第18章 固定された敗北
天を裂くような重低音が、北境要塞都市ラーナの全域を揺るがした。
夜明け前、極寒の猛吹雪を切り裂いて飛来したのは、単なる魔獣の群れや投石弾ではなかった。 北方連合の全軍が一斉に解き放った、数千発に及ぶ高密度魔導砲撃の嵐。
紫黒色の光弾が雨あられと降り注ぎ、要塞の全方位を囲む白銀の雪原と巨石の防壁が、まるで白昼のように眩く青白く照らし出されていた。
「全防護結界、最大出力! 魔導炉のバイパスを全開にしろ! 一歩も退くな!」
中央司令塔の天端で、ガウェイン卿の怒号が響き渡る。
ラーナ本城を覆う巨大なドーム状の対魔防護結界――数百年もの間、王国の北方を守り続けてきた王立魔導院謹製の『絶対障壁』が、眩い白銀の光を放って砲撃の嵐を受け止めていた。
ズズズズズ……ッ!
何万トンもの破壊エネルギーが結界の表面で激突し、激しい火花となって夜空を焦がす。
衝撃波が市街地まで吹き抜け、石造りの民家の瓦がバラバラと音を立てて崩れ落ちていく。 だが、その堅牢無比を誇った防壁の真下に――音もなく、あの少女が降り立った。
足元まで届く輝く白銀の長い髪を、冷たい北風になびかせた元魔導院の特異魔導士・ミラ。
星晶石のティアラを戴いた彼女は、宙にふわりと浮遊したまま、吸い込まれそうなほど深い紫紺の瞳を、冷徹に結界の中枢基底へと向けた。
「無駄です。……どれほど強固な秩序であっても、崩壊した外部と結ばれればゼロへと還る」
ミラが両手の指先を宙で静かに交差させた。
「――『広域結合』」
パシィィィィンッ……!
その瞬間、世界から一切の音が消え去った。
要塞を覆っていた白銀の大結界の表面に、無数の青白い幾何学模様の亀裂が走る。
結界の安定状態が、外部の砲撃による崩壊エネルギーと強制的にポインタ直結され、一瞬にして全方位で位相が反転・相殺されたのだ。
ドォォォォォォンッ!!
「なっ……大結界が……一瞬で霧散した……!?」
ガウェインが絶叫した。
障壁を失った第一外壁と第二外壁に、数千頭の魔獣と北方重装歩兵の怒涛の津波が雪崩れ込んでくる。 頑丈な黒鉄の城門が内側から吹き飛び、ラーナの防衛網は一瞬にして崩壊の淵へと叩き落とされた。
***
「相馬蓮、リナ! 第三区画へ後退するぞ!」
燃え上がる市街地の瓦礫を蹴りながら、セラが長剣を振るって迫り来る魔獣を斬り伏せた。
深紅のマントにはすでに無数の煤と血がこびりつき、その翠眼には歴戦の武人すら呑まれかけるような焦燥が滲んでいた。
「くそっ……! 敵の数が多すぎる……!」
俺は左肩の包帯の痛みを堪えながら、聖剣イグニスを構えてセラの側背をカバーした。
路地裏から飛び出してきた鎧熊の足元の分子運動エネルギーをゼロへとドロップさせ、奪った熱波を炎刃に変えて薙ぎ払う。
だが、倒しても倒しても、後方から新たな敵の波が押し寄せてくる。
街中の至る所で建物が炎上し、黒煙が夜空を覆い尽くしていた。悲鳴と怒号が吹雪に混ざり合い、要塞全体が阿鼻叫喚の地獄と化している。
「レン様、怪我人が多すぎます……! あちらの路地にも、瓦礫に埋もれた市民たちが……!」
リナが悲痛な声を上げ、祈祷杖を握りしめて立ち止まりそうになる。
その法衣の裾は泥と灰で汚れ、琥珀色の瞳には涙が浮かんでいた。
「駄目だ、リナさん! 今は立ち止まれない! 本隊の合流地点まで走るんだ!」
俺はリナの手を強く引き、崩壊する大通りを駆け抜けた。
――その時、俺の脳内で、再び激しい走査線ノイズが走った。
――ビキビキッ……!
