第9話 二人分の名前
誕生日の朝に、五十文の出費が決まっている。
そんな十六歳の始まりを、風切疾風は考えていなかった。
央都・北区、紺野屋の荷置き場の二階。疾風は寝床の端に座り、母からもらった帳面を開いていた。
昨日までの残高は五貫三十文。
墨を含ませた筆を取り、新しい行に『登録料 五十文』と書き込む。まだ支払っていないため、差し引きの残高は空欄にしておいた。
腰の袋から財布を取り出し、硬貨を五十文分だけ数える。普段ならこれだけの銭を一度に使うことはない。自分で働いてためた銭だからこそ、減ると分かっていて数えるのは妙な気分だった。
「五十文って、何日分の飯になるんだよ」
粗食なら一食三文。
十食で三十文だから、残りは……。
「やめだ、やめ!」
疾風は硬貨を財布へ戻した。
今日は飯代を数える日じゃない。
十六歳になったら、ナギと契約する。
そのために五か月も都で働いてきたのだ。
階下から木箱を引きずる音が聞こえた。いつもどおり、紺野屋では朝の荷造りが始まっている。疾風は帳面を閉じ、背負い袋へしまった。
階段を降りると、お紺が帳場で荷札を仕分けていた。紺の前掛けを締め、火の入っていない煙管をくわえている。
「お紺さん、今日の荷は?」
「今日はいいよ。あんたには用事があるだろ」
「午前中には戻れると思うけど」
「そういうのは、行ってみなきゃ分からないさ」
お紺は荷札を一枚そろえ、横に置いてあった包みを押し出した。
「持っていきな」
「何だこれ。昼飯?」
包みを開くと、握り飯が二つ入っていた。
いつもは一つなのに、今日は二つある。片方には、少し多めに塩が振ってあった。
「お、増えてる!」
「数くらい分かるだろうね。五か月も荷札を読んでるんだから」
「分かるって。ありがとな!」
疾風が包みを結び直すと、お紺は算盤を弾く手を止めた。
「風切」
「何だ?」
「帰ってくるとき、書類をなくさないようにね。荷札と同じ扱いでいいから」
「それなら得意だ。荷札は一枚だってなくしたことねえぞ」
「そうかい。じゃあ、今日も頼んだよ」
お紺はそれ以上、何も言わなかった。
疾風は包みを背負い袋へ入れ、店を飛び出した。
戸を閉めたところで、低い塀の上から声がした。
「遅えぞ、疾風」
額に白い筋のある鎌鼬が、長い尾を揺らしている。
ナギだ。
普段の道具袋とは別に、小さな布包みを背負っていた。前足で包みの位置を直すと、塀から軽く飛び降りてくる。
「お前こそ、いつからいたんだよ」
「今来た」
「絶対嘘だろ」
「うるせえな。お前が遅いのが悪いんだよ」
ナギは鼻を鳴らしたが、先に歩き出そうとはしなかった。
疾風は背負い袋をたたく。
「そうだ。握り飯もらったぞ。二つあるから、一つ食うか?」
「いらねえ」
「そっか。じゃあ両方俺のだな」
「……半分ならもらう」
「何だよ、食うんじゃねえか!」
「二つも食ったら、受付で腹が鳴るだろ」
「そんなに待たされるのか?」
「俺が知るかよ」
二人は並んで歩き始めた。
いつもなら荷車の前後に分かれて歩く道だ。今日は引き棒も綱もなく、運ぶ荷もない。
それなのに疾風は、曲がり角へ差しかかるたび、つい後ろを振り向いてしまった。
「何見てんだ?」
「いや。荷車がないと、何か忘れてる気がしてさ」
「忘れ物ならお前が困るだけだ。俺のせいにすんなよ」
「まだ何も言ってねえだろ!」
ナギの尾が、一度だけ楽しそうに揺れた。
*
忍務局の登録窓口は、朝から人と妖怪で混み合っていた。
壁際には受付札を握った者が並び、長椅子では人間と妖怪が小声で話している。互いに顔を見合わせて笑う組もいれば、相手から少し離れて黙り込んでいる組もあった。
入口の壁には、先月見た張り紙がまだ残っている。
『縁結び座 契約相手の顔合わせ承ります』
疾風はその下にある料金を見た。
「顔合わせだけで十文か。やっぱ高えな」
「お前、あれ見るたびに同じこと言ってんな」
「十文あったら飯が三回食えるぞ」
「余った一文まで飯に使う気かよ」
