第14章 旅の癖
北境要塞都市『ラーナ』の巨大な南門をくぐった瞬間、肌を刺す冷気と共に、鉄と泥、そして篝火の煤煙が混ざり合った独特の重い匂いが鼻をついた。
城壁の内側は、王都ルクシアのような華やかな市場や石畳の目抜き通りとはまるで別世界だった。 道行く人々の大半は甲冑を身につけた王国軍の兵士たちであり、誰もが険しい眼差しで足早に行き交っている。荷馬車に積まれているのは色とりどりの野菜や果物ではなく、無数の槍や矢束、そして防城用の油樽や補修用の石材だった。
王都のような宗教的な装飾や祈りの鐘の音はどこにもない。
都市全体が、ただ敵を迎え撃ち、生き残るためだけに最適化された巨大な軍事機械そのものだった。
「……空気が、王都よりずっと張り詰めていますね」
隣を歩くリナが、旅用マントの襟元をぎゅっと引き寄せながら小声で囁いた。
淡い亜麻色の髪の毛先に、舞い散る粉雪が微かに白く乗っかっている。
「ああ。兵士たちの視線にも一切の弛みがない。街全体が二十四時間体制の監視ループを回しているようなもんだな」
俺は胸ポケットのエントロピー検知計に指先を触れながら応えた。
荒野で三分の一まで下がっていた針は、この要塞都市に入った途端、再び目盛りの七割あたりまで跳ね上がっていた。兵士たちの極限の緊張感と常時展開されている対魔防護結界が、空間の観測密度を力づくで押し上げている証拠だった。
「おい、相馬蓮、リナ。突っ立ってると馬車に撥ねられるぞ」
先頭を歩いていたセラが、愛馬の手綱を引きながら振り返った。
深紅のショートマントを翻し、勝気な翠眼で前方の石造りの兵舎群を指差す。
「ガウェイン卿は司令部へ入城手続きと戦況確認に向かった。私たち特務部隊の宿舎はあっちの第四区画だ。まずは荷物を下ろして泥を落とすぞ」
***
割り当てられた宿舎は、外観こそ無骨な石造りの兵舎だったが、内部は前線基地とは思えないほど綺麗に清掃されていた。
中央の居間には黒鉄の頑丈な暖炉が据え付けられ、乾燥した薪がパチパチと小気味よい音を立てて橙色の炎を爆ぜさせている。
「ふう……っ、あったかいですね……!」
リナは背中の革リュックを下ろし、暖炉の前でかじかんだ両手を擦り合わせながら、心底ホッとしたように息を吐いた。
「三日間の行軍、お疲れ様、リナさん。足は痛まないか?」
「はい! レン様が道中、何度も歩幅を合わせて休憩を入れてくださったおかげで、全然平気です」
リナは琥珀色の瞳を細めて笑うと、手際よく法衣の袖をまくり上げ、白い布エプロンを身につけた。
「すぐに温かいものをご用意しますね。前線の配給所で、干し羊肉と根菜を分けてもらってきましたから」
「手伝うよ」
「いえいえ、レン様はあちらの椅子に座っていてください! 勇者様にお炊事までさせてしまったら、教会の神官長様に怒られてしまいます」
「誰も見てないから大丈夫なんだけどな……」
苦笑しつつも、俺は暖炉の前の木製テーブルに腰掛けた。
リナが手際よく鉄鍋を暖炉の五徳に掛け、干し肉と刻んだ根菜を煮込み始める。鍋から立ち上る湯気とハーブの香りが、冷え切っていた部屋の中をじんわりと満たしていく。
俺は無意識に、右手の指先で右のこめかみをトントンと軽く叩いていた。
長時間の歩行と、常に周囲の空間のエントロピー分布を脳内で走査し続けていたせいで、頭の奥に微かな熱感と疲労が溜まっていたのだ。
トス、と背後から柔らかな気配が近づいてきた。
「……レン様。また、頭の奥を酷使していらっしゃいますね?」
「え……?」
振り返る間もなく、リナの白くて温かい指先が、俺の両のこめかみにそっと優しく添えられた。
「リナさん……?」
「じっとしていてください。……『小光球・静穏の環』」
リナが小さく囁くと、彼女の指先からじんわりと柔らかなぬくもりが染み込んできた。
治癒魔法のような急速な組織修復ではない。ただ、過熱した神経の興奮を優しく解きほぐすような、微弱で心地よい鎮静の光だ。
ジワリと、こめかみの奥にこびりついていた重い疲労感が溶けていく。
