毒針が落ちるまで五週間、付き合ってくれたのはギルマスさんだけ(2)残ったのは二人だけ
「杭、入った。黒の付箋、かかった」
「降りろ。次に書け」
「針、上がる」
盾を入れる。剣を入れる。剣を入れる。剣を入れる。
目を潰す。剣。回復。防御。剣。解ける。杭。黒の付箋。剣。
ハリバチを見つけるまでに平均二分。倒すのに二分半。これを一晩に四十回繰り返す。
ハリバチの巣には、羽音と、僕の盾と剣の音と、ペンギンの声しかない。たけのこが来る日は、そこに剣の音がもう一つ増える。今夜は増えていない。
ドロップの窓が開いた。ハリバチの羽。ハリバチの蜜。六百五十匹目だった。
六百匹を超えてからも、窓に出るものは変わらなかった。変わったのは、窓を閉じる指の速さだけだ。初日は、開くたびに一つずつ読んでいた。今は、毒針の字がないのを確かめて、閉じる。一秒もかからない。
二十四日目。十二月の半ばだった。
いったん巣を出て、のらねこラウンジに戻ると、たけのこが先にカウンターにいた。
「レッド・ガーディアンって、知ってるか」
たけのこがそう切り出した。
知っている。この一ヶ月で、いちばん人数を増やしているギルドだ。ランクも、もう上のほうにいる。
「誘われた。……悪い。断りきれなかった」
「すごいじゃないか。行ってこいよ」
大事なギルメンに訪れたチャンス。素直に嬉しい。けど、たけのこはそれをそのまま喜べない。そういうやつだから、最古参としてここまで残ってくれた。優しすぎるのだ。
「たけのこ。向こうはうちの十倍だ。お前の剣なら、もっと上のクエストに行ける」
「みな」
「俺のことは心配するなって。お前は自分のことを考えてくれたらいいんだ」
たけのこは、しばらく黙っていた。それから、ペンギンのほうに目をやった。
「なあ、お前ら。あの蜂、まだやってんの?」
「やってるよ。今日で二十四日目。六百五十匹」
「……そっか」
たけのこは僕の肩を叩いた。ゴブリンの夜と同じ手だった。
「悪い。ほんとに」
「たけのこ。本当に今までありがとう。頑張ってくれ」
ポータルが開いて、閉じた。
ギルドメンバーの一覧を開いた。
みな。
おきんたま研究学会学長。
それだけだった。
八月の終わりに作ったギルドだ。十月のはじめに八人まで増えて、月の終わりに三人に減り、十一月にこいつが入って四人になり、そして今は二人。ギルド『ねこのて』は、あと一人抜けたら僕一人になる。この潰れたあんぱんがいなくなれば、僕は誰もいないギルドのマスターだ。
「ギルマスさん」
「なんだよ」
「ボクは、抜けないよ」
「誰も聞いてねーよ」
「聞かれてないけど、言っといた」
今はギルドもたくさんあるし、ギルドマスターにこだわる必要なんてない。このまま解散して、強いリーダーのいるギルドに入るのも悪くないはずだ。なのに僕はそうしない。
僕は一体、何に固執しているのか。ときどき悩む。
「……まあ、助かる」
「ん?」
「聞かれてないけど、言っといた」
ペンギンは鉄杭を握り直した。
「いこ。二十四日目の続き」
二人だけになってから、巣は、もっと静かになった。
剣の音が一つ増える日が、もうない。その分、ペンギンの声がよく聞こえた。
一匹二分半が二分になった。
変わったのは、時間だけじゃない。「左に転がれ」と言う前に、左に転がっている。僕が盾を入れるタイミングが、足音でペンギンに分かるようになった。いちいち言わなくても、次に何をするか、お互いが分かっている。
そして、ログインすると、こいつはいつも先にいた。
僕が学校から帰って、飯を食って、ゴーグルを被ると、ラウンジのカウンターに潰れたあんぱんが待っている。どれだけ早くログインしても、先にいる。暇になったのだろうか。ゲーム中毒にならないかが心配だ。
巣の入り口で、次の湧きを待つ間、どうでもいい話をした。今日の学校のこと。昨日見たアニメのこと。ペンギンは、自分のことはあまり話さなかった。聞き役で、相槌がよくて、「ん、それでー?」と先を促すのが上手かった。気づいたら、僕ばかり喋っていた。
ある夜、返ってきた期末テストの話をした。
「数学、赤点ギリギリだった」
「ギルマスさん、テストあるんだー。……高校?」
「高一だけど」
言ってから、しまったと思った。年齢の話は、VRではあまりしない。聞かないし、言わない。でも言ってしまった。
ペンギンはしばらく黙った。それから、いつもより少しだけ高い声で言った。
「ギルマスさん、やっぱり年上だったんだ。年上なのに、女の子のボクに変態とか言われて……」
「だからその設定やめろ!」
「設定じゃないもん」
いつもの聞き飽きたやつだ。でも、その夜から、こいつの「ふーん」が一つ増えた。
八百匹目。ドロップは羽。
九百匹目。ドロップは蜜。……のはずが、癖で窓を閉じて、消した。
「あ」
「ん? いま、蜜、消したでしょ」
「蜜だろ。要らねえ」
