第2章 勇者権限
聖鏡の間は、静謐と冷気に満たされていた。
地下の召喚室とは打って変わって、部屋全体が磨き抜かれた純白の大理石で構成されている。天井には天窓が穿たれ、二つの太陽から注ぐ蒼と金の光が、部屋の中央に鎮座する巨大な銀鏡を神々しく照らし出していた。
高さ三メートル、幅二メートル。枠には精緻な銀細工で無数の蔦と幾何学模様が施され、鏡面はまるで静まり返った水面のように、周囲の光景を一切の歪みなく映し出している。
「これより、異界の勇者殿の魂に刻まれし天賦の器を測る『鑑定の儀』を執り行う」
大司教エルネストが、厳粛な声で宣言した。
鏡の周囲を取り囲むように、十数名の神官と、紺碧のローブを纏った王立魔導院の術士たちが円陣を組んでいる。彼らは手にした羊皮紙と記録用のペンを構え、固唾を呑んで中央を見つめていた。
「レン様、どうぞ中央の壇上へ」
隣に立つリナが、緊張をほぐすように小さく微笑みながら促してくれた。
「鏡の前に立ち、心を無にして鏡面に右手を触れてください。鏡がレン様の魂の波長を読み取り、神より授かりし『役割』と『祝福』を文字として浮かび上がらせます」
「……わかった」
先ほど網膜を焼き尽くしたあの赤いエラー警告――『PRIVILEGE_ESCALATION APPLIED』の文字が、脳裏の片隅で鈍く疼いていた。
あれが単なる気のせいだったのか、それともこの儀式と関係があるのか。 スーツの右手を軽く握り直してから、一段高くなった壇上へと歩み出る。
鏡の前に立つと、そこには見慣れた自分の姿が映っていた。
安物のスーツを着崩し、ネクタイを少し緩めた、どこにでもいる二十六歳のサラリーマン。目の下には連日の残業で作った薄い隈があり、とても世界を救う勇者の風格などない。
(まあ、どう転んでもなるようにしかならないよな)
覚悟を決めて、右手のひらを銀の鏡面へと押し当てた。
ひやり、とした冷たさが皮膚を伝わってくる。
直後――鏡の奥深くから、重低音の唸りが響き渡った。
ゴオォォォ……ッ!
鏡面がまるで水滴を落とした水面のように波打ち、銀色の光の波紋が同心円状に広がっていく。
天窓から差し込む光が乱反射し、部屋全体が一瞬にして昼間以上の眩い青白色に染まった。魔導士たちから「おおっ!」という驚嘆の声が上がる。
「波長の同期率、極めて良好!」
「魔導力線の乱れなし! 魂の輪郭が鏡面に固定されていきます!」
「来るぞ……文字が浮かび上がる!」
鏡の奥から、無数の光の粒子が浮上してきた。
粒子は秩序正しく整列し、鏡の表面に鮮やかな金色の古代文字を刻み込んでいく。
大司教エルネストが身を乗り出し、震える指先でその文字を一行ずつ読み上げ始めた。
「し、職能名……『異界の勇者』! 神より直接指定されし最高位の天賦……!」
神官たちの間に歓声が走る。だが、それはまだ序の口に過ぎなかった。
金色の文字は次から次へと行を増やし、鏡面を埋め尽くすように展開されていく。
「な、なんだこの祝福の数は……!?」
魔導士の一人が、記録用紙を取り落としそうになりながら悲鳴を上げた。
「『全元素魔法干渉・適性極大』……火、水、風、土、光、闇、すべての事象干渉において最大効率を保証!? さらに『聖遺物同調率・計測不能』……あらゆる神聖武具の制約を無効化して即時行使可能!? ば、馬鹿な、こんな数値は建国以来の記録にも存在しないぞ!」
「まだあるぞ! 『超常因果防護』……致命的な確率の偏りを自動で中和! 『言語概念即時同期』……あらゆる言語・記号体系の瞬時理解! 『天賦の身体能力増幅』……!」
「おお……おおおっ……!」
大司教エルネストが、感極まったように両膝を床につき、両手を天へと掲げた。
「奇跡だ……! 天穹の主は、かつてない強大な御力をもって、我が国に救済者を遣わしてくださった! これぞ真なる救国の勇者! 魔王軍の脅威など、この圧倒的な神の祝福の前に瞬く間に霧散するであろう!」
「勇者様万歳!」
「アルセリア王国に栄光あれ!」
聖鏡の間は、割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。
リナもまた、琥珀色の瞳を涙で潤ませ、両手を胸の前で固く組んで俺を見つめている。
「すごい……すごいです、レン様! こんなにたくさんの祝福を授かるなんて……本当に、神様がお選びになった勇者様だったんですね……!」
周囲の熱狂は頂点に達していた。
誰もが涙を流し、互いに抱き合い、未来の勝利を確信している。
だが――その中心にいる俺自身は、歓喜するどころか、背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。
(……待て。これ、なんだ?)