そんな話をしているうちに順番が来た。
受付係は先月の申込書を取り出し、二人の名前を確かめる。疾風の年齢を確認すると、別の帳簿へ筆を走らせた。
「風切疾風さんは本日、十六歳ですね。ナギさんの成人認定も確認できています」
「じゃあ、契約できるんだな!」
「まず、それぞれ別室で確認を受けてください」
「別室?」
「お二人の意思を、別々に確認します。相手がいると、断りたくても断れない場合がありますから」
疾風はナギを見下ろした。
ナギは布包みを前足で押さえ、わざと顔を背けている。
「お前、今になって逃げたりすんなよ」
「そっちこそ、俺のせいにして逃げんな」
「逃げねえって!」
「だったらさっさと行けよ」
係に案内され、疾風は右の部屋へ入った。
中には机と椅子が置かれ、向かい側に役人が一人座っている。厚い帳簿を開いた役人は、疾風が腰を下ろすのを待ってから口を開いた。
「まず、契約はご自身の意思ですか」
「そうだ。俺が申し込んだ」
「誰かに強制されてはいませんか。雇い主や家族から、契約しなければ仕事を与えないと言われたことは?」
「ねえよ。お紺さんには、荷を壊したら叱るって言われてるけど」
役人は少しだけ笑い、帳簿へ記入した。
「では、契約の内容を確認します。一度に契約できる妖怪は一体だけです。ナギさんも、同時に別の人間とは契約できません」
「分かってる」
「解約するには、双方の同意と役所の立会いが必要です。どちらか一方の都合だけでは解約できません」
「それも読んだ」
「では、契約した相手から契装を求められた場合、必ず応じなければならないと思いますか」
疾風は首を横に振った。
「ナギが嫌だって言ったら、無理にはできねえんだろ」
「そうです。あなたにも断る権利があります」
役人は頷き、次の頁を開いた。
「もう一つ。契装した妖怪が武器の姿で傷つくと、元の姿に戻っても傷が残ります」
疾風は膝に置いた両手へ目を落とした。
掌には、八歳のころに綱で擦った白い跡が残っている。見返り橋の下で縄を握り続けた傷だ。
自分が荷を落とせば、自分の手が傷つく。
けれどナギが刃になったら、その刃につく傷はナギのものだ。
「……分かってる。まだ使い方も知らねえけど、怪我させて謝れば終わりって話じゃねえだろ」
「その理解で結構です」
役人が筆を動かした。
そのとき、壁の向こうからナギの声が聞こえた。
「命令されたら何でもやる? 冗談じゃねえ! 俺は荷車だって、道が悪けりゃ止めるぞ!」
続いて、役人らしい咳払いが二度聞こえた。
疾風は思わず口元を押さえる。
「……お知り合いのようですね」
「五か月、一緒に荷を運んでたんだ」
「では、希望相手がナギさんである理由を教えてください」
疾風は顔を上げた。
「理由?」
「なぜ、その方と契約したいのですか」
急に聞かれると、うまい言葉が見つからなかった。
ナギとは最初から気が合ったわけではない。荷の結び方で口論になり、道の選び方でも何度も言い合った。
それでも、失敗したときに後ろから文句を言ってくれるのは、いつもあいつだった。
「一緒に荷を運んできたんだ。俺が無茶な道へ入ろうとすると、あいつが止める。たまにはあいつも間違えるけど、そういうときはちゃんと直す」
役人は筆を置き、続きを待っている。
「俺、前ばっか見ちまうからさ。後ろの荷を見てくれる奴がいると助かるんだよ。……まあ、口は悪いけど」
「それでも、その方がいいと?」
「そうだよ」
疾風は迷わず答えた。
「俺がナギと組みたいんだ」
役人は頷き、書類に小さな印を押した。
*
確認を終えて廊下へ戻ると、ナギが窓辺の低い台に座っていた。
「遅え。何をそんなに喋ってた」
「お前の悪口」
「そうか。俺も言っといた」
「本当に言ったのかよ!」
ナギは鼻を鳴らし、台から飛び降りた。
係に呼ばれ、二人は大きな机へ案内される。
そこには、先月提出した申込書が二枚並んでいた。
一枚目。
申込者、風切疾風。
希望する相手、ナギ。
二枚目。
申込者、ナギ。
希望する相手、風切疾風。
