITY_OVERLAP: 0.928
* EXPECTED_FIDELITY_LOSS: ~7.0% (IDENTITY_FIDELITY ≈ 0.9300)
- BR-015 ~ BR-1024: CAUSAL_COLLAPSE / REACHABILITY_ZERO
(あった……!!)
千通りの分岐スレッドの果て。
現在の世界線から位相がわずか〇・〇七二ラジアンしかズレていない、極めて近傍の並行世界線――『BR-014』。
そこでは、要塞の南門が崩落する寸前に俺が放った炎刃が瓦礫の落下軌道をわずかに逸らし、ガウェイン卿が命を賭して道を切り拓き――礼拝堂へ追い詰められることなく、生き延びたリナが俺の手を握りしめて雪原を駆け抜けていた。
網膜に投影されるその光景は、あまりにも鮮やかで、あまりにも残酷なほど美しかった。
胸を貫かれることもなく、血を吐くこともなく、穏やかな息遣いで「レン様、走ってください!」と笑いかけてくるリナの姿。
手を取り合う二人の体温が、次元の壁を越えてこちらまで伝わってくるかのようだった。
「……リナさん……」
俺の喉から、震える声が漏れた。
***
『馬鹿な……! 小僧、貴様、何を視ているのだ!?』
検知計の通信越しに、オルドの絶叫が響き渡った。
王都の研究室にある観測装置の針が暴走しているのか、オルドの立体映像が激しいノイズで激しく明滅している。
『お前の検知計から送られてくる位相情報……これは単なる局所的な魔力干渉ではない! 世界線の基底ポインタを直接走査している数値だ! ……小僧、お前は一体、何をやろうとしている!?』
「言ったはずだ、オルドさん」
俺は視線を虚空のログに向けたまま、冷徹に応えた。
「この世界線のリナさんを生き返らせることができないなら……リナさんが死んでいない別の世界線へ、俺自身の存在を移行させる」
『狂ったかッ!!』
オルドが画面を叩くようにして身を乗り出した。その顔は、学者としての好奇心など完全に消え失せ、純粋な恐怖に引き攣れていた。
『世界線移動など、理論上の禁忌中の禁忌! 宇宙の全存在確率を崩壊させかねん大罪だ! ……それに、仮に移動が成功したとしても、お前が無事で済むはずがない!』
「代償の話なら、ログに出ている。……同一性忠実度の低下だろ」
『そうだ!』
オルドが必死に叫ぶ。
『異なる世界線へ己の魂をねじ込むということは、二つの世界線の間の微小な歴史の差異を、お前自身の存在情報を削って辻褄を合わせるということだ! 忠実度が削られれば……お前はお前でなくなる! 元の世界で過ごした大切な記憶、人間関係、あるいは自分自身の名前や存在の輪郭すら、二度と思い出せなくなるかもしれんのだぞッ!!』
「……記憶が、消える……?」
俺の胸に、冷たい針が刺さった。
日本で過ごした東京の街並み。
夜遅くまでサーバー室で仲間と格闘した日々。
そして――この世界でリナと過ごした、あの暖炉の前での温かい時間。
それらが、世界線を跨ぐたびに、少しずつ摩耗して消えていく。
リナを救うために世界を渡るのに、リナとの記憶そのものが削られていくかもしれないという、あまりにも皮肉で残酷な代償。
だが――。
俺は、干し草の上に横たわるリナの冷たい亡骸を見つめた。
もう二度と開くことのない瞳。冷え切った指先。
この冷たい現実の中で、記憶だけを抱えて一生後悔し続けることと、自分を削ってでもリナが笑っている世界を取り戻すこと。
エンジニアとしての俺の答えは、最初から決まっていた。
「上等だ。俺自身の記憶の数ページと、リナさんの命を天秤にかけるなら……迷う理由なんて一つもない」
***
「そこまでだ、相馬蓮」
キィィィン……ッ!
