第15章 結ばれた傷
早朝、北境要塞都市ラーナの空を切り裂くように、けたたましい警報の鐘が乱打された。
白霜砦を前進拠点とした北方連合の侵攻部隊が、ラーナ南西の防衛ライン『霧氷の峡谷』へと雪崩れ込んできたのだ。
宿舎を飛び出した俺たちは、ガウェイン卿率いる近衛部隊、そしてセラの静定騎士隊と共に、極寒の吹雪が吹き荒れる峡谷へと緊急出撃した。
切り立った白銀の断崖に挟まれた隘路には、すでに無数の魔獣の死骸と折れた槍が散乱し、凍結した大地が赤黒い鮮血で染め上げられていた。
「前衛、盾の壁を崩すな! 氷狼の突進を押し返せ!」
ガウェインの怒号が吹き荒れる風に木霊する。
白銀のフルプレートアーマーを纏った近衛騎士たちが分厚い大盾を並べ、突進してくる霜牙狼の群れを力づくで食い止めていた。
「相馬蓮、右翼の魔導兵を潰すぞ!」
セラが愛馬から飛び降り、深紅のマントを翻して氷上を疾走する。
腰の長剣を一気に抜き放ち、不可視の波動を刀身に纏わせた。
「『静定領域』――展開!」
カチリ、と空間の噛み合う音が響き、セラの周囲で空気の対流も魔獣の吐き出す冷気ブレスも強制的に単一状態へと固定される。
動きを封じられた三頭の魔獣を、セラの長剣が瞬時に両断した。
「了解だ!」
俺もスーツの上から佩いた『灼熱の聖剣イグニス』を引き抜き、右翼から回り込もうとしていた北方術士たちの足元へ意識を集中させた。
(足元の分子運動エネルギーをゼロへドロップ――局所相転移)
パキパキッ、と音を立てて敵の足場が一瞬で摩擦係数ゼロの鏡面氷へと変化する。
体勢を崩して滑走した術士たちに対し、奪った熱エネルギーを聖剣へ即座に転送(Zero-Amplitude循環)し、最小限の炎波で武装を焼き払って無力化する。
「や、やった……! 敵の前衛が崩れていきます……!」
後方で負傷兵の止血を行っていたリナが、祈祷杖を抱えながら歓声を上げた。
近衛隊の堅牢な盾と、セラの静定、そして俺の確率熱干渉。
前衛の魔獣部隊はほぼ壊滅し、戦況はこちらの完全な優勢に傾いたかに見えた。
――だが、その時だった。
サァッ……と、峡谷を吹き抜けていた激しい風が、不自然なほどピタリと止んだ。
立ち込めていた粉雪の靄が、まるで何かの意思によって押し開かれるように静かに左右へと割れていく。 凍てつく氷の道の向こうから、一人の人影が、音もなく歩み出てきた。
***
「……っ! 全員、止まれ!」
セラの鋭い警告に、前進しかけていた騎士たちがピタリと足を止めた。
俺も胸ポケットのエントロピー検知計に目をやる。
ガラス窓の奥で、真鍮の針が狂ったように小刻みに振動し、文字盤の星晶石が今まで見たこともない不気味な赤紫色の明滅を繰り返していた。
現れたのは――まだ少女と言っていい年頃の、小柄で華奢な人影だった。
足元まで届く輝く白銀のストレートロングが、冷たい空気の中に静かに広がっている。
陶器のように白い肌に、星晶石のティアラ。濃紺と銀糸で刺繍された豪奢な儀礼用ローブを身にまとい、その顔には一切の感情の起伏がない。
そして何より――彼女の双眸は、底知れぬ深淵を湛えた、吸い込まれそうなほど澄み切った紫紺の瞳だった。
「……出たな。元魔導院の特異魔導士――ミラ」
セラが長剣を構え直し、油断なく切っ先を少女へと向ける。
少女――ミラは、セラの切っ先にも、五十名もの近衛騎士たちの殺気にも、一切の動揺を見せなかった。 ただ静かに、紫紺の瞳をこちらへと向け、俺の姿を捉えた。
「……あなたが、異界から召喚された勇者」
鈴を転がすような、冷たく澄んだ声だった。
その声には敵意も憎悪もなく、ただ淡々と観測データを読み上げるような不気味な平坦さがあった。
「お前の狙いは何だ、ミラ! なぜ王立魔導院を捨て、北方連合などについた!」
ガウェインの一喝にも、ミラは眉一つ動かさない。
「狙いなど、初めから一つしかありません。……この世界線を維持するために切り捨てられた私たちの故郷を、あるべき形へと奪還すること」
「何を言っている……!?」
ガウェインが困惑の声を上げる中、セラが地を蹴った。
「問答無用だ! 結界破りの魔導士を生かして帰すわけにはいかない!」
セラの研ぎ澄まされた刃が、空気を切り裂いてミラの首元へと迫る。
同時に、セラの周囲数メートルに『静定領域』が展開され、ミラの魔力発動プロセスを強制終了させようとする。
だが――。
スッ、とミラが右手の指先を宙で軽く絡め合わせた。
「――『結合』」
パリンッ!
