第17章 城壁の外側
北境要塞都市ラーナの頑丈な北門をくぐり抜けると、そこには見渡す限りの白銀の荒野が広がっていた。
城壁の内側に充満していた熱気や篝火の煤煙は一瞬で消え去り、吹き荒れる極寒の北風が容赦なく肌を刺す。
俺とセラ、そしてリナの三人は、昨日の攻城戦で撤退した北方斥候部隊の足跡を追うため、城外数キロに広がる樹氷林の奥へと足を踏み入れていた。
「相馬蓮、検知計の様子はどうだ?」
先頭を歩くセラが、深く積もった雪を踏みしめながら振り返った。
深紅のマントの襟を立て、吐く息を真っ白に染めながら周囲の険しい雪渓に油断なく視線を配っている。
「城壁から離れるにつれて、針がぐんぐん落ちてるよ。いま目盛りの二割程度だ。……やっぱり、あの要塞都市の城壁そのものが、無数の兵士の視線と結界を束ねた巨大な観測アンカー(現実固定装置)だったんだな」
俺は胸ポケットから取り出した真鍮製のエントロピー検知計を見つめながら応えた。
人の目と軍事結界が密集する城壁内から離れたこの荒野では、空間の可能性の余地が大きく広がり、魔法の干渉コストが劇的に下がっているのを肌で感じる。
空気中の分子の熱揺らぎが、まるで触れれば波紋を広げる水面のように柔らかい。制限の多い本番環境から、制約のない広大なテスト環境へと足を踏み入れたような感覚だった。
「気をつけろよ。観測密度が低いってことは、敵の伏兵や魔獣がどんな規格外の術を仕掛けてきてもおかしくないってことだ。王都の常識で物理法則を計算してると足元をすくわれるぞ」
「はい……足元に気をつけて進みます」
セラの忠告に、リナが旅用マントをぎゅっと握り直しながら頷いた。
淡い亜麻色の髪を北風に揺らしながら、雪に埋もれた倒木を慎重に乗り越えていく。その手には、いつも通り使い込まれた木製の祈祷杖がしっかりと握られていた。
斥候部隊の足跡は、樹氷林を抜けた先にある、切り立った岩山の断崖へと続いていた。
そこには、数十年前まで使われていたとおぼしき、古い銀鉱山の廃坑の入り口がぽっかりと黒い口を開けていた。
「……足跡は中に入っているな」
セラが腰の長剣の柄に手をかけ、気配を殺して岩壁に身を寄せた。
「奇襲の気配はないが、奥に微かな熱源と人の気配がある。相馬蓮、リナ、私の背後に続け」
***
薄暗い坑道を進むと、冷え切った空気の奥から、微かな煙の匂いと、低い人の話し声が漂ってきた。
俺たちが目にしたのは――要塞を脅かす凶悪な魔導兵たちの前線基地などではなかった。
そこにあったのは、冷たい岩肌に囲まれた広場に、粗末な天幕と擦り切れた毛布を敷き詰めて肩を寄せ合う、数十名の人々の姿だった。
「……え……?」
リナが小さく息を呑んだ。
角や獣の耳を持つ異種族の者たちもいれば、薄汚れた麻布を纏った人間の老人や幼い子供たちの姿もある。
誰もが凍傷で赤黒く腫れ上がった手を小さな焚き火にかざし、粗末な木椀に注がれた薄い干し草と根菜のスープを、分け合うようにしてすすっていた。
子供たちの頬は痩せこけ、寒さと飢えに震えながら母親の胸に必死ですがりついている。
「ひっ……! き、騎士だ……! 王国の討伐隊が来たぞ……!」
俺たちの姿を認めた瞬間、粗末な槍や錆びた短剣を手にした数名の男たちが、悲鳴のような声を上げて子供たちの前に立ち塞がった。その手は恐怖で激しく震えていた。
「待ってください! 私たちは戦いに来たわけではありません!」
セラが長剣を抜くよりも早く、リナが一歩前へと進み出た。
木製の祈祷杖を両手で下ろし、敵意がないことを示すように胸の前に掲げる。
「リナさん、無茶だ!」
俺が咄嗟に制止しようとしたが、リナの澄んだ琥珀色の瞳は少しも揺らいでいなかった。
「皆さん、怪我をなさっています……! 争うつもりはありません、どうか落ち着いてください……!」
リナの真摯で澄み切った声に、男たちの殺気が微かに揺らいだ。