視界が、奇怪な多重露光へと切り替わる。
『Branch Perception(世界線分岐知覚)』の強制起動。
極限まで引き延ばされたスローモーションの世界の中で、俺の網膜に、無数の未来の半透明な映像が何重にも重なり合って展開された。
(前方の交差点……! 右から魔導兵の奇襲矢、左から崩壊する時計塔の瓦礫……!)
俺は必死に、生き残れる安全な経路を脳内で検索した。
昨日のように、生存確率がわずかでも残っている分岐を見つけ出し、空間の位相を干渉して引き寄せようとしたのだ。
だが――。
視界の右上に流れるシステムログを見て、俺の思考は凍りついた。
STATUS: SUPERPOSITION_RENDERING [PARALLEL_STREAM]
TOTAL_BRANCHES_SCANNED: 1,024
- COLLAPSE / FATAL: 1,023 (P = 0.9990)
- RETREAT_SUCCESS: 1 (P = 0.0010)
CRITICAL_WARNING: OBSERVATION_RIGIDITY_SATURATED (Cost > Capacity)
(……な、んだ……これ……は……!?)
千を超える未来の分岐映像のすべてが、黒い血と業火で染め上げられていた。
かつてIT現場で経験した、全系サーバーの同時ダウン――全スレッドが例外エラーで次々とクラッシュしていくカスケード障害の悪夢が、現実の物理空間として目の前で再生されていた。
右の道を選べば、伏兵の槍襖に阻まれて全員が串刺しになる。
左の道を選べば、崩落した時計塔の下敷きになって圧死する。
直進すれば、上空からのミラの広域魔法に呑み込まれて塵一つ残らず消滅する。
安全な生存経路の確率は、わずか0.1パーセント。
しかも、周囲にいる何千人もの兵士や敵の視線、そして戦場全体の巨大な物理的質量が、空間の可能性を力づくで押し潰し、ガチガチに硬直させていた。
冷徹な数式が、俺の脳髄を直接殴りつける。
[ Cost \propto -\ln(0.001) \times R_{obs} \times Complexity \rightarrow \infty ]
ゼロに近い低確率を、これほど巨大な観測密度の戦場で無理やり引き寄せるための代償は、もはや個人の生体魔力や聖剣のバッファで賄える限界を遥かに超えていた。
(ぐ……ぁぁぁぁっ……!!)
無理に確率を引き込もうとした瞬間、頭蓋骨の内側に焼き鏝を押し当てられたような激痛が走り、鼻からツーッと生温かい血が垂れ落ちた。
確率偏在の限界。
どれだけチート級の権限を持っていようと、世界全体が『敗北』へと向かって雪崩を打っている巨視的なデコヒーレンスの濁流の前には、一人の人間の干渉など小石一つ分すら届かないのだ。
***
「相馬蓮ッ!! しっかりしろ!」
膝をつきかけた俺の襟首を、セラが強引に引き上げた。
「セラ……俺……未来が……どの道を選んでも……全部ダメなんだ……!」
「馬鹿野郎、余計なことを考えるな! 目の前の敵だけを見て足を動かせ!」
セラの怒声が響く中、前方の炎の中から、血まみれの白銀甲冑を纏ったガウェイン率いる近衛騎士の残党が合流してきた。
「勇者殿! セラ殿! 無事か!」
「ガウェイン卿! 本隊の防衛線は!?」
「全滅だ……! 第一から第三までのすべての防衛区画が突破された! 中央司令部も炎上中だ!」
ガウェインは息を荒げ、大盾を構え直した。その額からは血が流れ、右腕の装甲はひしゃげていた。
「敵の狙いは、中央の聖具収蔵庫と、勇者殿たちだ! 南門への脱出路を確保した! お前たちだけでも、直ちにこの街を脱出しろ!」
「ガウェインさんはどうするんですか!?」
リナが叫ぶ。ガウェインは獰猛で、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「俺は北境の守備隊長だ。部下と市民を置き去りにして逃げる騎士がどこにいる! 俺がここで殿を務め、敵の進軍を食い止める! ……リナ神官、勇者殿を頼んだぞ!」
「ガウェインさんっ……!」
「行けぇぇぇぇッ!!」
ガウェインが数十名の騎士たちと共に反転し、迫り来る魔獣の軍勢へと突撃していった。
金属の激突音と咆哮が、炎の向こうへと消えていく。
「走るぞ! ガウェイン卿の覚悟を無駄にするな!」
セラが俺とリナの背中を押し、南門へと続く崩壊した目抜き通りへと飛び出した。
***
だが、世界の過酷さは、騎士たちの命懸けの覚悟すら嘲笑うように容赦がなかった。
南門の大通りへと辿り着いた瞬間、頭上から轟音と共に巨大な要塞の防壁が崩落した。
ズドォォォォンッ!!
