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百鬼夜行 ~少年忍者と毒舌鎌鼬の物語~  作者: MIYA
第1部「峠見宿」

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8/21

第8話 自分の名前で

鎌鼬(かまいたち)の長屋では、朝になると廊下に尻尾が増える。


 央都(おうと)の北区。二月の末日、ナギは自分の部屋の戸を開け、向かいから伸びてきた灰色の尾をまたいだ。


 細長い廊下では、仕事へ出る鎌鼬たちが行き交っている。道具袋を背負う者もいれば、部屋の入口に座って朝飯を食べる者もいた。


「おい、そこ通るぞ」


「見りゃ分かるだろ。飛び越えろ」


「荷物持ってんだよ」


 向かいの鎌鼬は面倒そうに尾を引っ込めた。


 ナギが通り過ぎると、今度は別の部屋から長い尾が二本突き出した。廊下の幅は人間一人が通れるほどあるのに、朝になると歩く場所がなくなる。


「朝から邪魔くせえな、この長屋」


「お前も昨日、廊下で寝てただろ」


「俺はちょっと休んでただけだ!」


 言い返してから、ナギは一度部屋へ戻った。


 隅の棚には小さな帳面が置いてある。表紙の端には自分で削った薄い金具が留めてあり、そこへ前足を引っ掛けると紙をめくりやすい。


 ナギは昨日までの稼ぎを確かめた。


 紺野屋(こんのや)の荷運び、金物屋から引き受けた修理、細工の師匠の手伝い。それぞれの収入を別の欄に書き、家賃と飯代も忘れずに引いてある。


 残りは一貫十四文。


 長屋の家賃は今月分を払ってある。今日の仕事が終われば、もう少し増えるはずだった。


 明日、風切疾風(かざきりはやて)は十六歳になる。


 契約の登録料は、自分の分だけで五十文。払えない額ではないが、貯めてきた金が一度に減るのは面白くなかった。


「五十文か。高えなあ」


 小さな財布を持ち上げ、もう一度重さを確かめる。


 あの馬鹿と組めば、今より遠くの仕事も受けられるかもしれない。だが、登録料を払ったからといって稼ぎが増える保証はない。


 そもそも、本当に組むと決めたわけでもなかった。


 ナギは帳面を閉じ、道具袋へしまった。


 共同の台所へ行くと、年上の鎌鼬が竈(かまど)の火を見ていた。長屋では古株の一匹で、仕事に出る若い者へ何かと口を出してくる。


「今日は紺野屋か」


「昼からだ。午前中は細工の店に寄る」


「忙しいな。何もそこまで働かなくてもいいだろ」


「働かなきゃ銭は増えねえよ」


 ナギは朝飯の椀を受け取り、空いている場所へ座った。


 温かい汁を飲み終えるころ、年上の鎌鼬が火から目を離さずに言った。


「忍務局へ申込書を出したそうだな」


 ナギの前足が止まった。


「誰に聞いた?」


「受付へ行くところを見た奴がいる。お前、契約するつもりなのか」


「希望を書いただけだ。まだ決まってねえよ」


「相手は人間だろ」


 ナギは椀を置いた。


 年上の鎌鼬は薪を一本、火の中へ押し込んだ。


「人間の道具になる気か」


「道具になりたくて申し込んだわけじゃねえ」


「契装したら、お前の体は刃になる。誰かに握られて、誰かのために振られるんだぞ」


「知ってる」


「刃が欠けたら、お前が怪我をする。使い手が無茶をすれば巻き込まれる。ここで荷を運んで、細工をしてるだけなら、そんな心配はいらねえ」


 ナギは火のそばに座ったまま、相手の話を聞いた。


 長屋には契約して働く者も、契約せずに暮らす者もいる。


 契約した仲間が怪我をして戻ってきたこともあった。治るまで荷運びすらできず、部屋で寝込んでいた姿を覚えている。


「じゃあ、お前は契約しねえのか」


「しねえよ。今の暮らしで足りてる」


「俺は足りねえんだよ」


 言ってから、ナギは口を閉じた。


 年上の鎌鼬がこちらを見る。


「何が足りねえんだ」


「……別に。お前には関係ねえだろ」


 ナギは立ち上がり、道具袋を背負った。