その時、天幕の奥から、苦しげな少年の呻き声が響いた。
「う……あぁっ……痛いよ……母さん……っ!」
見れば、毛布の上に横たわった十歳ほどの少年が、崩落した岩に挟まれたのか、右脚を不自然な角度に曲げて激しく出血していた。昨日の第三外壁の戦闘で、伝令を務めていた斥候の少年だった。
「待って……! 今、手当てをします!」
リナは男たちの警戒の視線も構わず、泥と氷で濡れた地面に躊躇なく膝をつき、少年の枕元へと駆け寄った。
「な、何を……聖環教会の神官が、俺たちの子供に何の用だ……!」
母親とおぼしき女性が怯えながら叫ぶが、リナは穏やかに微笑みかけた。
「大丈夫です。痛いところを、少しだけ温めますね。……『小光球・治癒の祈り』」
リナの祈祷杖から、柔らかな陽だまりのような金色の光が溢れ出し、少年の折れた脚を包み込んだ。 激しい出血がピタリと止まり、砕けた骨が正しい位置へと引き寄せられていく。
だが、リナの下級治癒魔法だけでは骨の完全な癒合までは届かない。リナは手際よく法衣の予備布を裂き、木の枝を削った添え木を当てて、しっかりと包帯で固定した。
「あ……っ、痛みが……消えていく……?」
少年の顔から苦悶の脂汗が引き、荒い息が穏やかな寝息へと変わった。
「……これで大丈夫です。骨が完全にくっつくまで、数日間は脚を動かさないようにしてあげてくださいね」
リナが額の汗を拭いながら微笑むと、母親は呆然と少年の脚を見つめ、やがて大粒の涙をポロポロとこぼしながら地面に額を擦り付けた。
「あ、ありがとうございます……! 神官様……ありがとうございます……!」
***
リナの分け隔てない行動によって、集落を包んでいた刺すような警戒感は、静かに氷解していった。
住民たちは粗末な木製の腰掛けを差し出してくれ、焚き火で沸かした野草の温かい白湯を振る舞ってくれた。
セラは壁に寄りかかり、腕を組んだまま静かに周囲を観察している。
「……中央の人間が、魔族や北方の民を助けてくれるなんて、夢にも思わなかったよ」
白髪の老人が、皺だらけの手でカップを握りしめながら、かすれた声で呟いた。
「私たちは、王都では『魔王軍の残党』と呼ばれて恐れられています。……でも、私たちはただ、この極寒の大地で細々と暮らしてきた開拓民の生き残りに過ぎないんです」
「……どうして、こんな過酷な廃坑に隠れ住んでいるんですか?」
俺が尋ねると、老人は悲しげに目を伏せ、遠い虚空を見つめた。
「かつて……ここから北に三十里の場所に、『ヴェルダ』という豊かな穀倉都市がありました。十万人もの人々が暮らし、笑い合っていた私たちの故郷です。朝になればパンの焼ける香ばしい匂いが漂い、子供たちが石畳を駆け回っていた……」
老人の声が震えた。
「だが、ある日突然、空が音もなく白く明滅したかと思うと……街も、田畑も、そこで暮らしていた何万人もの家族も、丸ごとこの世から消え去ってしまったのです。爆撃も、炎もありませんでした。ただ、ある瞬間に『最初からそんな街など存在しなかった』かのように、跡形もなく氷の荒野へと書き換えられてしまった」
「街が……丸ごと……?」
俺の背筋に、冷たい悪寒が走った。
「ええ。生き残ったのは、たまたま山へ狩りに出ていた私たち一握りだけ。王都の教会に助けを求めに行っても、『そんな街の記録は聖録のどこにも存在しない。妄言を吐くな』と門前払いを食らいました。自分たちが生きてきた歴史そのものを、奪われたのです」
老人の枯れた瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
「ミラ様は……おっしゃいました。王都の神と教会が、自分たちの世界の都合の良い歴史を保つために、私たちの街の存在確率をゼロにして切り捨てたのだと。……『剪定』されたのだと」
(ガベージコレクション……)