「売れるのに。ボクの分も入ってたんだけど?」
「誰が買ってくれるんだよ。蜂の蜜」
千匹目。ドロップは羽と蜜。
千匹を超えた。六割のはずだった。落ちなかった。
「……ボクら、四割のほうだったんだ」
「まだ終わってねえよ。手に入れるまでやめない」
十二月も終わりに近かった。
三十五日目の夜。千百三十七匹目のハリバチに、ペンギンが杭を刺して、暗示がかかって、目が潰れて、僕が剣を入れて、いつも通りに倒した。
いつも通りに、ドロップの窓が開いた。
ハリバチの羽。ハリバチの蜜。
毒針。
「……」
「……」
二人とも、窓のほうを向いたまま止まっていた。
「ギルマスさん」
「ああ」
「落ちた?」
「落ちてる」
「落ちたよね?」
「落ちてる」
「落ちたーーーー!!」
ペンギンが叫んだ。
その一瞬で声が変わった。
ボイチェンの、つるっとした音のクセが消えた。息の揺れが入って、澄んだ、高い声になった。一瞬だ。次の「ーー」のところで、もういつもの声に戻っていた。
「いまのはボイチェンのバグ。バグだからね?」
「バグって」
「叫ぶと、たまに処理が追いつかないの」
そういうものらしい。ボイチェンは大きい声に弱い。それはなんとなく知っている。
「いいから、拾え」
「ん」
ペンギンが、窓の毒針をタップした。着ぐるみの短い手に、鉄杭より少しだけ長い、黒くて細い針が現れた。先端が、濡れたみたいに光っている。
装備の説明を開いた。装備対象、盗賊・幻術師・呪術師。刺すと相手に猛毒を与える。しろねこから聞いたのと、同じ効果が書いてあった。
ペンギンは、それをしばらく、両手で持って眺めていた。小さい黒い点が二つ、じっと針の先に向いていた。
「……五週間だよー?」
「五週間だな」
「五週間もボクに付き合ってくれたの、ギルマスさんだけなんですけどー?」
「言い出したのは俺だ」
「それ、前も言った」
「前も言った」
「……ありがと」
声が少し小さかった。バグじゃない。いつもの声で、ただ、小さかった。
「明日から、ボクが削る番ね」
「試すぞ。明日からだ」
「ん。刺しすぎるくらい、刺すよ?」
「刺しすぎるな。お前、すぐやられるんだから」
「やられないもん。……たぶん」
巣を出た。
僕がポータルを開けた。行き先は、六百匹目の夜と同じだった。
江ノ島の夏。橋の真ん中。
花火が上がって消えた。ペンギンは、欄干にもたれるというより引っかかって、毒針を空に向けてかざしていた。花火が針の先に映った。
「ね、ギルマスさん」
「なんだよ」
「五週間、飽きなかった?」
「飽きた」
「飽きたのに?」
「飽きたけど、来た。それだけだ」
ペンギンが僕の隣に並んだ。いつもより近かった。着ぐるみの肩が、僕のアバターの腕に当たっている。VRだから、当たっても何も感じない。感じないはずなのに、そこにいるのが分かる。
「ギルマスさん、疲れてるー?」
「……疲れたよ。五週間だぞ。ほんっと疲れた」
「んふふー。たけのこさんが抜けた日から、ずっと疲れてる声してたー」
「……二人になっちまったからな」
「二人でも、ボクは抜けないよ。言っといたでしょ」
なんでこいつは、声で全部分かるんだ。
「んふふ。ギルマスさんって、たまーに、かわいくみえるんだよね。なんでだろ」
「は?」
それは一瞬のことだった。
着ぐるみの短い手が、すっと上がる。その手は、僕の目の前を通って、額を過ぎて、頭に乗った。
ぽん、ぽん。
「はーい、よしよし。疲れちゃったねー♡」
からかう声だった。小さい子にやるみたいな手つきで、頭をぽんぽんと叩いて、笑っている。
VRゴーグルには触覚センサーがない。重さもない。触れる音もない。何も起きないはずだった。
しかし、手の重み、人の温もりが、確かに頭の上に感じられる。首筋がぞくぞくして、体の力が抜ける。
僕は言い返そうとした。言い返そうとしたが、口が開いたまま何も出てこなかった。
「ん?」
「……」
ペンギンの笑い声は、もう止まっていた。
「……ギルマスさん?」
「……」
手が、頭の上に乗ったまま、一瞬止まった。
「……えーっと。……ガチなやつ? そんな反応するんだ」
「……うるせえ」
それだけ言うのに、一拍かかった。
「ふーん」
手がゆっくりと離れた。
「……またやってあげる」
かわいい女の子にやられるならまだ分かる。きれいなお姉さんとか? そんなのに、頭をぽんぽんされて喜ばない男なんているわけない。
けど、今、僕の目の前にあるのは潰れたあんぱん。名前はきんたま。それに中身はボイチェンを使っている男だ。そんなやつに頭をぽんぽんされて、一体何に取り乱しているというのか? 何かの間違いだ。そうに決まっている。
「……い、いらねーよ。ガキやおっさんにこんなことされたって、嬉しくもなんともねえ」
「んんんん?」
花火がもう一発上がった。
二人だけになったギルドに、毒針が落ちた。