「細工の店に遅れる。火、頼むぞ」


「話はまだ終わってねえ」


「俺の仕事は始まってんだよ」


 廊下を抜けると、外の空気は冷たかった。


 ナギは石畳を一間ほど跳び、金物通りへ向かった。


*


 金物通りの端にある細工の店では、朝から金属を削る音がしていた。


 壁際の棚には大小の部品が並び、作業台には直し待ちの留め具や金具が積まれている。荷札を通す小さな輪から、荷車の車輪を固定する金具まで、大きさも形もばらばらだった。


 ナギは店へ入ると、奥で仕事をしている師匠に声をかけた。


「今日の分、何をやればいい?」


「そこに留め金が三つある。曲がった所を直せ。薄くしすぎるなよ」


「分かってる」


 最初の金具は片側が曲がり、端には使い込まれた傷が付いていた。


 ナギは木片の溝へ金具を固定し、道具袋から鏨(たがね)を取り出した。


 まず曲がった部分を少しずつ戻す。次に端の出っ張りを削ろうとしたところで、師匠の声が飛んできた。


「おい、そっちは削るな」


「何でだよ。そこが引っ掛かってんだろ」


「削れば引っ掛からなくなる。だが、留める力もなくなるぞ」


 ナギは手を止めた。


 横から見ると、確かに出っ張りが邪魔だった。だが、その根元は荷を支える部分とつながっている。


 ここを薄くすれば、力が掛かったときに曲がりやすくなる。


「……なるほどな」


「形だけ真っすぐにしても、仕事をしなきゃ意味がない」


「分かった。別の所から直す」


 師匠はそれ以上言わず、別の金具へ手を伸ばした。


 ナギは金具を裏返し、削る位置を変えた。出っ張りの根元ではなく、表面にできた傷を少しずつ整えていく。


 しばらくして、留め金は元の形に近づいた。


「できたぞ」


 師匠は金具を受け取り、何度か曲げ伸ばしをした。


「悪くない。まだ端が少し引っ掛かるが、これなら使える」


「そこは磨けば取れる」


「そうだ。最後までやれ」


 ナギは金具を受け取り、細い布で表面を磨いた。


 こういう仕事が好きだった。


 どこが悪いのかを見つけ、どう直せば使えるかを考える。自分の手で直した部品を、依頼主が持って帰る。


 それで誰かの荷車が、また走れるようになる。


 午前中に留め金を三つ仕上げた。


 師匠は一つずつ動きを確かめ、ナギへ六文を渡した。


「今日の分だ。午後は紺野屋だろ」


「ああ。倉の整理を頼まれてる」


「忙しいな。あの店は荷の方から増えてくるからな」


「知ってる。疾風が毎回、追加の手間賃を値切ってる」


「値切ってくれるなら、ありがたいじゃないか」


「まあな。あいつ、銭の話になると急に頭が回るからな」


 ナギは六文を財布へしまった。


 店を出ようとすると、師匠が奥の棚から小さな道具箱を取り出した。


「そうだ。細い鏨が欲しいって言ってたな」


 ナギは足を止めた。


「名前を彫るやつか?」


「入ってるぞ。普通の金具を削るには細すぎるが、木札にはちょうどいい」


 師匠は箱を開き、布に包まれた鏨を見せた。


 今使っている物より刃先が細い。柄の部分も小さく、ナギの前足なら扱いやすそうだった。


「いくらだ?」


「十二文」


「高え」


「切れ味を見てから言え」


 師匠は箱を閉じた。


 ナギはしばらく棚を見ていたが、やがて頷(うなず)いた。


「仕事が終わったら、また来る」


*


 紺野屋へ着いたとき、荷場には疾風の姿がなかった。


 帳場ではお紺が算盤を弾いている。壁に掛かった荷札は半分ほどなくなり、朝の便が出たあとだと分かった。


「お紺さん。今日の荷は?」


「倉の整理を頼むよ。箱が多いから、数を間違えないでおくれ」


「疾風は?」


「あの子なら朝から別の便だよ。あんたが来るまで待たせるほど、うちは暇じゃないからね」


「別に待ってろなんて言ってねえよ」


 ナギは倉の前へ向かった。


 荷札を種類ごとに分け、同じ行き先の箱をまとめる。重い箱の下へ軽い物が入り込んでいれば、積み直しておかなければならない。