疾風は二枚目の紙を見つめた。
「……お前、俺の名前書いたのか」
「お前こそ、何で俺にしてんだよ」
「だって、あのときは組まねえって言ってたじゃん!」
「お前も言っただろ!」
「それはお前が先に言ったからだろ!」
「俺は、お前が先に言うと思ったからだ!」
受付係が咳払いをした。
「書いたのはお二人です。ここで言い争われても、申込書の内容は変わりませんよ」
「言い争ってねえよ!」
「喧嘩じゃねえ!」
二人の声が重なった。
受付係は何も言わず、机の端へ申込書を寄せた。疾風は顔を背けたが、目だけでもう一度紙を確かめる。
ナギの字は小さく、角がきっちりそろっていた。
荷運びのたびに見てきた、あいつの字だ。
「……いつ書いたんだよ」
「お前が出した日だ。別の入口からな」
「だったら言ってくれればよかったのに」
「お前だって黙ってただろ」
「それは……まあ、そうだけど」
疾風が頭をかくと、ナギもそれ以上は言わなかった。
受付係は二枚の申込書をしまい、新しい契約書を広げた。
「双方の意思は確認できました。正式な契約を結ぶ前に、登録料を納めていただきます。お一人五十文ずつです」
「やっぱり五十文か……」
疾風は朝から分けておいた銭を取り出した。
ナギも道具袋から自分の財布を出す。小さな前足で硬貨を一枚ずつ数え、机の上へ積んでいった。
「お前、足りるのか?」
「足りるから来たんだろ」
「いや、お前この前、鏨買ったって……」
「俺の銭の勘定は俺がする!」
「分かったって!」
役人は二人の硬貨を別々に数え、受領の札を渡した。
疾風は札を財布へ入れながら、小さく息を吐く。
「五十文、痛えな」
「お前の分まで払うよりましだろ」
「払えなんて言ってねえよ」
ナギは自分の受領札を道具袋へしまった。
それから朝から持っていた布包みを、机の上へ置く。
「……そうだ。これ」
「何だ?」
ナギが紐をほどくと、中から小さな木札が現れた。
木目に沿って、二文字が彫られている。
『ナギ』
縁には少しささくれが残っていたが、文字の深さはそろっている。細い線の端まで、丁寧に削られていた。
「昨日買った鏨で彫ったのか?」
「ああ。夜、長屋でな」
「すげえじゃん。うまいな!」
「……別に。名前を彫っただけだ」
疾風は木札を持ち上げた。
小刀で大ざっぱに削った字とは違う。二文字とも同じ深さで、角はきれいに整えられていた。
「表札にするのか?」
「違う」
「じゃあ何に使うんだよ」
「持ってきたかっただけだ。俺の名前だからな」
ナギは木札を取り返し、前足で押さえた。
疾風はその様子を見て、少しだけ笑った。
「なら、なくすなよ。穴を開けて紐を通せば、道具袋にも付けられるぞ」
「勝手に穴を開けんな。どこを削るかは俺が決める」
「まだ何もしてねえだろ!」
受付係が契約書を指さした。
「では、署名をお願いします」
机の中央に線が一本引かれ、その左右に名前を書く欄があった。
「左に使い手、右に妖怪の名前を。それぞれご自身で書いてください」
疾風は筆を取った。
普段、荷札には何度も名前を書いている。それなのに、今日は一画目を下ろすまで妙に時間がかかった。
『風切疾風』
書き終えてみると、一文字目だけ少し太い。
「……まあ、読めるからいいか」
「お前、いつもより字がでけえな」
「緊張してねえよ!」
「緊張してるなんて言ってねえだろ」
ナギが筆を受け取る。
右側の欄を見たところで、前足が止まった。
「おい」
「何だよ」
「俺の欄、狭くねえか?」
疾風は契約書をのぞき込んだ。
確かに、中央の線から右端までの幅が、左側より少し狭い。
「俺の名前は四文字あるからな。お前は二文字だろ」
「文字の数じゃねえよ。名前を書く場所の話だ」
「じゃあ、大きく書けばいいだろ。お前の欄なんだから」
ナギは契約書をしばらく見つめていた。
それから前足で欄の幅を測り、筆を握り直す。
『ナギ』
二文字を大きく、ゆっくりと書いた。
疾風の四文字と、ほとんど同じ幅になっている。
「……どうだ」
