第20章 最初の死
静寂が、音もなく世界を支配していた。
割れたステンドグラスから吹き込む極寒の北風が、礼拝堂の石畳に散らばる粉雪をかすかに揺らす。
俺の腕の中に横たわるリナの身体は、抱きしめていることすら恐ろしくなるほど、急速にその温もりを失いつつあった。
指先はすでに白く強張り、血の気を失った唇からは、もう何の息遣いも聞こえてこない。
その胸元の法衣からは、血の鉄錆の匂いに混ざって、今朝宿舎で淹れてくれたあのカファ・アプルの微かな甘い香りが、あまりにも切なく漂っていた。
「リナさん……?」
呼びかけても、返事はなかった。
淡い亜麻色の髪に触れても、あの穏やかで澄んだ琥珀色の瞳が開かれることもない。
胸元の白い法衣を真っ赤に染め上げた鮮血は、冷え切った夜気によって黒ずみ、石畳の隙間へと凝固し始めていた。
――ビキビキッ……。
俺の視界の右上に、漆黒の枠で囲まれたステータスログが無機質に点滅していた。
TARGET_ENTITY: CHR-RINA (Rina Alvel)
LIFE_FUNCTION: NULL [CARDIAC_ARREST / BRAIN_INACTIVE]
STATUS: TERMINATED / DECOHERENCE_LOCKED
AMPLITUDE_VECTOR: ZERO (IRREVERSIBLE)
OBSERVER_STATE: MACROSCOPIC_COLLAPSE_FINALIZED
画面から、すべてのパラメータが完全に消滅していた。
レベルも、魔力残量も、スキルのリンクも、全てが灰色のノイズに呑まれていた。
ただ一行、『DECOHERENCE_LOCKED(確定・不可逆)』という冷酷な文字列だけが、血のような赤色で網膜の奥に焼き付いていた。
(死んだ……のか……?)
ゲームなら、教会へ連れて行けば蘇生魔法で治せるはずだった。
ファンタジー小説なら、主人公の覚醒とともに傷口が眩い光に包まれて奇跡が起きるはずだった。
チート能力を手に入れた俺なら、管理者権限でステータスを書き換えて、リトライボタンを押せるはずだった。
だが、この世界はゲームでも小説でもなかった。
冷徹で、残酷で、一度デコヒーレンスしてしまった物理現象の死を絶対に巻き戻さない、ただの巨大で冷たいシステムに過ぎなかったのだ。
かつて深夜のサーバルームで、バックアップごと吹き飛んだデータベースの無残な空欄を見つめていた時のような、取り返しのつかない絶望。
だが今回は、失われたのはデータではなく、目の前で俺を慕ってくれた、たった一人の人間の命だった。
「う……あ……ぁ……」
俺の喉の奥から、乾いた掠れ声が漏れる。
涙がとめどなく溢れ出し、リナの穏やかな死に顔すら満足に見えなくなっていた。
***
「相馬蓮ッ!! 立てッ!!」
激しい怒声と共に、セラの革手袋をはめた手が、俺の肩を力いっぱい掴んで揺さぶった。
見上げると、セラの整った顔は煤と涙で濡れ、その翠眼が激しい痛みを堪えるように引き結ばれていた。
「セラ……さん……。リナさんが……息を……してないんだ……」
「分かっている! だが、ここに留まっていれば、私たちまで全滅する! 敵の増援がすぐそこまで来ているんだ!」
ドォォォンッ!!
礼拝堂の外壁に砲撃の余波が直撃し、天井から巨大な石材が崩落して石畳を粉砕した。
外からは、北方兵たちの怒号と、金属甲冑の足音が無数に迫り来ているのが聞こえる。
「……もう……どうでもいい……」
俺は力なく首を横に振った。
「俺が……俺がチートだの権限だのって浮かれていたせいで……リナさんを死なせたんだ……。俺に、勇者の資格なんてなかったんだ……」
バチンッ!!
乾いた鋭い音が、礼拝堂の静寂を切り裂いた。
頬に走る激しい熱と痛み。
セラが、全身全霊の力で俺の左頬を張り飛ばしていた。
「馬鹿野郎ッ!!」
セラが俺の胸ぐらを掴み、その顔を鼻先数センチまで強引に引き寄せた。
そのエメラルドの瞳からは、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちていた。
「自分を憐れんでる暇があるなら、その腕を見ろ! リナはお前を助けるために命を投げ出したんだぞ! そのリナの身体を、敵の魔獣に喰わせろとでも言うのか! リナの誇りまで、ここで踏みにじらせる気かッ!!」
「っ……!」
「私は……リナの遺体を絶対に敵には渡さない! お前が動けないなら、私がリナを背負って走る! ……それでもお前がここで死にたいなら、勝手に野垂れ死ね!」
セラは俺の手からリナの身体を優しく抱き上げると、自らの背中に背負い、深紅のマントでその冷たい身体をしっかりと固定した。
その背中を見つめた瞬間、俺の胸の奥底で、凍りついていた思考がパキンと音を立てて砕けた。
(そうだ……。リナさんを……こんな冷たい場所に一人で置いていけるわけがない……!)