 お紺が荷場へ出てきたのは、作業を始めて間もなくのことだった。


「そういえば、昨日の話を聞いたかい」


「何だよ」


「風切が荷を庇(かば)って転んだのさ」


 ナギは振り返った。


「転んだ?」


「荷車が段差で跳ねてね。箱が落ちそうになったところへ、あの子が先に手を出したんだと」


「……で?」


「箱は無事だったよ。本人は派手に尻もちをついたらしいけどね」


「どこを怪我したんだ?」


「擦り傷くらいだよ。今日はもう普通に働いてる」


 ナギは息を吐いた。


「馬鹿じゃねえの」


「まあ、荷を守ろうとしたのは分かるけどね。自分が怪我したら仕事にならないよ」


 お紺は帳面を閉じた。


「そんなに気になるなら、本人に言ってやりな。あんたの言うことなら、少しは聞くだろ」


「聞かねえよ、あいつは」


 ナギは箱の陰へ戻った。


 疾風なら、やりかねない。


 荷車が傾けば先に荷へ手を伸ばす。箱が落ちそうになれば、自分の足場を後回しにする。


 五か月も一緒に働けば、嫌というほど見てきた。


 ナギは箱を一つ動かし、荷札を確かめた。


 契約したら、自分は刃になる。


 疾風が危ない場所へ踏み込めば、その手の中に自分もいることになる。止まれと言うことはできるだろう。だが、言っただけで必ず止まってくれるとは限らない。


 昨日の荷車には、ナギは乗っていなかった。


 疾風が転んだことを、お紺から聞くまで知らなかったのだ。


 ナギは次の箱へ前足を掛けた。


 もし同じ荷台にいたら、何かできただろうか。


 車輪が段差へ乗る前に知らせることはできたかもしれない。だが、箱が落ちる瞬間に疾風が飛び出せば、自分だって間に合うとは限らない。


 ナギは荷札を一枚、持ち直した。


 契約せずにいれば、こんな心配をする必要はない。


 細工の仕事を続け、自分の金で飯を食い、好きな所へ出かければいい。


 けれど、都から遠く離れた場所へ行くには、運送の仕事も限られている。


 疾風は、いつか自分の店を持つと言っていた。


 荷運びだけでなく、道で困っている者を助ける仕事もしたいらしい。


 あの馬鹿なら、店を持つ前にあちこちへ首を突っ込むに決まっている。


「……だからって、あいつと組む必要はねえけどな」


 ナギは最後の箱を荷台へ載せた。


 夕方、お紺が倉の荷札を数え終えると、今日の手間賃として二十文を渡してきた。


「全部そろってるね。ご苦労さん」


「数は合ってる。重い箱も下へ移しておいた」


「助かるよ。明日も頼むね」


「明日はちょっと用事がある」


「そうかい。じゃあ、終わったら顔を出しな」


 お紺はそれ以上聞かなかった。


 ナギは二十文を自分の財布へしまった。今日は細工の六文と合わせて二十六文稼いだことになる。


 あとは、夕飯を食べて帰るだけだ。


 ただし、もう一つ寄りたい店があった。


*


 帰り道、焼き栗屋のおやじが店じまいをしていた。


 小さな屋台の横には栗の殻が山になっている。焼けた甘い匂いに、ナギは足を止めた。


「おやじ。一袋くれ」


「おう、ナギか。今日は遅いな」


「細工の店へ寄るんだよ。まだ開いてるだろ?」


「開いてるさ。あの親方は暗くなってからも仕事してるからな」


 おやじは焼き栗を紙袋へ入れ、ナギの前へ差し出した。


「二文だ」


「分かってる」


 ナギは財布から二文を出した。


 おやじは受け取ると、残っていた栗を一粒だけ袋へ足した。


「余りだ。持ってけ」


「何だよ、珍しいな」


「今日の最後の客だからな」


 ナギは紙袋をくわえ、屋台の横の小さな台へ上がった。


「なあ、おやじ」


「何だ?」


「俺が契約したら、ここの栗、買えなくなると思うか?」


 おやじは片づける手を止めた。


「どうしてだ?」


「仕事が増えるだろ。都の外へ行くこともある。いつ帰ってくるか分かんねえ」


「そりゃ、商売としては困るな」


 おやじは真顔で言った。


「お前は週に何度も買ってくれるからな。売り上げが減る」


