第16章 まだ死んでいない可能性
ズドォォォォンッ!!
大気を激しく震わせる重低音と共に、北境要塞都市ラーナの第三外壁が軋むような悲鳴を上げた。 吹き荒れる極寒の吹雪の中、空を覆い尽くすほどの黒い矢の雨と、攻城用の巨大な氷塊が城壁の天端へと容赦なく降り注いでくる。
「頭を下げろ! 防空結界、出力を落とすな! 支えきれ!」
白銀の甲冑に身を包んだガウェイン卿の怒号が、猛吹雪の風の音を切り裂いて木霊する。
近衛騎士たちが分厚い白銀の大盾を隙間なく頭上にかざし、降り注ぐ矢の雨と氷の破片を火花と共に弾き返していた。
昨日のミラとの前哨戦から、わずか半日。
白霜砦を前進拠点とした北方連合の主力攻城軍が、ついにラーナ本城の外郭へと総攻撃を仕掛けてきたのだ。
城壁の上から見下ろす雪原の彼方には、数千頭に及ぶ北方魔獣の群れと、黒鉄の鎧に身を固めた異種族の重装歩兵部隊が、大地を埋め尽くす黒い津波となって押し寄せていた。
「相馬蓮! 左翼の崩落箇所に敵の突撃兵が取り付いた! 押し戻すぞ!」
城壁の狭い通路を疾走しながら、セラが叫ぶ。
燃えるような鮮烈な赤髪を高い位置でポニーテールに束ね、深紅のマントを北風にはためかせながら、腰の無骨な長剣を一気に抜き放った。
「了解だ!」
俺はスーツの左肩に巻かれた清潔な包帯の疼きを抑えながら、聖剣イグニスの柄を強く握りしめてセラの背を追った。
昨日ミラから受けた『結ばれた傷』は、リナの懸命な止血と応急手当のおかげで激痛こそ治まっていたものの、まだ腕を大きく振るうと奥の筋肉が引き攣るような鈍い痛みが走る。
だが、痛みに顔をしかめている暇など一秒もなかった。
防空バリスタの砲撃で崩落した城壁の隙間から、体長四メートルを超える巨躯の鎧熊二頭と、長槍を構えた北方兵たちが雪崩れ込んできていたのだ。
「『静定領域』――展開!」
セラの鋭い一喝と共に、カチリと空間が噛み合う音が響いた。
セラの周囲数メートルの空間において、空気の対流も、鎧熊が吐き出す凍結ブレスの揺らぎも、すべてが強制的に単一の物理状態へと固定される。
猛突進していた巨熊が不可視の壁に激突したように空中で静止した瞬間、セラの研ぎ澄まされた刃がその分厚い首元を正確無比に刎ね飛ばした。
俺も即座に右手を前に突き出し、後続の突撃兵たちの足元へ意識を集中させた。
(足元の分子運動エネルギーをゼロへドロップ――局所相転移、実行)
パキパキッ、と乾いた音を立てて敵の足場が一瞬で摩擦係数ゼロの鏡面氷へと冷却される。
突進の慣性を殺しきれずに体勢を崩して滑走した敵兵たちに対し、足元から奪い去った熱エネルギーを聖剣の刀身へ即座に転送(Zero-Amplitude循環)し、最小限の炎波で武装だけを焼き払って無力化する。
「や、やった……! 敵の突撃路を塞ぎました……!」
後方の防壁の陰で負傷兵の応急手当を行っていたリナが、祈祷杖をぎゅっと抱きしめながら歓声を上げた。
ガウェイン率いる近衛隊の堅牢な盾の壁、セラの静定剣技、そして俺の確率熱干渉。
前衛の突破口は完全に塞がれ、戦況はこちらの防衛ペースへと落ち着き始めたかに見えた。
――だが、その時だった。
ヒュンッ……!
