第8話 自分の名前で
鎌鼬の長屋では、朝になると廊下に尻尾が増える。
央都の北区。二月の末日、ナギは自分の部屋の戸を開け、向かいから伸びてきた灰色の尾をまたいだ。
細長い廊下では、仕事へ出る鎌鼬たちが行き交っている。道具袋を背負う者もいれば、部屋の入口に座って朝飯を食べる者もいた。
「おい、そこ通るぞ」
「見りゃ分かるだろ。飛び越えろ」
「荷物持ってんだよ」
向かいの鎌鼬は面倒そうに尾を引っ込めた。
ナギが通り過ぎると、今度は別の部屋から長い尾が二本突き出した。廊下の幅は人間一人が通れるほどあるのに、朝になると歩く場所がなくなる。
「朝から邪魔くせえな、この長屋」
「お前も昨日、廊下で寝てただろ」
「俺はちょっと休んでただけだ!」
言い返してから、ナギは一度部屋へ戻った。
隅の棚には小さな帳面が置いてある。表紙の端には自分で削った薄い金具が留めてあり、そこへ前足を引っ掛けると紙をめくりやすい。
ナギは昨日までの稼ぎを確かめた。
紺野屋の荷運び、金物屋から引き受けた修理、細工の師匠の手伝い。それぞれの収入を別の欄に書き、家賃と飯代も忘れずに引いてある。
残りは一貫十四文。
長屋の家賃は今月分を払ってある。今日の仕事が終われば、もう少し増えるはずだった。
明日、風切疾風は十六歳になる。
契約の登録料は、自分の分だけで五十文。払えない額ではないが、貯めてきた金が一度に減るのは面白くなかった。
「五十文か。高えなあ」
小さな財布を持ち上げ、もう一度重さを確かめる。
あの馬鹿と組めば、今より遠くの仕事も受けられるかもしれない。だが、登録料を払ったからといって稼ぎが増える保証はない。
そもそも、本当に組むと決めたわけでもなかった。
ナギは帳面を閉じ、道具袋へしまった。
共同の台所へ行くと、年上の鎌鼬が竈の火を見ていた。長屋では古株の一匹で、仕事に出る若い者へ何かと口を出してくる。
「今日は紺野屋か」
「昼からだ。午前中は細工の店に寄る」
「忙しいな。何もそこまで働かなくてもいいだろ」
「働かなきゃ銭は増えねえよ」
ナギは朝飯の椀を受け取り、空いている場所へ座った。
温かい汁を飲み終えるころ、年上の鎌鼬が火から目を離さずに言った。
「忍務局へ申込書を出したそうだな」
ナギの前足が止まった。
「誰に聞いた?」
「受付へ行くところを見た奴がいる。お前、契約するつもりなのか」
「希望を書いただけだ。まだ決まってねえよ」
「相手は人間だろ」
ナギは椀を置いた。
年上の鎌鼬は薪を一本、火の中へ押し込んだ。
「人間の道具になる気か」
「道具になりたくて申し込んだわけじゃねえ」
「契装したら、お前の体は刃になる。誰かに握られて、誰かのために振られるんだぞ」
「知ってる」
「刃が欠けたら、お前が怪我をする。使い手が無茶をすれば巻き込まれる。ここで荷を運んで、細工をしてるだけなら、そんな心配はいらねえ」
ナギは火のそばに座ったまま、相手の話を聞いた。
長屋には契約して働く者も、契約せずに暮らす者もいる。
契約した仲間が怪我をして戻ってきたこともあった。治るまで荷運びすらできず、部屋で寝込んでいた姿を覚えている。
「じゃあ、お前は契約しねえのか」
「しねえよ。今の暮らしで足りてる」
「俺は足りねえんだよ」
言ってから、ナギは口を閉じた。
年上の鎌鼬がこちらを見る。
「何が足りねえんだ」
「……別に。お前には関係ねえだろ」
ナギは立ち上がり、道具袋を背負った。
「細工の店に遅れる。火、頼むぞ」
「話はまだ終わってねえ」
「俺の仕事は始まってんだよ」
廊下を抜けると、外の空気は冷たかった。
ナギは石畳を一間ほど跳び、金物通りへ向かった。
*
金物通りの端にある細工の店では、朝から金属を削る音がしていた。