「でかすぎねえか?」
「お前の字が細えんだよ」
「さっきはでかいって言っただろ!」
受付係が二人の名前を確かめた。
はみ出してはいない。
そう確認すると、契約書を中央へ戻した。
「では、最後にもう一度だけ伺います」
今度は、二人とも黙って役人を見た。
「風切疾風さん。ナギさんとの契約を、今もご自身の意思で望みますか」
「望む」
疾風はすぐに答えた。
「ナギさん。風切疾風さんとの契約を、今もご自身の意思で望みますか」
ナギは木札へ目を落とした。
そして、顔を上げる。
「……望む。言っとくけど、俺は何でも言うこと聞くわけじゃねえぞ」
「ええ。それは先ほど確認しました」
役人は少し笑い、立会いの印を持ち上げた。
朱肉に当て、契約書へ押す。
紙の上に、赤い印が残った。
その瞬間だった。
疾風は胸の奥で、何かがぴんと張るのを感じた。
細い糸を一本、体の内側に通されたような感覚だ。痛みはない。息を吸うと、そこだけが少し気になる。
「……ん?」
思わず胸へ手を当てた。
隣のナギを見る。
ナギは木札を抱えたまま、何事もなかったように契約書を見つめていた。
相手の考えていることが分かるわけではない。
ただ、さっきまでなかった感覚が残っている。
「どうかされましたか?」
役人に聞かれ、疾風は首を横に振った。
「いや。何か変な感じがして」
「契約が成立した直後ですからね。しばらくすれば落ち着くでしょう」
役人は契約書を持ち上げ、二人へ見せた。
「以上で正式契約は成立です。お二人は今日から契約者同士となりました」
疾風は契約書の真ん中を見た。
自分の名前と、ナギの名前。
二つが並んでいる。
「……これで終わりか?」
「手続きは終わりです。契約書の写しをお渡ししますので、大切に保管してください」
差し出された紙を受け取り、疾風は両端をそろえて折った。
荷札を扱うときと同じように、角が曲がらないよう気をつけながら腰の袋へしまう。
ナギも自分の写しを受け取り、木札と一緒に道具袋へ入れた。
「五十文も払ったんだから、なくすなよ」
「お前こそ、荷と一緒に川へ落とすなよ」
「いつの話してんだよ!」
「お前が八つのときだろ。聞いたぞ、その話」
「誰からだよ!」
ナギは答えず、先に机を離れた。
*
窓口を出たところで、疾風は立ち止まった。
「なあ、ナギ」
「何だ」
「もう試していいのか?」
「何を」
「契装だよ。お前、刃になるんだろ」
ナギは廊下を見回した。
役人が書類を抱えて行き交い、受付ではまだ何組も順番を待っている。
「ここでやる気か? 馬鹿、狭えだろ!」
「別に今すぐとは言ってねえよ」
「顔に書いてあるんだよ!」
その声を聞いたのか、先ほどの役人が廊下へ出てきた。
「風切さん、ナギさん。今日のうちは契装を控えなさい」
「駄目なのか?」
「禁止ではありません。ただ、契約したばかりの妖脈が落ち着くまで、一晩置くのが習わしです。初めてなら、なおさら急がない方がいいでしょう」
役人は一枚の紙を差し出した。
そこには契装の手順と、稽古場の場所が書かれていた。
「明日からは合同養成所の稽古場を使えます。最初はこの手順に従ってください」
「分かった。明日だな!」
「聞いてたのか。初めてなんだから慎重にやれって話だぞ」
「分かってるって!」
疾風は紙を折り、契約書の写しとは別の場所へしまった。
ナギは横から見上げる。
「絶対分かってねえだろ」
「お前、今日くらい素直に喜べねえのかよ」
「喜んでるだろ」
「どこが?」
「……お前、いちいち聞くな!」
ナギは尾を振り、先に階段へ向かった。
疾風はその後を追った。
忍務局の門を出ると、見慣れた都の通りが広がっている。頭上の高架荷路では何台もの荷車が走り、水路沿いには朝から働く人と妖怪が行き交っていた。
いつもと変わらない景色だ。
それなのに疾風は、腰の袋に入れた契約書の写しが気になって仕方なかった。
*
帰り道、ナギは長屋へ寄りたいと言い出した。
「何か忘れたのか?」