俺の目は、魔導士たちが読み上げる「ファンタジーな名称」ではなく、鏡面に映し出されている文字の構造そのものに釘付けになっていた。
鏡に表示されているのは、表向きは金色の古代文字だ。
だが、『言語概念即時同期』とかいうスキルの効果なのか、俺の脳内ではその古代文字が、恐ろしいほど無機質で論理的な「別の構文」へとリアルタイムで翻訳されていた。
USER_ACCOUNT:
identifier: "CHR-REN"
origin_plane: "BRANCH_EXT_000"
assigned_role: "HERO_DEFAULT"
PERMISSIONS:
observe_reality:
level: "UNRESTRICTED"
target: "LOCAL_SURROUNDINGS"
interfere_matter:
elements: ["FIRE", "WATER", "WIND", "EARTH", "LIGHT", "DARK"]
amplitude_limit: "MAX_LEVEL_4"
coherence_cost_reduction: 0.85
equipment_access:
class_restriction_bypass: true
sacred_relic_binding: true
environmental_adaptation:
auto_linguistic_decode: true
kinetic_reinforcement: "LEVEL_3"
インデント。コロンによるキーとバリューの対応。リスト形式の配列。
そして明確に階層化されたアクセス制御の定義。
(……設定ファイル(YAML)じゃねえか、これ)
思わず心の中で激しく突っ込んだ。
神の奇跡?
魂に刻まれた天賦の才能?
冗談じゃない。これはどう見ても、巨大なシステムが新しいユーザーアカウントを作成し、あらかじめテンプレートとして用意されていた「勇者ロール(HERO_DEFAULT)」を割り当て、各リソースへの|アクセス許可(Permissions)を一括付与した時のプロビジョニング結果そのものだった。
「全属性魔法に適性がある」のではない。
「六つの物質干渉APIに対する実行パーミッションが許可されている」だけだ。
「聖遺物を誰でも使える」のではない。
「装備クラス制限フラグ(class_restriction_bypass)がTrueに設定されている」だけだ。
「あの……レン様?」
俺が鏡の前で押し黙ったまま眉間に深い皺を寄せているのを見て、リナが心配そうに壇上へ上がってきた。
「どうかなさいましたか? これほど素晴らしい祝福の数々なのに……あまり、お喜びではないのですか?」
「いや……喜ぶっていうかさ」
俺は鏡に映る金色の文字列を指差した。
「リナさん。この『全元素魔法干渉』とか『聖遺物同調』って、どうして俺に使えるようになってると思う?」
「えっ? それは……神様がレン様の魂を祝福し、強大な力を授けてくださったからですが……」
「じゃあ、この力は『俺の身体から湧き出ているエネルギー』なのか?」
「エネルギー……? ええと、魔力のことでしょうか? 神の祝福によって、レン様の魂の器が大きく広がり、奇跡を起こすための魔力を無尽蔵に引き出せるようになったのだと教本には……」
「でもさ、これを見てくれよ」
俺は鏡の文字列をなぞるように手を動かした。もちろん、リナには設定ファイルの構造など見えていないだろうが、言わずにはいられなかった。
「この書き方、明らかに『能力をくれた』んじゃなくて、『利用権限を許可した』だけに見えるんだよ」
「り、利用……けんげん……?」
「そう。例えるならさ、俺がいきなりスーパーパワーを手に入れたんじゃなくて、超巨大なスーパーコンピューターのゲスト用アカウントを渡されて、管理者から『お前は特別だから、火のフォルダも水のフォルダも閲覧・編集していいよ』ってアクセス権をもらった状態なんだよ。俺自身が強くなったわけじゃない」
