第21章 蘇生できない理由
雪原の吹き溜まりに佇む、旧銀鉱山跡の朽ちかけた木造の廃小屋。
板張りの隙間から容赦なく極寒の吹雪が吹き込む中、俺とセラは、リナの冷たくなった亡骸を乾いた干し草の上に静かに横たえていた。
セラが自分の深紅のマントを解き、リナの胸元に広がる黒ずんだ血の痕を隠すように、首元まで優しく覆い被せる。
「……すまない、リナ神官。こんな寒くて薄汚い場所でしか、休ませてやれなくてな」
セラは膝をつき、祈るように両手を組んで静かに目を伏せた。
その頬には、冷たい風によって凍りついた涙の跡が白く筋を作っていた。
普段は冷静沈着で勝気な女性騎士が、今はその華奢な肩を微かに震わせている。
俺は小屋の冷え切った丸太壁に背を預けたまま、虚ろな目で自分の両の手のひらを見つめていた。
指先には、まだリナの温かい血液の感触が、鉄錆の匂いと共にこびりついていた。
いくら雪で擦っても、あの温もりが急速に奪われ、ただの冷たい肉体へと変わっていった残酷な感触だけが、皮膚の奥深くに呪いのように焼き付いて離れない。
腰の『灼熱の聖剣イグニス』も、今は炎を失い、ただの冷たい鉄の塊のように重く垂れ下がっていた。
ジジッ……ジジジジッ……!!
胸ポケットの中で、真鍮製のエントロピー検知計が再び甲高い電子音のようなノイズを撒き散らした。
内部のクォーツ発振子と微小な真鍮歯車が、目に見えない空間の振動を捉えて高速で空転している。
俺が震える指先でそれを取り出すと、真鍮の文字盤の奥から、青白い走査線ノイズの光が溢れ出し、薄暗い小屋の空間を照らし出した。
『――おい! 聞こえるか、小僧! セラ隊長! 無事なのか!?』
文字盤のガラス面から、激しい雑音混じりの切迫した老人の声が響き渡った。
王立魔導院の特異研究者――オルド・ケインの声だった。
***
「オルド……さん……?」
俺が呆然と呟くと、検知計の文字盤から青白い光の粒子が立ち上り、オルドの上半身の半透明な立体映像が宙に揺らめいた。
王都の研究室で、書類を散らかしながら測定器に張り付いている様子がノイズ越しに見て取れる。
「この検知計に仕込んでおいた特異点通信機構だ。王都の研究所の測定器と、空間位相を極小同期させてある。……小僧、先ほどラーナ要塞からの魔導通信網が完全に途絶した! 大結界が消失したという緊急観測アラートが魔導院を揺るがしているが、一体現地で何が起きた!?」
「……ラーナは、陥落した」
セラの低く重い声が、廃小屋の静寂を切り裂いた。
「北方連合の総攻撃だ。特異魔導士ミラの『広域結合』によって大結界が霧散し、第一から第三までの全外壁が突破された。ガウェイン卿は殿を務めて散り……司令部も炎上して壊滅した」
『なっ……!? 鉄壁を誇ったラーナが、たった半日で……!?』
オルドの立体映像が絶句し、咥えていた煙管を取り落としそうになる。
だが、セラの告発はそれだけで終わらなかった。
「……それだけではない。リナ神官が、相馬蓮を庇って……北方暗殺兵の虚空魔導槍に心臓を貫かれた」
『……なに……?』
「リナは……死んだ。今、私たちの目の前で冷たくなっている」
通信の向こう側から、息を呑むような沈黙が返ってきた。
オルドは眼鏡の奥の目を大きく見開き、信じられないものを見るように、干し草の上に横たわるリナの亡骸を見つめた。
『リナ神官が……まさか……そんな馬鹿な……。あのおとなしく心優しい娘が……』
「オルドさん」
俺はふらふらと立ち上がり、青白い光を放つ検知計を両手で握りしめてオルドの映像へと詰め寄った。
「教えてくれ。……リナさんを、どうやったら生き返らせることができる? 王都の大聖堂の最高位秘術でも、魔導院の禁忌のアーティファクトでも何でもいい。……どうすれば、リナさんを蘇生できるんだ……!?」
俺の血走った瞳を見つめ、オルドは悲痛に顔を歪めた。
そして、静かに、けれど逃げ場のない冷徹さで首を横に振った。
『……小僧。残酷な現実を言わねばならん。この世界において……死者の蘇生は、物理的に絶対に不可能だ』
***
「なんでだよッ!!」
俺の叫びが、廃小屋の屋根を震わせた。
「この世界には魔法があるだろ!? 空間を操り、確率を偏在させ、熱を奪い去る奇跡の法則があるはずだ! 俺は管理者権限まで持ってるんだぞ!? 傷口の細胞分裂を巻き戻して、心臓をもう一度動かすことの何が不可能なんだよッ!!」
『落ち着け、小僧! 感情ではなく、物理法則の話をしているのだ!』
オルドの声が厳しく響いた。
彼は煙管を机に置き、眼鏡を押し上げながら、教え子を諭すように言葉を継いだ。
『お前はエンジニアだろう。論理で考えろ。なぜ魔法で死者を蘇生できないのか……理由は三つある』
オルドは宙で三本の指を立てた。