澄み渡るような冷たい金属音が、廃小屋の空気を凍りつかせた。
見上げると、セラが愛用の長剣を鞘から完全に抜き放ち、その切っ先を、俺の喉元わずか数センチの位置へと真っ直ぐに突きつけていた。
翠眼の奥には、氷のような冷徹さと、張り裂けんばかりの激しい怒りが渦巻いている。
「セラ……さん……?」
「剣を下ろす気はない。……お前がその狂った術式を起動しようとするなら、私はお前の首を刎ねる」
セラの刃から放たれる微かな『静定領域』の冷気が、俺の首筋の皮膚をチリチリと刺激する。
「どいてくれ、セラさん。俺はリナさんを救いに行かなきゃならないんだ」
「救うだと!?」
セラの怒声が爆発した。
「リナは死んだんだ!! お前を救うために、この世界で、その命を燃やし尽くして散ったんだ! その死の重みを受け止めもせず、別の世界の影に逃げ込んで『助けた』などと自己満足に浸るなど……この世界で命を懸けて死んでいったリナへの、最大の冒涜だッ!!」
「冒涜だと……?」
「そうだ! 私たちは人間だ! 都合のいい未来だけを選んで、痛みをなかったことにする化け物じゃない! ……ガウェイン卿も、城壁で倒れた兵士たちも、そしてリナも……みんな、この過酷な『現実』の中で必死に生きて、必死に死んでいったんだ! お前のやっていることは、あいつらの生きた証をゴミ箱に捨てるのと同じだッ!!」
セラの刃が激しく震えていた。
その瞳から、大粒の涙が零れ落ち、切っ先を伝って床の雪へと落ちていく。
セラの言葉は、正しかった。 倫理的にも、感情的にも、人間として彼女の言うことこそが正しい。 死を悼み、喪失を背負い、冷たい現実を受け入れて前に進むことこそが、人間の尊厳なのだから。
だが――。
「……セラさんの言う通りだよ」
俺は切っ先から視線を逸らさず、静かに告げた。
「俺のやろうとしていることは、人間の倫理じゃない。神様が決めた運命にも、この世界のルールにも反する、最低のハッキングだ」
「なら――!」
「でもな、セラさん」
俺は一歩、セラの切っ先に向かって足を踏み出した。
刃が俺の喉元を浅く切り裂き、一筋の赤い血が滲む。
「俺は勇者としてこの世界に呼ばれた。なら……神の創ったシステムがどんなに過酷だろうと、目の前で死んだ大切な一人すら救えない世界なんて、俺が全部書き換えてやる。……リナさんが生きて笑っている世界があるなら、俺は悪魔にでも化け物にでもなってやるよ」
「相馬……蓮……!」
セラの瞳に、戦慄が走った。
目の前にいる男が、ただの気の弱い異界の青年ではなく――自らの存在そのものを代償に世界の因果を破壊しようとする、本物の『異端者』であることを悟ったのだ。
***
「オルドさん、セラさん。……今までありがとう」
俺は首元の刃を無視し、網膜に浮かび上がる金色の実行プロンプトへと右手を伸ばした。
CRITICAL_CONFIRMATION:
EXECUTE_BRANCH_MIGRATION(CURRENT: BR-000 -> TARGET: BR-014)
WARNING: IRREVERSIBLE_STATE_TRANSITION
ESTIMATED_FIDELITY: 0.9300
DO YOU WISH TO PROCEED? [YES / NO]
(……YESだ。迷うことなんてない)
俺の指先が、空間に浮かぶ『YES』の文字を強く押し込んだ。
ゴォォォォォォォォッ……!!
瞬間、廃小屋の全域が、眩い白銀と青紫色の光の奔流に呑み込まれた。
重力が完全に消失し、壁も、床も、雪原も、すべてが幾何学模様の光の粒子となって剥離していく。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉッッ!! 相馬蓮ッ!!」
セラの絶叫が、光の渦の彼方へと吸い込まれていく。
世界が激しく回転し、俺の脳内で、何かが音を立てて引きちぎられていく激痛が走った。
――視界が、真っ白に反転する。
さようなら、リナさんが死んでしまった世界。
俺は今、お前を殺した世界を捨てて、お前が生きている世界へと跳躍する――。