まるで空間のガラスが砕け散るような澄んだ破砕音が響いた。
セラの絶対的な現実固定(静定領域)が、ミラの身体に触れる直前、何もない虚空へと完全に受け流され、霧散したのだ。
「なっ……静定が……通らない……!?」
セラが驚愕に目を見開く。
ミラの背後から、青白い不可視の光の糸が幾重にも伸び、セラの剣撃のエネルギーを、遥か後方の氷壁へと直結させていた。
ズドオォォンッ!
と後方の氷壁が突如として爆砕する。
(状態の直結……! セラの攻撃ベクトルを、遠隔の空間と共有メモリみたいに同期させて逃がしたのか……!?)
俺の背筋に冷たい汗が伝った。
「相馬蓮、挟み撃ちにするぞ!」
体勢を立て直したセラが叫ぶ。
俺は即座に聖剣を構え、ミラの死角である左側面へと疾走した。
***
雪氷の大地を蹴り、一気に間合いを詰める。
ミラはこちらを一瞥するが、防御障壁を展開する気配はない。
(速攻で無力化する……! 急所は外す、肩の筋肉を断ち切って杖の操作を封じる!)
俺は聖剣イグニスの刀身に最小限の熱干渉を纏わせ、ミラの左肩を狙って鋭く一閃を放った。
ザシュッ!
確かな手応え。
聖剣の紅蓮の切っ先が、ミラの濃紺のローブを切り裂き、その左肩の白い肌に一筋の浅い裂傷を刻んだ。
鮮血がふわりと宙に舞う。
「よし――」
手応えを感じて一歩引こうとした、その瞬間だった。
――ビキィッ……!
頭の奥で、何かの回線が強制的に物理接続されたような、激しいノイズが走った。
「が……っ!?」
突然、俺自身の左肩に、焼けるような激痛が走った。
ドッと、スーツの左肩が内側から裂け、鮮血が噴き出す。
ミラの肩に刻まれたのと全く同じ深さ、全く同じ長さの切り傷が、何もないはずの俺の肉体に突如として出現していた。
「な……んだ……これ……は……!?」
激痛と出血に、俺は雪の上に片膝を突いた。
視界の右上に、真っ赤なエラー警告が猛烈な勢いでポップアップする。
CRITICAL_ALERT: FORCED_STATE_BINDING_DETECTED
ENTANGLEMENT_PAIR: [CHR-REN <-> CHR-MIRA]
STATUS_SYNC: DAMAGE_VECTOR_SHARED (100%)
「レン様ッ!!」
後方にいたリナが悲鳴を上げ、泥と雪を蹴って俺のもとへと駆け寄ってきた。
「レン様! どうして……なぜレン様が血を……!?」
リナの手が震え、必死に俺の左肩を押さえる。
だが、俺の肩の傷口からはドクドクと血が溢れ出し、リナの白い法衣の袖を赤く染めていく。
「リナさん……来るな……っ! これは……」
俺は痛みに呻きながら、目の前に立つ銀髪の少女を見上げた。
ミラは、自分の左肩から流れる血を指先でそっと拭い、無機質な紫紺の瞳で俺を見下ろしていた。
「無駄です。私の身体に与えられた物理状態は、結合されたあなたの肉体へと完全に同期します。……私を殺せば、あなたも死ぬ」
「双方向……バインディング……か……」
俺は脂汗を流しながら歯を食いしばった。
攻撃した側の状態と、攻撃された側の状態をポインタで直結し、被弾データをリアルタイムでミラーリングする。
これでは、彼女を攻撃すること自体が自害と同義になってしまう。
「貴様ッ……!」
セラが激昂して長剣を振り上げようとしたが、俺は右手で制した。
