【クエスト】毒沼の主と、白い付箋
沼は臭かった。
VRににおいはない。ないはずなのに、緑色の泡が水面で弾けるたびに、鼻の奥が勝手に嫌がる。
「ボク、ここ嫌い。ギルマスさんは平気そうだね?」
「俺も嫌いだ。さっさと終わらせるぞ」
岩喰いの巨獣から三日後。今日は毒沼の主だ。四人推奨。こっちは相変わらず二人。
選んだ理由は前と同じだ。相手は一匹。でかくて遅い。違うのは、攻撃が毒だということ。wikiによると、この沼の主の毒は、HPの減少に加えて行動不能の状態異常を引き起こすそうだ。
毒を食らうと体が動かない。動けないと魔法陣が描けない。だから僕は絶対に食らわない。それが今日の作戦だった。
沼の真ん中の水面が、盛り上がった。
出てきたのは、岩みたいにでかい、ぬめった生き物だった。サンショウウオに似ている。目が濁っていて、口の端から緑色の液体が垂れている。
「真名、ボグ・ザラン。ラポールは22%。岩喰いよりは、ボクのこと好きみたい」
「黒の付箋だ。目が潰れてる間に殴る」
「黒の付箋なら六十秒。今日も、ギルマスさんが六十秒もたせるんでしょ?」
「六十秒だな」
「ん」
挑発。濁った目が僕を向いた。
沼の主は、岩喰いより遅かった。ただし遠かった。近づいてこない。沼の真ん中に居座ったまま、こっちに向かって、口から緑色の塊を吐いてくる。粘り気が強く、ゆっくり、ねっとりと、塊が降ってくる。
ここまではwikiに書いてある通りだ。僕の反射神経なら、余裕をもってさばけるはずだ。
一発目。盾で受けた。盾の表面で、緑色がじゅっと音を立てて消えた。
二発目。受けた。
三発目。受けた。
「ギルマスさん、それ、ずっと受けてるだけじゃない?」
「近づかねえんだよ、あいつ」
「ボク、後ろに回ろうか?」
「待て。あいつが吐くのをやめてから――」
四発目が来た。盾で受けた。続けて五発目が来た。
二連続。wikiに書いてなかった。
五発目は、盾の上を越えて、僕の肩に落ちた。
緑色が肩から首に広がった。皮膚がじりじりする。視界の端に、状態異常の表示が出る。毒。数字が一つずつ減っていく。それはいい。問題は体だった。
動かない。
盾を上げようとした。上がらない。剣を持った右手も、そこにあるだけだった。膝が勝手に折れて、僕は沼の縁に座り込んだ。
思い上がっていた。岩喰いでは攻撃なんて、ほとんど食らわなかったからだ。VRサーガは、発売してまだ四ヶ月目。wikiも完全なはずがない。情報不足では、僕の反射神経も使い物にはならない。なぜ、そんなことにも気がつけなかったのか。
「……やっちまった」
「……ギルマスさん?」
「体が止まった。魔法陣も描けない」
沼の主が、水を掻き分けて、こっちに来た。
さっきまで近づいてこなかったくせに、動けなくなった途端に来る。そういう作りらしい。ぬめった体が水面を割って、濁った目が、座り込んだ僕を見下ろした。
HPはまだ七割ある。毒で減っていく分は、オートポーションが埋めている。でも、あの口で直接噛みつかれたら、終わる。
終わったら、蘇生待ちの六十秒。動けるのはペンギンだけだが、あいつは蘇生の魔法を持っていない。六十秒が過ぎればデスペナで、ギルドのランクが下がる。動けないまま、頭にいちばん先に浮かんだのは、噛まれることより、ランクのことだった。
「お前はポータル開けて逃げろ。デスペナは俺だけで――」
一瞬のことで、何が起きたのか分からなかった。
「白の付箋!」
背中に、何かが押し当てられている。
付箋だ。
振り向けない首の代わりに、目だけで横を見た。ペンギンが、僕の斜め後ろにしゃがみ込んで、付箋を押さえていた。白い付箋だった。
「一秒だけまって。そのまま!」
一秒も経たなかった。
背中で白の付箋の暗示がかかった。
肩の緑色が消えた。状態異常の表示が消えた。膝に力が戻って、右手が、剣を握り直した。
立てた。
「――ギルマスさん、伏せて!」
伏せた。頭の上を、緑色の塊が通り過ぎて、後ろの岩で弾けた。
僕は盾を構え直して、挑発を撃った。沼の主の目がまた僕を向く。
「……お前、回復もできるのか?」
「ん? ボクは幻術師だよ? 白の付箋は状態異常を解く術。……言ってなかったっけ」
「wikiに載ってなかったぞ」
「載ってないよ。ボクのページ、数行しかないもん」
知っている。何度も読んだ。読んだのに、味方に貼れるとは思いもしなかった。敵に貼るものだと、勝手に決めていた。
「名前、どうやって書いた」
「ん? 名札。ギルマスさんの頭の上に、『みな』って書いてあるでしょ」
なるほど。真名は敵だけの話で、味方は頭の上の名札でいい。二文字。書くのに数秒。これは使える。
「もう一度、食らったら」