「帳面と道具だよ。今夜からお前の部屋に移るつもりだからな」
「え、今日から?」
「嫌なのか?」
「嫌じゃねえけど、俺の布団は狭いぞ」
「俺が占める場所なんて、尻尾の分くらいだろ」
「その尻尾が長えんだって!」
ナギは知らん顔で歩き続けた。
長屋へ着くと、廊下から鎌鼬たちの声が聞こえてくる。
「おう、ナギ。どうだった?」
「決まったのか?」
「お前の相手、あの人間か?」
ナギは振り返らずに答えた。
「決まったよ! あと、道ふさぐな!」
廊下へ伸びた尾を飛び越え、部屋へ入っていく。
疾風が入口で待っていると、しばらくしてナギが戻ってきた。背負っている袋が、先ほどより少し大きくなっている。
「それ、全部か?」
「全部だ」
「荷物少ねえな」
「お前みたいに、使わねえ綱まで持ち歩かねえんだよ」
「使うかもしれねえだろ!」
「五か月使ってねえだろ、その綱」
「何で知ってんだよ!」
ナギは得意そうに鼻を鳴らした。
道具袋には細い鏨があり、その隣には自分の帳面が収まっている。今朝の木札も、布に包んで大切にしまってあった。
二人は紺野屋へ向かって歩き出した。
途中の水場で、疾風が足を止める。
「そうだ。飯、食ってねえだろ」
「……そういや、まだだったな」
疾風は朝もらった包みを取り出した。
握り飯は二つとも残っている。
一つを二つに割って、ナギの前へ差し出した。
「ほら」
ナギは迷わず、大きい方を取った。
「おい、そっちの方がでかいだろ!」
「契約祝いだ。文句あんのか」
「誕生日なのは俺なんだけどな!」
「じゃあ、もう一個はお前が食えよ」
「そりゃそうするけど!」
ナギは何食わぬ顔で握り飯をかじった。
疾風も残りを食べながら、水場の縁へ腰を下ろす。背負い袋から母の帳面を出し、朝の頁を開いた。
『登録料 五十文』
その横へ、支払い済みの印を付ける。
残り、四貫八十文。
「……減ったなあ」
「お前はまだ持ってる方だろ」
「お前はいくら残ったんだ?」
「六十七文」
「うわ。少ねえ!」
「だから言ったろ。俺の銭の勘定は俺がするって」
ナギは自分の帳面を取り出し、登録料を書き込んだ。
疾風がのぞこうとすると、前足で頁を押さえる。
「見るなよ」
「いいじゃん。俺だって見せたんだし」
「お前が勝手に見せただけだろ」
「けち!」
「大事な銭だ」
ナギは帳面を閉じ、道具袋へしまった。
その動きを見て、疾風も自分の帳面を片づける。二人とも同じ仕事をしていても、財布は別だ。帳面も別で、使う道具も違う。
契約したからといって、それが一つになるわけではなかった。
「そういや、お前の木札さ」
「何だよ」
「そのうち、店の看板にも名前を彫ってくれよ」
「お前の店か?」
「ああ。いつか出すんだ。自分の名前の店」
「知ってるよ。何度も聞いた」
「そのときは、お前の名前も入れればいいだろ」
ナギは握り飯を食べる手を止めた。
「……俺のも?」
「一緒に働くなら、そうなるだろ」
「勝手に決めんなよ」
「嫌なのか?」
「そうじゃねえけど」
ナギは少し考えてから、前足を広げた。
「俺の名前、小さく書いたら承知しねえからな」
「お前、二文字しかねえだろ!」
「だから文字数の話じゃねえって!」
疾風は笑った。
ナギは不満そうに尾を振っていたが、やがて残った握り飯を口へ運んだ。
食べ終わると、二人は荷物をまとめて歩き出した。
紺野屋までは、あと少し。
坂の途中で、ナギが疾風の肩へ跳び乗った。
「おい、重いぞ」
「鎌鼬一匹で重いって、荷運び失格だな」
「お前が動くからだよ!」
ナギは長い尾を疾風の首へゆるく回し、座り直した。
高架荷路の上では、車輪が鉄の継ぎ目を踏んでいる。下の道にも荷車が続き、焼き栗の匂いが風に乗って流れてきた。
疾風は肩に乗ったナギを見ようとしたが、顔を向けると長い尾が頬に当たった。
「おい、尻尾!」
「前見て歩け」
「お前が邪魔なんだって!」
ナギは尾を少し引っ込めた。
それから疾風の耳元で、小さく言った。
「明日、試すぞ。……落とすなよ」