猛吹雪が吹き荒れる視界の遥か彼方――敵の後方本陣から、大気を切り裂く異様な風切り音が響いた。 鋼鉄をも容易く貫く超高密度の風魔法を纏った、漆黒の魔導狙撃矢。
音速を超えて飛来したその矢は、乱戦の中で背後を晒し、部隊に撤退指示を出していたガウェインの無防備な首筋を、正確無比に捉えていた。
(しまっ――ガウェインさん……!)
警告の叫びを上げようとした、まさにその瞬間だった。
――ガガッ……!
頭蓋骨の奥深くで、何かの回線が急激にショートしたかのような、激しい走査線ノイズが走った。
***
視界が、奇怪な歪みを起こした。
周囲の時間が極限まで引き延ばされ、舞い散る粉雪の結晶一つひとつが空中で静止して見えるほどの、超スローモーションの世界。
だが、単なる体感時間の加速ではなかった。
俺の網膜に――二つの完全に異なる光景が、半透明の多重露光のように重なり合って映し出されていたのだ。
一つ目の像。
黒い狙撃矢がガウェインの無防備な首元に深々と突き刺さり、白銀の甲冑の隙間から大量の鮮血が噴き出し、彼が声も出せずに城壁の上へと力なく倒れ伏す――『死の結末』。
そして、その像にピッタリと重なるようにして映る、もう一つの像。
ガウェインが寸前で右腕の小盾を跳ね上げ、火花を散らして矢の軌道を逸らし、首筋に掠り傷一つ負わずに生き残る――『生存の結末』。
(……え……? な、んだ……これ……?)
二つの未来が、等しい質感と色彩を持って、同時に目の前に存在している。
どちらの像も幻覚ではない。確定する直前の空間において、両方の物理的結果が、並行するデータストリームとして俺の視覚バッファへと直接送り込まれていた。
視界の右上に、青白いシステムログが猛烈な勢いでスクロールする。
STATUS: SUPERPOSITION_RENDERING [ACTIVE]
BRANCH_PERCEPTION: DETECTED (DUAL_STREAM)
- PATH_A [COLLAPSE: FATAL] P = 0.72
- PATH_B [SURVIVAL: DEFLECTED] P = 0.28
死の確率が七十二パーセント。生存の確率は、わずか二十八パーセント。
このまま何もしなければ、圧倒的な確率の重みによって、世界は冷酷に『死の結末』へと確定してしまう。
(まだ……死んでいない……!)
俺の脳が、限界を超えて唸りを上げた。
まだ観測が確定していないのなら。
二つの可能性が重ね合わさっているこの狭間に、俺が介入できる余地が残されているのなら――!
(PATH_B――生存の経路へ、空間の位相を強制干渉!)
俺は聖剣を構えたまま、ガウェインの右腕の小盾の表面の空間へ、極小の熱膨張パルスを叩き込んだ。 ほんの数ミリ秒、盾の周囲の空気密度を急激に歪ませ、盾の迎撃軌道を矢の突入角へと確率的に引き寄せる。
キィィィィンッ!!
鼓膜を劈くような硬質な金属音が城壁の上に響き渡った。
半透明に二重化していた視界が、カチリと一つに収束した。
黒い魔導矢はガウェインの小盾の縁を激しく弾き、火花を撒き散らしながら遥か上空の雪雲の中へと跳ね飛ばされていた。
「ぐっ……!? な、なんだ……今のは……!?」
ガウェインが自らの小盾を見つめ、驚愕に目を見開いた。
首筋には血の一滴も流れていない。完全な無傷だった。
「ガウェイン卿、伏せて! 第二波が来ます!」
セラの鋭い叫び声で、ガウェインは我に返り、大盾を構えて防衛線へと復帰した。
「……はぁっ……はぁっ……!」
俺はその場に膝をつきそうになり、聖剣の刀身を石畳に突き立てて身体を支えた。
頭蓋骨の内側が焼け付くように熱い。脳のメモリを限界までオーバークロックさせた後のような、強烈な目眩と吐き気が襲いかかってきていた。
(今……俺は……何を見た……?)