俺の脳裏に、IT現場で使われる残酷なシステム用語が浮かんだ。
メモリが逼迫した時、システム全体の稼働を維持するために、優先度の低いプロセスやデータを強制終了させてリソースを回収する。
中央の世界線を維持するために、容量の余地)を確保するために、神という名の管理システムは、北方の歴史と何十万人もの人々の命を、ただの『不要なメモリ領域』として消去してきたのだ。
「……相馬蓮」
セラの低く重い声が、俺の耳元に届いた。
翠眼の奥に、武人としての深い苦悩と諦念が宿っていた。
「これが……王都の聖典が決して語らない、この世界の裏側の真実だ。王立魔導院の極秘記録にも、過去に何度も発生した『原因不明の都市消失事象』の記録が残されている。中央の神は、完璧な世界線を維持するために、都合の悪い歴史や余分な可能性を、こうして定期的に切り落としてきたのさ」
***
集落の人々に予備の干し肉と傷薬、そして清潔な包帯を分け与え、俺たちは夕暮れの雪原をラーナ要塞へと引き返していた。
地平線の向こうに、二つの月――金色の月と蒼い月が寄り添うように淡い光を放ち始めている。
前方にそびえ立つラーナの黒鉄の巨壁は、夕闇の影を濃く落とし、まるで世界を二つに切り裂く巨大な檻のように見えた。
「……レン様」
隣を歩くリナが、震える声で俺のスーツの袖をそっと引いた。
その琥珀色の瞳には、隠しきれない困惑と痛みが揺れていた。
「私……教会でずっと教わってきたんです。神様はすべての命を等しく愛してくださっていて、勇者様は世界を救うために現れる希望の光なのだと。……でも、もしあのお爺さんのお話が本当なら……私たちは、一体誰のために戦っているのでしょうか……? 私たちは……誰かを切り捨てる側の尖兵として、ここにいるのでしょうか……?」
教会の下級神官として、信じ、生きてきた世界の基盤が音を立てて崩れ去っていく。
そのリナの悲痛な問いかけに、俺はすぐには言葉を返すことができなかった。
「……リナ」
前を歩いていたセラが立ち止まり、静かに振り返った。
「戦場において、どちらが正しいかなんて問いに答えはない。誰もが自分の生き残りのために剣を振るっているだけだ。……だがな、あいつらが切り捨てられた歴史を背負って戦っているのと同じように、ラーナの城壁の中にいる兵士たちや市民にも、守るべき日常と家族がある。どちらかを悪魔と決めつけないことだけが、私たち武人にできる唯一の敬意だ」
「セラさん……」
セラはそう短く告げると、再び前を向いて雪を踏みしめ歩き出した。
俺は立ち止まり、リナの冷え切った両手をそっと包み込んだ。
リナの指先は氷のように冷たかったが、その奥には、少年を必死に手当てした確かな温もりが宿っていた。
「リナさん。神や教会の思惑がどうであれ……さっきリナさんが少年の脚を治したのは、間違いなく目の前の一つの命を救う正しい行いだったよ」
「レン様……」
「システムがどれだけ歪んでいようと、俺たちが目の前で触れ合って、温かいと感じた心まで嘘になるわけじゃない。……俺は、この世界の真実を全部見届けるよ。そして、誰も切り捨てられない方法を、必ず見つけ出す」
神が作った残酷なガベージコレクションの檻。
なら、エンジニアとしての俺がやるべきことは一つだけだ。
システムの構造を暴き、リソースの制約を突破し、誰も剪定されない新しいアーキテクチャを構築すること。
俺の言葉に、リナは大きな瞳から一粒の涙をこぼし、ぎゅっと俺の手を握り返してくれた。
「……はい。私も、レン様と一緒に行きます。どこまでも……信じてついていきます」
吹き荒れる北風の中、二つの月が凍てつく雪原を青白く照らし出していた。
城壁の内側の正義と、城壁の外側の正義。 切り捨てる側と、切り捨てられる側。
その残酷な世界の境界線の上で、俺たちは互いの手の温もりだけを道標に、次なる決戦の地へと足を踏み出していた。