俺は震える膝に力を込め、聖剣イグニスを杖代わりにしながら、無理やり立ち上がった。
「……行く……。俺も、行く……!」
「ならついてこい! 地下水路へ飛び込むぞ!」
セラが祭壇の裏の隠し扉を蹴破り、暗黒の地下水路へと迷わず飛び込んだ。
俺もまた、歯を食いしばってその背を追った。
***
地下水路の中は、膝まで浸かるほどの冷たい泥水と、吹き抜ける氷のような北風で満ちていた。
頭上からは、絶え間なく要塞が崩壊していく轟音と振動が伝わってくる。
「……はぁっ……はぁっ……!」
セラはリナを背負ったまま、前も見えない暗闇の中を一心不乱に走り続けた。
長剣の柄を強く握りしめ、泥水を蹴立てて進むその呼吸は、極限まで荒れていた。
「セラさん……代わるよ。俺がリナさんを背負う……」
「前を見ろ、相馬蓮! 私の足はまだ止まっちゃいない! お前は聖剣を構えて、出口まで後ろを警戒してろ!」
セラの凛とした声が、暗闇の通路に反響する。
その声は微かに震えていたが、決して折れることはなかった。
俺は聖剣の刀身に微かな熱を灯し、二人の足元を照らしながら走り続けた。
――脳裏に、数々の情景が走馬灯のように浮かんでは消えた。
王都の大聖堂で召喚された日。
ステータス画面に並ぶ権限設定を見て、「神様、それはスキル付与じゃなくて権限昇格じゃないです?」と心の中で笑っていた自分。
魔導訓練場で火球を放ち、オルドの研究室で二重暗箱実験をして、世界の法則を解明した気になっていた自分。
宿舎の暖炉の前でカファ・アプルを飲みながら、「東京の街を案内する」と笑って約束していた自分。
(全部……俺の傲慢だったんだ……)
何が権限昇格だ。何がインフラエンジニアだ。何がチート勇者だ。
俺はただ、システムの表面を撫でていい気になっていただけの、無力な凡人に過ぎなかった。
目の前で自分を慕ってくれた一人の少女の命すら、救うことができなかった。
冷たい泥水が靴の中に染み込み、足の感覚が麻痺していく。
だが、その冷たさすら、腕から失われたリナの体温の喪失感に比べれば、何の意味も持たなかった。
***
水路を走り抜けること三十分。
前方に、雪原からの微かな月明かりが差し込んできた。
ドサッ……!
城外の雪原へと飛び出した瞬間、セラが膝から崩れ落ち、雪の上に倒れ込んだ。
俺は慌ててセラを支え、背中からリナの身体をそっと雪の上へと横たえた。
「……はぁっ……はぁっ……ここまで来れば……敵の追手は……撒けたはずだ……」
セラが雪の上に大の字になって肩で息をした。
その手袋は泥と血で汚れ、吐く息は真っ白だった。
俺はゆっくりと顔を上げ、背後を振り返った。
「……あ……」
数キロメートル後方にそびえ立っていたはずの、鉄壁を誇った北境要塞都市ラーナ。
その巨大な防壁は無残に砕け散り、中央司令塔からは真っ赤な火柱が夜空を焦がすように立ち上っていた。
無数の黒煙が吹雪と混ざり合い、王国北方の象徴であった都市は、完全に陥落していた。
守るべき街は滅び、ガウェインも散り、そして――リナはもういない。
雪の上に静かに横たわるリナの顔に、冷たい夜風が吹き抜ける。
まるで眠っているかのように穏やかなその表情は、もう二度と、目を開けて俺に微笑みかけてくれることはないのだ。
「う……うあああああ……ッ!!」
俺は雪の上に両手と額を擦り付け、子供のように声を上げて慟哭した。
雪が体温で溶けて泥になっても、涙が凍りついて頬を切り裂くように痛んでも、泣くのをやめることができなかった。
――その時だった。
ジジッ……ジジジジッ……!
俺のスーツの胸ポケットの奥で、何かが激しく震動を始めた。
「……え……?」
俺は震える手でポケットに手を差し入れ、それを取り出した。
出立の夜、王都の裏路地でオルドから手渡された、手のひらサイズの『真鍮製エントロピー検知計』。
普段なら微動だにしないはずの真鍮の細い指針が、目盛りの上限を遥かに突き破り、ガラス窓の内側で狂ったように激しく明滅していた。
カチカチカチカチッ……!!
文字盤の奥から、青白い走査線ノイズの光が漏れ出している。
王都を出発する前夜、オルドが言っていた言葉が脳裏に蘇る。
『世界の確率余地が異常な臨界点に達した時、この針は空間の特異点を指し示す』。
まるで、この空間のすぐ隣に――信じられないほど巨大な『別の可能性(余地)』が、嵐のように渦巻いているかのように。
「……相馬蓮……? それは……」
起き上がったセラが、怪訝そうに眉をひそめて検知計を見つめた。
俺は涙に濡れた顔を上げ、狂乱する指針を、そして冷たく横たわるリナの亡骸を見つめた。
(死んだ事実は……世界線の中で絶対に巻き戻せない……。だが――)
心臓が、耳元でドクンと激しく脈打った。
一度確定した死という第一不可逆点。
その絶対の絶望の底で、俺の奥底に眠っていた何かが、静かに、昏い光を放ち始めていた。