矢が刺さって死ぬガウェインと、弾いて生き延びるガウェイン。
単なる直感や予測ではない。 確かに、俺のこの目で、確定する前の二つの世界線の分岐を同時に『視認』したのだ。
***
激闘が続くこと数時間。
近衛部隊の決死の防衛と、城壁からの投石迎撃により、北方連合の攻城部隊はようやく後方へと撤退を開始した。
粉雪が舞う城壁の上には、無数の矢殻と煤が積もり、兵士たちの荒い息遣いだけが響いていた。
「……敵軍、後退していきます! 第三外壁、防衛成功です!」
斥候の報告に、兵士たちから安堵の溜息と歓声が漏れる。
「ふう……なんとか凌ぎ切ったな」
セラが血のついた長剣を鞘に納め、肩を回しながら歩み寄ってきた。その翠眼が、獲物を見定めるように俺をじっと見つめている。
「相馬蓮、さっきのガウェインへの援護……神がかり的だったぞ。あの位置から、あの死角の狙撃に反応できるなんて、お前本当に目が後ろにもついてるんじゃないか? まるで、矢が当たる未来を最初から知っていたみたいだったぞ」
「……いや、運が良かっただけだよ。風の音が聞こえたから、勘で盾の近くの空気を弾いただけさ」
俺は苦笑いを作って誤魔化したが、手のひらには冷たい汗がびっしりと滲んでいた。
「レン様ッ!」
救護所から、リナが白い法衣の裾を翻して駆け寄ってきた。
琥珀色の瞳を潤ませ、俺の身体に新たな傷がないかを必死に確かめる。
「ご無事でしたか……! 遠くから見ていて、本当に生きた心地がしませんでした……!」
「大丈夫だよ、リナさん。左肩の包帯も崩れてないし、怪我はないよ」
「……良かったです……本当に……」
リナは胸を撫で下ろし、その場でへたり込むように小さく息を吐いた。
***
夕暮れ時。
戦闘を終えた俺たちは、宿舎の居間へと戻っていた。
暖炉の薪がパチパチと爆ぜ、部屋の中に温かな橙色の光を投げかけている。
俺はテーブルの椅子に深く腰掛け、無意識に右手の指先で右のこめかみをトントンと叩いていた。
トス、と背後から優しい足音が近づいてくる。
「……レン様。また、頭を酷使していらっしゃいますね」
ふわりと、リナの白くて温かい指先が、俺のこめかみにそっと添えられた。
「『小光球・静穏の環』……」
リナの柔らかな祈祷と共に、温かいぬくもりが神経の熱を優しく解きほぐしていく。
頭の奥でジリジリと鳴っていたノイズが、すーっと静まり返っていった。
「……ありがとう、リナさん。いつも助かるよ」
「ふふ、お役に立てて嬉しいです。はい、こちらもどうぞ」
リナが木製のカップを差し出してくれた。
乾燥林檎の甘酸っぱい香りが漂う、淹れたての『カファ・アプル』だ。 温かいカファを一口啜ると、身体の芯に残っていた冷気と緊張感が、心地よく溶けていった。
俺はカップを持ったまま、胸ポケットから真鍮製のエントロピー検知計を取り出し、机の上に置いた。 硝子窓の奥で、指針が静かに揺れている。
(……あの時、俺が見たもの)
死ぬ未来と、生きる未来の重なり合い。
それは、オルドが言っていた『可能性の余地』であり、教会の聖鏡の最下段に刻まれていた権限――『WORLD_BRANCH_OPERATOR』の力そのものだったのではないか。
(俺の知覚は……世界線そのものの分岐を直接捉え始めている……)
まだ確定していない未来なら、観測と干渉によって、生きている側を選び取ることができる。
それはあまりにも強大で、神にも等しい力だ。
だが――。
(もし、どちらの分岐を選んでも死を避けられない瞬間が来たら……?)
(もし、生き残る確率が完全にゼロ(Zero-Amplitude)になってしまったら……?)
窓の外を見上げると、二つの月が冷たく夜空に浮かんでいた。
手元のカファの温もりと、隣で微笑むリナの姿を見つめながら、俺の胸の奥には、得体の知れない冷たい予感が静かに影を落としていた。