瓦礫と巨石が何十メートルもの高さに積み上がり、唯一の脱出路であった南門は完全に埋没して塞がれてしまった。
「くそっ……! 退路まで潰されたか……!」
セラが歯噛みする。
背後からは、銀髪の少女ミラが率いる特異魔導部隊の冷たい足音が、確実に近づいてきていた。
前後を瓦礫と敵に挟まれた完全な袋小路。
「あっちだ! 崩れかけた礼拝堂の地下通路がある!」
セラの指示で、俺たちは通り沿いに建つ半壊した教会の礼拝堂へと飛び込み、重い樫の扉を閉ざして閂を下ろした。
ステンドグラスが粉々に割れた礼拝堂の中には、冷たい北風と灰が吹き込んでいた。
外からは、爆発音と兵士たちの悲鳴、そして街を焼き尽くす炎の爆ぜる音が絶え間なく響いてくる。
「……はぁっ……はぁっ……」
俺は壁に背を預けてへたり込み、激しい頭痛と耳鳴りに呻いた。
鼻血を手の甲で拭うが、手の震えが止まらない。
「レン様……! レン様、お顔が真っ青です……!」
リナが駆け寄り、震える両手で俺の頬を包み込んだ。
その手のひらは冷たかったが、触れられた皮膚の奥から、必死の温もりが伝わってくる。
「リナさん……俺……何も防げなかった……。ガウェインさんも、街の人たちも……」
「そんなことありません! レン様は、ここまで私を守って連れてきてくださいました……!」
リナは涙をボロボロとこぼしながら、自らの額を俺の額へとそっと押し当てた。
「『小光球・静穏の環』……神様、どうかレン様の痛みをお取りください……」
微弱な鎮静光が、過熱した俺の脳神経を優しく包み込む。
宿舎で淹れてくれたあの温かいカファ・アプルの香り。窓辺で交わした日本の街を案内するという約束。
その温かい日常の記憶が、この極限の絶望の中で、あまりにも切なく鮮烈に胸を締め付ける。
だが、そのリナの祈祷杖を握る細い指先は、今までに見たことがないほど激しく震えていた。
「……相馬蓮、リナ」
扉の隙間から外の様子を伺っていたセラが、低く、押し殺した声で告げた。
「敵の包囲網が、この礼拝堂を完全に囲んだ。……来るぞ」
ドォォォンッ!!
樫の木の頑丈な扉が、外側からの凄まじい衝撃によって大きくひしゃげ、木屑を撒き散らした。
ステンドグラスの破片が床に散らばる中、紫黒色の魔力の光が、礼拝堂の闇を不気味に照らし出す。
逃げ場のない檻の中。
運命の歯車が、後戻りのできない最悪の結末へと向かって、狂ったように加速を始めていた。