「……すごいな。一気に頭が軽くなった」
「ふふ、良かったです。レン様は集中しすぎると、いつも無意識に右のこめかみを押さえる癖がありますから。すぐに分かりますよ」
リナは背後でくすくすとおかしそうに笑った。
「そんな癖、自分じゃ気づかなかったよ」
「私はずっとレン様の専属神官ですから。レン様の歩き方の癖も、息のつき方も、全部覚えています」
リナの誇らしげで、どこか照れくさそうな声が耳元に心地よく響く。
「はい、お待たせいたしました。リナ特製、羊肉と根菜の煮込みスープです」
テーブルの上に、湯気を立てる木椀と、前線特有の黒くて硬いライ麦パンが並べられた。
リナは当たり前のように自分の椅子を俺の左隣に引くと、硬い黒パンを両手で小さくちぎり、スープの器の縁に浸して柔らかくしてから、俺の木皿へとそっと取り分けてくれた。
右利きの俺がスプーンを動かしやすいよう、常に左側から差し出されるその導線。
王都を出てからの旅路の中で、いつの間にか二人の間に定着した、ごく自然なルーチンワークだった。
「それと、こちらもどうぞ」
リナが木製のカップを差し出してくれた。
中には、濃い黒褐色に濁った淹れたてのカファが注がれていた。だが、いつもと少し香りが違う。深煎りの香ばしい苦味の中に、甘酸っぱくフルーティーな香りが微かに漂っていた。
「……ん? いつものカファと香りが違うな」
「ふふ、気づいてくださいましたか? 街道の宿場町で手に入れた乾燥林檎を細かく刻んで、小さじ一杯だけ底に忍ばせておいたんです。オルド様のカファは少し苦味が強すぎるので……レン様が飲みやすいように、甘酸っぱさを足してみました。『カファ・アプル』って呼んでるんです」
ひと口啜ってみる。
ガツンとくる重厚な苦味の奥から、林檎の優しい酸味とほのかな甘みが広がり、冷えた身体の芯まで染み渡っていった。
「……めちゃくちゃ美味い。これ、王都のカフェで出したら大繁盛するぞ」
「本当ですか……! よかった……! レン様のお口に合わなかったらどうしようかと思っていました」
リナは胸に手を当てて、琥珀色の瞳をいっぱいに輝かせた。
***
「おいおいおい。扉を開けた瞬間、新婚家庭の晩飯に迷い込んだかと思ったぞ」
ガラリと無骨な木の扉が開き、呆れたような声と共にセラが入ってきた。
鎧の肩に積もった雪をバサバサと払い落とし、テーブルの上の料理とカファを物欲しげにジロジロと眺める。
「セ、セラさん……! 変なからかい方をしないでください……!」
リナが顔を真っ赤にしてあたふたと手を振る。
「ははっ、冗談だ。だがリナ神官、私の分のスープはあるか? 司令部の糞不味いレーションを食わされる前に逃げてきたんだ」
「も、もう……ちゃんとセラの分も作ってありますよ。座ってください」
リナがぷくっと頬を膨らませながら木椀をもう一つ用意すると、セラは長剣を壁に立てかけ、ドカッと椅子に腰を下ろした。
「ふう……生き返るな。王都の貴族どものお上品なスープより、よっぽど身体に染みる」
セラは豪快にスープを飲み干すと、ふっと表情を引き締め、懐から一枚の羊皮紙を取り出してテーブルの上に広げた。
「……さて。腹ごしらえが済んだところで、前線の現実を教えてやる」
羊皮紙には、ラーナを中心とした北方戦線の詳細な防衛マップが記されていた。
セラの細い指先が、ラーナの南西数十キロの地点にある赤いバツ印をトンと叩く。
「先刻、輸送隊が話していた『白霜砦』の陥落……司令部でも正式に確認された。守備隊二百名のうち、生存者はあの馬車に乗っていた三十名足らず。砦は完全に占拠された」
「二百人が……一晩で……」
リナが息を呑む。
「ああ。敵の主戦力は、魔獣の群れと北方連合の混成部隊だ。だが何より異常なのは、やはり目撃された『銀髪の少女』だ。ガウェイン卿が司令部の記録書庫を漁ったところ、魔導院の極秘記録に該当する個体名が見つかった」
セラは翠眼を鋭く細め、低く呟いた。
「名は――ミラ。かつて王立魔導院の深層収蔵庫で、聖具の同調実験中に突如として姿を消した、稀代の特異魔導士だ」