壁際の棚には大小の部品が並び、作業台には直し待ちの留め具や金具が積まれている。荷札を通す小さな輪から、荷車の車輪を固定する金具まで、大きさも形もばらばらだった。
ナギは店へ入ると、奥で仕事をしている師匠に声をかけた。
「今日の分、何をやればいい?」
「そこに留め金が三つある。曲がった所を直せ。薄くしすぎるなよ」
「分かってる」
最初の金具は片側が曲がり、端には使い込まれた傷が付いていた。
ナギは木片の溝へ金具を固定し、道具袋から鏨を取り出した。
まず曲がった部分を少しずつ戻す。次に端の出っ張りを削ろうとしたところで、師匠の声が飛んできた。
「おい、そっちは削るな」
「何でだよ。そこが引っ掛かってんだろ」
「削れば引っ掛からなくなる。だが、留める力もなくなるぞ」
ナギは手を止めた。
横から見ると、確かに出っ張りが邪魔だった。だが、その根元は荷を支える部分とつながっている。
ここを薄くすれば、力が掛かったときに曲がりやすくなる。
「……なるほどな」
「形だけ真っすぐにしても、仕事をしなきゃ意味がない」
「分かった。別の所から直す」
師匠はそれ以上言わず、別の金具へ手を伸ばした。
ナギは金具を裏返し、削る位置を変えた。出っ張りの根元ではなく、表面にできた傷を少しずつ整えていく。
しばらくして、留め金は元の形に近づいた。
「できたぞ」
師匠は金具を受け取り、何度か曲げ伸ばしをした。
「悪くない。まだ端が少し引っ掛かるが、これなら使える」
「そこは磨けば取れる」
「そうだ。最後までやれ」
ナギは金具を受け取り、細い布で表面を磨いた。
こういう仕事が好きだった。
どこが悪いのかを見つけ、どう直せば使えるかを考える。自分の手で直した部品を、依頼主が持って帰る。
それで誰かの荷車が、また走れるようになる。
午前中に留め金を三つ仕上げた。
師匠は一つずつ動きを確かめ、ナギへ六文を渡した。
「今日の分だ。午後は紺野屋だろ」
「ああ。倉の整理を頼まれてる」
「忙しいな。あの店は荷の方から増えてくるからな」
「知ってる。疾風が毎回、追加の手間賃を値切ってる」
「値切ってくれるなら、ありがたいじゃないか」
「まあな。あいつ、銭の話になると急に頭が回るからな」
ナギは六文を財布へしまった。
店を出ようとすると、師匠が奥の棚から小さな道具箱を取り出した。
「そうだ。細い鏨が欲しいって言ってたな」
ナギは足を止めた。
「名前を彫るやつか?」
「入ってるぞ。普通の金具を削るには細すぎるが、木札にはちょうどいい」
師匠は箱を開き、布に包まれた鏨を見せた。
今使っている物より刃先が細い。柄の部分も小さく、ナギの前足なら扱いやすそうだった。
「いくらだ?」
「十二文」
「高え」
「切れ味を見てから言え」
師匠は箱を閉じた。
ナギはしばらく棚を見ていたが、やがて頷いた。
「仕事が終わったら、また来る」
*
紺野屋へ着いたとき、荷場には疾風の姿がなかった。
帳場ではお紺が算盤を弾いている。壁に掛かった荷札は半分ほどなくなり、朝の便が出たあとだと分かった。
「お紺さん。今日の荷は?」
「倉の整理を頼むよ。箱が多いから、数を間違えないでおくれ」
「疾風は?」
「あの子なら朝から別の便だよ。あんたが来るまで待たせるほど、うちは暇じゃないからね」
「別に待ってろなんて言ってねえよ」
ナギは倉の前へ向かった。
荷札を種類ごとに分け、同じ行き先の箱をまとめる。重い箱の下へ軽い物が入り込んでいれば、積み直しておかなければならない。
お紺が荷場へ出てきたのは、作業を始めて間もなくのことだった。
「そういえば、昨日の話を聞いたかい」
「何だよ」
「風切が荷を庇って転んだのさ」
ナギは振り返った。