リナは琥珀色の瞳を白黒させ、口をぽかんと開けた。
「すーぱー……こんぴゅ……? ふぉるだ……?」
「つまりさ、この『スキル』って、俺の筋肉や魂そのものじゃなくて、外側にある仕組み……この世界を動かしている何らかのシステム側が、俺に『やっていいこと』を許可してるだけなんじゃないのか? もしその神様とやらが明日『お前の権限剥奪ね』ってフラグをFalseに書き換えたら、俺は一瞬でただの無能力者に戻るんじゃないのかって話」
壇上の下で狂喜していた大司教エルネストや魔導士たちも、俺の異様な熱弁に気づいてピタリと歓声を止めた。
広間に、奇妙な沈黙が落ちる。
「ゆ、勇者殿……? 何を仰っておられるのか、我らには少々理解が追いつきかねますが……神の祝福とは、そのような契約書の如き無機質なものではございませぬぞ? 天穹の主が貴殿の魂の清らかさに応え、奇跡を宿してくださったのです」
「……そうなんですかね」
大司教の言葉に、俺は曖昧に苦笑いを返した。
彼らを論破したいわけではない。ただ、彼らの世界観――「神が奇跡を授ける」という信仰と、俺の目の前に提示されている「権限付与のログ」という現実の間に、決定的な断絶があることだけは痛いほど理解できた。
この世界の人々は、自分たちが暮らす現実の裏側に、厳密なルールと権限制御が走っていることを知らないのだ。
俺は息を吐き出し、鏡面から右手を離そうとした。
――その瞬間だった。
鏡面の金色の光がスッと引いていく中、最下段の余白に、ノイズのような乱れが走った。
ジジッ……。
周囲の魔導士たちは「鑑定の終了」として片付けを始めている。誰も気づいていない。
だが、俺の目には確かに見えた。
金色の文字が消え去る間際のわずか一瞬、最下段に、他とは明らかにフォントも色も異なる薄暗い赤紫色の文字列が、一行だけ浮かび上がったのだ。
EXT_UNAUTHORIZED_PERMISSIONS:
override_operator: "WORLD_BRANCH_OPERATOR"
state_projection_access: "UNBOUND"
residual_risk_monitor: "ENABLED"
(……っ!?)
先ほどの召喚直後の赤い警告と同じだ。
標準の勇者ロール(HERO_DEFAULT)には含まれていない、謎の超過権限。
未承認(UNAUTHORIZED)のオーバーライド・オペレーター。
文字は、俺が瞬きをした瞬間に、ノイズと共に銀の鏡面の奥深くへと溶けて消え去った。
「レン様?」
リナが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「やっぱり、まだお疲れが残っていらっしゃるのでは……? 大司教様、本日の儀式はこれで終了でしょうか? レン様をお休ませしたいのですが……」
「おお、そうであったな!」
大司教エルネストが上機嫌で頷いた。
「勇者殿、本日は教会の貴賓館にて旅の疲れを癒されよ。明日の朝、国王陛下への謁見と、正式な勇者叙任の式典を執り行う手筈となっておる。リナ神官、勇者殿を案内せよ」
「はい! レン様、行きましょう。温かいお茶と、お食事をご用意させますね」
「……ああ、ありがとう、リナさん」
俺はリナに手を引かれるようにして壇上を降りた。
大聖堂を出て貴賓館へと向かう道中、夕暮れの赤い光が石畳の回廊を長く染め上げていた。
リナは「本当にすごいです!」「明日の国王様への謁見もきっとうまくいきますよ!」と嬉しそうに語りかけてくれる。その横顔は無邪気で、これからの未来に何の疑いも抱いていないように見えた。
俺は隣で適槌を打ちながら、ポケットの中で自分の右手をぎゅっと握りしめた。
世界を救う勇者の力。
そして、誰も知らない最下段の未承認権限。
神様。
俺に与えられたこれは、本当にあんたが意図した『祝福』なんですか――?
夕闇が迫る王都の空を見上げながら、俺は拭いきれない疑念を静かに胸の奥へと沈めた。