『第一に、「巨視的デコヒーレンスの不可逆性」だ。生体が生きている状態とは、天文学的な数の生体分子が量子的な重ね合わせを保ちながら高度な秩序を維持している状態を指す。だが、心臓が止まり脳が活動を停止した瞬間、その秩序は大気や外部の熱浴と激しく衝突し、環境誘導超選択によって不可逆な古典的「死」として完全に確定(測定)されてしまう。一度確定して熱として散逸した情報を、元の秩序ある状態へ再収集することは、熱力学第二法則が絶対に許さん』
『第二に、「ノー・クローニング定理(No-Cloning Theorem)」だ。リナ神官という人間の意識、魂、記憶、そして複雑怪奇な生体秩序の情報は、この宇宙に二つとない固有の量子状態だ。それをどこかからコピーして復元することは、量子情報理論上、絶対に不可能なのだ。どれほど強大なエネルギーを死体に注ぎ込もうと、注ぎ込まれた魔力はただの無秩序な熱となって周囲へ散乱するだけに終わる』
オルドの言葉が、氷の刃のように俺の胸を抉る。
『そして第三に――お前自身が身をもって知ったはずの、「Zero-Amplitude Rule(確率振幅ゼロの法則)」だ』
オルドが鋭い視線で俺を射抜いた。
『この世界の魔法は、無から何かを創り出す奇跡ではない。存在し得る確率の経路(振幅)を引き寄せる技術に過ぎん。だが、心臓が完全に破壊され、すでに冷たくなった肉体において――「現在の因果の延長線上で生き返る確率」は、数学的に完全にゼロ($\alpha_i = 0$)なのだ。ゼロの確率をどれだけ何千倍に増幅しようと、掛け算の答えはゼロにしかならん』
「く……っ……」
俺は膝をつき、凍りついた土間に拳を叩きつけた。
オルドの解説は、完璧だった。
隙のない、美しく、そしてこの上なく残酷な論理の檻。
この世界線という閉じたシステムの中にいる限り、リナが息を吹き返す可能性は、分子の一粒分すら残されていないのだ。
***
「……そうか」
俺は乾いた唇を開いた。
涙はもう出なかった。代わりに、頭の奥底で、恐ろしいほど冷徹な計算回路がカチリと音を立てて噛み合った。
「同一の世界線の内部においては……蘇生経路の確率はゼロ。絶対に巻き戻せない。……そういうことだな、オルドさん?」
『そうだ。どんな大司教の祈祷も、どんな魔導院の禁術も、この宇宙の根本法則を覆すことはできん』
「なら――世界線の外側ならどうだ?」
『……なに……?』
オルドが眉を跳ね上げ、画面の向こうで息を呑んだ。
横で聞いていたセラも、ただならぬ気配を察知して鋭い視線を俺に向けた。
「相馬蓮……お前、何を言っている……?」
「オルドさん。あんたが俺にくれたこのエントロピー検知計……今、文字盤の針がどこを指しているか分かるか?」
俺は検知計のガラス面をオルドの立体映像へと突き出した。
真鍮の細い指針は、限界目盛りを完全に振り切り、狂ったように青白い走査線ノイズを撒き散らしながら高速で振動していた。
『ば、馬鹿な……!? 針が臨界突破領域で振り切れている……!? この空間の局所コヒーレンスが、異常なほど極大化しているというのか……!?』
「ああ。要塞の陥落とリナさんの死によって、何千人もの観測者の視線が消え去ったこの雪原で……今、世界を縛る観測剛性が極限まで緩んでいる」
俺はゆっくりと立ち上がり、干し草の上に横たわるリナの亡骸の前に立った。
意識を極限まで研ぎ澄まし、脳内のシステムコンソールを開放する。
――ビキビキビキッ……!!
網膜を切り裂くような走査線ノイズ。
『Branch Perception(世界線分岐知覚)』が、これまでにない出力で世界を再レンダリングし始めた。
目の前に広がる、冷たく横たわるリナの身体。
だが、その輪郭のすぐ隣――空間の位相がわずかにズレた半透明のレイヤーの上に、別の光景が重なり合って揺らめいていた。
(見えている……!)
そこには、要塞の南門を間一髪で突破し、息を切らしながらも――確かに生きているリナが、俺の手を握りしめて笑っている別の世界線(Branch)の残像が、青白い干渉縞となって網膜に焼き付いていた。
「この世界線(BR-000)のリナさんを生き返らせることはできない。……だが、『リナさんが死んでいない別の世界線』は、確かにすぐ隣に存在している」
俺の呟きに、セラの息が呑まれた。
彼女は長剣の柄に手をかけ、信じられないものを見るように俺を見据えた。
「相馬蓮……まさか、お前……世界の因果そのものを跳び越える気か……!? それは……人の踏み込んではならない領域だぞ!」
「ああ。蘇生が無理なら――俺自身が、リナさんの生きている世界へ移動する」
冷たい風が吹き込む廃小屋の中で、俺の黒い瞳に、後戻りのできない禁忌の決意が宿っていた。