「転んだ?」
「荷車が段差で跳ねてね。箱が落ちそうになったところへ、あの子が先に手を出したんだと」
「……で?」
「箱は無事だったよ。本人は派手に尻もちをついたらしいけどね」
「どこを怪我したんだ?」
「擦り傷くらいだよ。今日はもう普通に働いてる」
ナギは息を吐いた。
「馬鹿じゃねえの」
「まあ、荷を守ろうとしたのは分かるけどね。自分が怪我したら仕事にならないよ」
お紺は帳面を閉じた。
「そんなに気になるなら、本人に言ってやりな。あんたの言うことなら、少しは聞くだろ」
「聞かねえよ、あいつは」
ナギは箱の陰へ戻った。
疾風なら、やりかねない。
荷車が傾けば先に荷へ手を伸ばす。箱が落ちそうになれば、自分の足場を後回しにする。
五か月も一緒に働けば、嫌というほど見てきた。
ナギは箱を一つ動かし、荷札を確かめた。
契約したら、自分は刃になる。
疾風が危ない場所へ踏み込めば、その手の中に自分もいることになる。止まれと言うことはできるだろう。だが、言っただけで必ず止まってくれるとは限らない。
昨日の荷車には、ナギは乗っていなかった。
疾風が転んだことを、お紺から聞くまで知らなかったのだ。
ナギは次の箱へ前足を掛けた。
もし同じ荷台にいたら、何かできただろうか。
車輪が段差へ乗る前に知らせることはできたかもしれない。だが、箱が落ちる瞬間に疾風が飛び出せば、自分だって間に合うとは限らない。
ナギは荷札を一枚、持ち直した。
契約せずにいれば、こんな心配をする必要はない。
細工の仕事を続け、自分の金で飯を食い、好きな所へ出かければいい。
けれど、都から遠く離れた場所へ行くには、運送の仕事も限られている。
疾風は、いつか自分の店を持つと言っていた。
荷運びだけでなく、道で困っている者を助ける仕事もしたいらしい。
あの馬鹿なら、店を持つ前にあちこちへ首を突っ込むに決まっている。
「……だからって、あいつと組む必要はねえけどな」
ナギは最後の箱を荷台へ載せた。
夕方、お紺が倉の荷札を数え終えると、今日の手間賃として二十文を渡してきた。
「全部そろってるね。ご苦労さん」
「数は合ってる。重い箱も下へ移しておいた」
「助かるよ。明日も頼むね」
「明日はちょっと用事がある」
「そうかい。じゃあ、終わったら顔を出しな」
お紺はそれ以上聞かなかった。
ナギは二十文を自分の財布へしまった。今日は細工の六文と合わせて二十六文稼いだことになる。
あとは、夕飯を食べて帰るだけだ。
ただし、もう一つ寄りたい店があった。
*
帰り道、焼き栗屋のおやじが店じまいをしていた。
小さな屋台の横には栗の殻が山になっている。焼けた甘い匂いに、ナギは足を止めた。
「おやじ。一袋くれ」
「おう、ナギか。今日は遅いな」
「細工の店へ寄るんだよ。まだ開いてるだろ?」
「開いてるさ。あの親方は暗くなってからも仕事してるからな」
おやじは焼き栗を紙袋へ入れ、ナギの前へ差し出した。
「二文だ」
「分かってる」
ナギは財布から二文を出した。
おやじは受け取ると、残っていた栗を一粒だけ袋へ足した。
「余りだ。持ってけ」
「何だよ、珍しいな」
「今日の最後の客だからな」
ナギは紙袋をくわえ、屋台の横の小さな台へ上がった。
「なあ、おやじ」
「何だ?」
「俺が契約したら、ここの栗、買えなくなると思うか?」
おやじは片づける手を止めた。
「どうしてだ?」
「仕事が増えるだろ。都の外へ行くこともある。いつ帰ってくるか分かんねえ」
「そりゃ、商売としては困るな」
おやじは真顔で言った。
「お前は週に何度も買ってくれるからな。売り上げが減る」
「そこかよ!」
「ほかに何がある?」
ナギは栗を一粒かじった。
「まあ、そうだよな」