「待て……セラ! 斬るな……! お前が彼女を斬ったら……俺が真っ二つになる……!」
「くそっ……! なんて悪辣な術を使いやがる……!」
セラは悔しげに切っ先を止め、ギリリと奥歯を噛み締めた。
***
吹雪の舞う静寂の中、ミラは静かに一歩、俺へと歩み寄った。
「悪辣……ですか」
ミラの紫紺の瞳の奥に、初めて微かな、凍てつくような光が灯った。
「お前たちが信じる神や聖環教会は……自分たちの都合の良い世界線を維持するためだけに、私たちの生きる可能性を、歴史ごと何度も切り捨ててきた。……何百万人もの命を、何事もなかったかのように『剪定』して消し去った」
「……剪定……?」
俺は息を呑んだ。 かつて教会の深層収蔵庫で見た『星界の羅針』の警告ログ。 世界線の容量飽和。そして、オルドが語っていたシステムの歪み。
「私たちは、化け物でも悪魔でもありません。……ただ、切り捨てられた自分たちの世界を取り戻し、生き残るために戦っているだけ。……英雄気取りの異界の勇者、あなたに私たちの存在を否定する権利など、どこにもない」
ミラの言葉は、冷たく、けれど重く、俺の胸の奥深くに突き刺さった。
単なる悪党の捨て台詞ではない。
この世界というシステムの中で、切り捨てられ、踏みにじられてきた者たちの、切実で正当な生存の叫びだった。
「……今日は、ここまでにします」
ミラは左肩に手を当て、静かに身を引いた。
「傷は、時間が経てば自然に結合が解けます。……相馬蓮。次に会う時は、ラーナの本城です。あなたが本当に世界を救う者なのか、それとも神の都合の良い操り人形に過ぎないのか……見極めさせてもらいます」
ミラがふわりとローブを翻すと、その姿は青白い光の粒となって、吹雪の向こうへと掻き消えていった。
***
「……レン様! しっかりしてください……! 『小光球・治癒の祈り』!」
ミラが消えた瞬間、リナの祈祷杖から溢れ出た柔らかな光が、俺の左肩を包み込んだ。
結合のリンクが薄れたことで、リナの治癒光がようやく傷口へと浸透し、激しい出血が徐々に収まっていく。
だが、下級神官であるリナの生体魔力では、致命的な止血と肉芽の仮留めが限界だ。皮膚の完全な再生までは到底届かない。
「……ふう……っ」
激痛が引き、俺は荒い息を吐きながら雪の上に座り込んだ。
隣でリナが涙をこぼしながら、震える手で、まだ塞がりきっていないデリケートな傷口を保護するように清潔な包帯を巻き付けてくれている。
「レン様……良かった……本当に良かった……! 私、怖くて……レン様がこのままいなくなってしまうんじゃないかって……!」
「ごめん、リナさん。心配をかけたね」
俺は痛む左腕をかばいながら、右手でリナの亜麻色の髪を優しく撫でた。
「……相馬蓮」
長剣を納めたセラが、険しい面持ちで俺を見下ろしていた。
「あいつの言ったこと……気にしてるのか?」
「……気にならないと言ったら、嘘になるよ」
俺は白銀の吹雪を見上げた。
左肩の傷口には、まだ微かに、ミラと繋がっていた時の冷たい拍動の残滓が疼いていた。
魔王軍という名の、切り捨てられた世界線の住人たち。
神が定めた残酷なシステムの檻。
そして、救済者として召喚された俺自身が背負うべき、あまりにも重い選択の責任。
冷たい北風が、俺たちの間を吹き抜けていく。
戦いは、もはや単なる善悪の勝敗を超えた、世界の根源的な存在意義を問う領域へと突入していた。