「王立魔導院の……脱走者?」
「脱走か、あるいは処分されたか……真相は闇の中だ。だが彼女が使う魔法は、通常の元素魔法じゃない。複数の物体や空間の状態を強制的に結びつける『結合(Entanglement)』の力だ。白霜砦の防護結界も、外部の崩壊状態と結界の基底を直結させ、一瞬でゼロへと相殺されたらしい」
(Entanglement……量子もつれか)
俺は思考を走らせた。
離れた二つの状態を同期させ、片方の崩壊をもう片方へ瞬時に転送する。もしそれが本当なら、どれだけ強固な城壁や結界を築こうが、彼女にとっては存在しないも同然だ。
「敵の狙いは間違いなく、この北境要塞都市ラーナの本城だ。数日以内に、白霜砦を前進拠点にして大攻勢を仕掛けてくる」
セラは羊皮紙を畳み、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「相馬蓮。お前のその異質な魔法と聖剣の力、出し惜しみしてる暇はないぞ」
「分かってる。こっちも最初から全力でいくさ」
***
セラが自室へと戻り、居間に再び静寂が戻ってきた。
夜も更け、暖炉の薪が静かに赤黒い熾火へと変わっていく。
リナが片付けを終え、淹れ直した二杯目のカファ・アプルを持って、窓辺のベンチに座っていた俺の隣へとやってきた。
「……レン様。まだ、起きていらっしゃったのですね」
「ああ。星が綺麗だったからな」
厚いガラス窓の向こうには、北方の澄み切った夜空が広がっていた。
二つの月――金色の月と蒼い月が寄り添うように浮かび、無数の銀の星々が静寂の荒野を青白く照らし出している。
「寒くありませんか?」
「リナさんがカファを淹れてくれたから、全然寒くないよ」
俺が微笑むと、リナは安心したように隣に腰を下ろし、両手でカップを抱え込んだ。
「……レン様の故郷の世界にも、あんな風に月や星があるのですか?」
「月は一つだけだけどね。でも、東京……俺が住んでいた街は、夜になっても星があまり見えないくらい、街中の明かりが眩しかったんだ」
「街中が、光でいっぱい……? まるで、教会の祝祭の夜みたいですね」
「そうだね。電車っていう鉄の箱に何百人も乗って走ったり、高いビルの窓から無数の明かりが瞬いていたり……忙しくて、理不尽なトラブルも多くて大変だったけど、どこか懐かしいよ」
俺はカップの温もりを感じながら、遠い日本での生活を思い返していた。
残業続きのオフィス、終電のホーム、コンビニの温かい缶コーヒー、街の喧騒。
かつては当たり前すぎて意識もしなかった日常の断片が、鮮烈な光景として胸の奥に蘇る。
ふと、口をついて小さなメロディが漏れた。
子供の頃、母がよく口ずさんでいた日本の素朴な童謡。
「……不思議な歌ですね。優しくて、少しだけ切なくて……」
リナは琥珀色の瞳を潤ませながら、じっと俺の横顔を見つめていた。
「レン様のお話を伺っていると、レン様がどれほどその世界を大切に思っていらっしゃったのかが、よく分かります。……いつか、この戦争が終わって世界が平和になったら……私も、レン様の生まれた街を一緒に歩いてみたいです」
「……ああ。案内するよ。美味しいコーヒーの店も、たくさんあるしね」
(日本に帰る方法なんてまだ見当もついていないし、そもそも元の世界に戻れるのかも分からない。けれど――この過酷な戦いの先に、そんな希望に満ちた未来があってもいいはずだと、俺は心から思っていた)
「約束ですよ、レン様!」
リナは小指を立てて、悪戯っぽく、けれどこの上なく真摯な眼差しで微笑みかけてきた。
俺も笑って小指を絡め、小さな約束を交わした。
窓の外を、冷たい北風が吹き抜けていく。
暖炉の微かな温もりの中、リナの柔らかな笑顔を見つめながら、俺は胸の奥で静かに誓っていた。
この世界がどれほど歪んだシステムで動いていようと。
どれほど過酷な戦いが待ち受けていようと。
隣で笑うこの少女の命と、二人で紡いだこの温かい日常だけは――俺が持てるすべての権限を賭けて、絶対に守り抜いてみせると。