「遠くへ行くなら、ちゃんと稼いで帰ってこい。土産は栗よりうまい物を頼むぞ」
「そんなもん、俺が食うに決まってるだろ」
「なら二つ買ってこい」
おやじは笑い、空になった籠を屋台へ載せた。
ナギは袋の栗をもう一粒食べた。
遠くへ行けば、この町とは違う金具を使う店もあるだろう。海の向こうでは、鎌鼬の里にはない道具が作られていると聞いたことがある。
自分の目で見てみたい。
そう思う気持ちは、都へ来たころから変わっていない。
ただ、契約して刃になったらどうなるのか。
戦いで傷を負い、今のように細工ができなくなったら。
尾を失えば、どうなる。
刃が欠ければ、どうなる。
荷を運べなくなった自分を、疾風はどう扱うのか。
ナギは道具袋へ前足を当てた。
長屋では自分の名前で部屋を借り、紺野屋では自分の名義で日当を受け取っている。細工の師匠も、ナギが直した分だけ銭を払ってくれる。
この暮らしを、手放すつもりはなかった。
契約するなら、細工も続ける。
稼いだ銭は自分の帳面に書く。
行き先だって、相手に全部決めさせるつもりはない。
ナギは残った栗を袋へ戻し、金物通りへ向かった。
細工の店には、まだ灯りがついていた。
「来たか」
「昼の鏨、見せてくれ」
師匠は棚から小さな箱を下ろした。
中には、布で包まれた細い鏨が一本入っている。刃先は薄く、普段使う物よりずっと細い。
「名前を彫るには、これくらいがいい。力を入れすぎると木が割れるから、浅く削れ」
「俺の前足でも使えるか?」
「持ってみな」
ナギは鏨を受け取った。
柄はちょうどよい太さで、前足の中で滑らない。刃先を灯りへ向けると、細い線が光った。
「いいな、これ」
「十二文だ」
「もう少しまけてくれよ」
「昼に言ったろ。切れ味を見てから決めろって」
「見たら欲しくなったんだよ」
「じゃあ十二文だな」
師匠は少しも値を変えなかった。
ナギは鏨を布へ戻した。
「なあ、師匠」
「何だ?」
「俺、明日、契約するかもしれねえ」
師匠は箱を閉じかけた手を止めた。
「誰とだ?」
「まだ決まってねえ」
「そうか」
それだけ言って、箱を机へ戻した。
ナギは少し拍子抜けした。
「止めねえのか?」
「止めたらやめるのか?」
「やめねえよ」
「なら、止める理由がない」
師匠は作業台の金具を一つ取り上げた。
「ただし、うちの仕事はどうする。契約したら来なくなるのか?」
「続ける。荷運びも細工も、両方やる」
「それなら今までどおりだ。仕事ができる日に来い」
ナギは小さく頷いた。
「分かった」
「それで、鏨は買うのか?」
「買う」
「十二文」
「しつけえな!」
ナギは財布を開いた。
朝の残高は一貫十四文。
今日の稼ぎが二十六文。三食の飯代が九文、焼き栗が二文。そこから鏨の十二文を払えば、残りは一貫十七文になる。
明日の登録料は五十文。
払ったとしても、まだ銭は残る。
それでも、簡単に決めていい額ではなかった。
ナギは十二文を机へ並べた。
師匠は数を確かめ、鏨を包み直した。
「ほら。大事に使え」
ナギは包みを受け取った。
誰かから借りた物でも、契約のために与えられた物でもない。自分で働いて、自分の銭で買った一本だった。
道具袋の口を開け、ほかの道具とぶつからないよう布を挟んでしまう。
「明日、それで何を彫るんだ?」
師匠が聞いた。
ナギは店の戸口まで行き、振り返った。
「名前だよ。俺の」
師匠はそれ以上聞かなかった。
ナギは最後の焼き栗をくわえ、長屋へ戻った。
部屋へ着くと、買ったばかりの鏨を取り出した。机の端には、少し前から削っておいた小さな木札が置いてある。
試しに刃先を当てると、木の表面が薄くめくれた。
ナギは鏨を持ち直した。
まず、自分の名前から彫ることにした。