「貼る。何回でも」
「一秒でかかるのか、あれ」
「ギルマスさん相手だと、一秒もいらなかった。敵よりずっと早い。……理由は、ボクも分かんない」
理由は分からない。分からないけど、一秒なら使える。
沼の主が口を開けた。
作戦を変えた。
食らわないんじゃない。食らう。食らって相手をおびき寄せる。これなら勝てる。
一発目、受ける。二発目、受ける。三発目、わざと盾を下げて、肩で受ける。毒が広がって体が止まる。
ペンギンには、僕の名前をあらかじめ書かせてある。沼の主が寄ってきたところで、背中に白の付箋。一秒で暗示がかかって、体が戻る。
「はい、次」
沼の主が、動けなくなった僕に気づいて、水を掻き分けて近づいてくる。近づいてきたところで、僕は動けるようになっている。剣がぬめった横腹に入る。
「もう一度」
肩で毒を受ける。止まる。近づいてくる。白の付箋。戻る。剣を入れる。
その繰り返しで、沼の真ん中から引きずり出し、HPをじわじわと削っていった。
「ん、これ、いじめじゃない?」
「作戦だ」
「ふーん。毒を食らって喜ぶなんて、変態さんだ」
「喜んでねえよ!」
「ん、でも、ボクがいないと止まったままだもんね。動けないギルマスさん、ちょっと面白いかも。いじめてみようかな♡」
「うるせえ。今だけだ」
「スルーされちゃった」
声がちょっと弾んでいた。
ペンギンは、僕の背中にくっついたまま、白の付箋を貼り続けた。何枚でも出てくる。付箋は減らない。無限に使える。
さらに作戦を変えてみた。
引きずり出したところで、ペンギンが忍び足で背後に回って、ぬめった背中に杭を刺して、ぶら下がって、黒の付箋を貼る。六十秒。数える。僕は沼の主の正面で、吐いてくる緑色を盾で受け続けた。
暗示がかかった。濁った目が、僕の上を素通りする。四十五秒の間、剣を入れて、解けたら、また黒の付箋。失敗すると沼に戻られるので、また毒を浴びて引きずり出す。
とはいえ、こっちのほうが効率がいい。
戦闘が始まって三時間が過ぎると、ミスが増えた。会話からもすっかり余裕がなくなった。
ペンギンの字が乱れて、白の付箋が不発になる。書き直す三秒の間、僕は動けないまま、緑色を浴びる。僕のほうも、肩で受けるつもりの一発を、顔で受けた。黒の付箋は百枚を超えていた。五枚に一枚は、書き損じるか振り落とされるかで、無駄になった。数える声が途中で止まる。止まってまた始まる。
「……じゅう。きゅう。……あれ、あと何秒だっけ」
「ゼロだ。暗示がかかった。降りろ」
「ん、降りる」
三時間半で、沼の主は動かなくなった。緑色の液体になって、消えた。
静かになった。緑色の泡だけが、まだ弾けていた。
「……終わった?」
「終わった」
僕は沼の縁の岩に腰を下ろした。指先の感覚はない。まだ肌が痛む。ペンギンも隣に寄って、着ぐるみの尻を、どすんと落とした。
「なあ」
「ん?」
「今日は俺の戦略ミスだった。白の付箋があって助かった。あれがなかったら、最初の一回で終わってた」
「んんんんん?」
「すまなかった」
ペンギンが目をぱちくりしながらこちらを見ている。罵ってくるのか? 今日は何を言われても、甘んじて受けよう。
「ふーん。……ギルマスさんって、意外と責任感強いんだ」
「そんなんじゃねえ」
「ね。それよりボク、今日は白の付箋、何回貼ったと思う? 百回はいったでしょ」
軽く流された。
「百四十五回だ」
「数えてたの?」
「数えてた」
「……百四十六。ギルマスさんが座り込んでた、最初の一回が入ってないでしょ」
「なんだよ、細かいな」
「んふふー。ギルマスさん、数える係、取らないで」
疲れも、辛気臭さも、一瞬で吹き飛んだ。会話を、容赦なく自分のリズムに変えてくる。
ペンギンは、しばらく足をぱたぱたさせていた。主を失ったただの沼で、あれは何枚だ、これは何回だったと、大はしゃぎだ。
それから、何かを思い出したように、少しだけ声を落とした。
「白の付箋ね。回復できるのは、いいんだけど。……あんまり好きじゃないんだよね」
「なんで」
「んー……なんとなく」
「なんとなくって」
「ね、ギルマスさん、次はどこいくの?」
今度は自分で軽く流していた。
なんとなく。理由があるなら言うだろうし、言わないなら、ない。聞かなくていいことは、聞かない。踏み込みすぎない。それがVRサーガのマナーだ。
それが、僕らにはちょうどいい距離だった。
ペンギンはもう、次のクエストの話をしている。僕は、こいつの数行しかないwikiのことを思い出していた。あんな情報が、なんだというんだ。正確だという保証は、どこにもない。
こいつは、ちゃんと仲間の役に立てる。間違いない。