「そこかよ!」


「ほかに何がある?」


 ナギは栗を一粒かじった。


「まあ、そうだよな」


「遠くへ行くなら、ちゃんと稼いで帰ってこい。土産は栗よりうまい物を頼むぞ」


「そんなもん、俺が食うに決まってるだろ」


「なら二つ買ってこい」


 おやじは笑い、空になった籠を屋台へ載せた。


 ナギは袋の栗をもう一粒食べた。


 遠くへ行けば、この町とは違う金具を使う店もあるだろう。海の向こうでは、鎌鼬の里にはない道具が作られていると聞いたことがある。


 自分の目で見てみたい。


 そう思う気持ちは、都へ来たころから変わっていない。


 ただ、契約して刃になったらどうなるのか。


 戦いで傷を負い、今のように細工ができなくなったら。


 尾を失えば、どうなる。


 刃が欠ければ、どうなる。


 荷を運べなくなった自分を、疾風はどう扱うのか。


 ナギは道具袋へ前足を当てた。


 長屋では自分の名前で部屋を借り、紺野屋では自分の名義で日当を受け取っている。細工の師匠も、ナギが直した分だけ銭を払ってくれる。


 この暮らしを、手放すつもりはなかった。


 契約するなら、細工も続ける。


 稼いだ銭は自分の帳面に書く。


 行き先だって、相手に全部決めさせるつもりはない。


 ナギは残った栗を袋へ戻し、金物通りへ向かった。


 細工の店には、まだ灯りがついていた。


「来たか」


「昼の鏨、見せてくれ」


 師匠は棚から小さな箱を下ろした。


 中には、布で包まれた細い鏨が一本入っている。刃先は薄く、普段使う物よりずっと細い。


「名前を彫るには、これくらいがいい。力を入れすぎると木が割れるから、浅く削れ」


「俺の前足でも使えるか?」


「持ってみな」


 ナギは鏨を受け取った。


 柄はちょうどよい太さで、前足の中で滑らない。刃先を灯りへ向けると、細い線が光った。


「いいな、これ」


「十二文だ」


「もう少しまけてくれよ」


「昼に言ったろ。切れ味を見てから決めろって」


「見たら欲しくなったんだよ」


「じゃあ十二文だな」


 師匠は少しも値を変えなかった。


 ナギは鏨を布へ戻した。


「なあ、師匠」


「何だ?」


「俺、明日、契約するかもしれねえ」


 師匠は箱を閉じかけた手を止めた。


「誰とだ?」


「まだ決まってねえ」


「そうか」


 それだけ言って、箱を机へ戻した。


 ナギは少し拍子抜けした。


「止めねえのか?」


「止めたらやめるのか?」


「やめねえよ」


「なら、止める理由がない」


 師匠は作業台の金具を一つ取り上げた。


「ただし、うちの仕事はどうする。契約したら来なくなるのか?」


「続ける。荷運びも細工も、両方やる」


「それなら今までどおりだ。仕事ができる日に来い」


 ナギは小さく頷いた。


「分かった」


「それで、鏨は買うのか?」


「買う」


「十二文」


「しつけえな!」


 ナギは財布を開いた。


 朝の残高は一貫十四文。


 今日の稼ぎが二十六文。三食の飯代が九文、焼き栗が二文。そこから鏨の十二文を払えば、残りは一貫十七文になる。


 明日の登録料は五十文。


 払ったとしても、まだ銭は残る。


 それでも、簡単に決めていい額ではなかった。


 ナギは十二文を机へ並べた。


 師匠は数を確かめ、鏨を包み直した。


「ほら。大事に使え」


 ナギは包みを受け取った。


 誰かから借りた物でも、契約のために与えられた物でもない。自分で働いて、自分の銭で買った一本だった。


 道具袋の口を開け、ほかの道具とぶつからないよう布を挟んでしまう。


「明日、それで何を彫るんだ?」


 師匠が聞いた。


 ナギは店の戸口まで行き、振り返った。


「名前だよ。俺の」


 師匠はそれ以上聞かなかった。


 ナギは最後の焼き栗をくわえ、長屋へ戻った。


 部屋へ着くと、買ったばかりの鏨を取り出した。机の端には、少し前から削っておいた小さな木札が置いてある。


 試しに刃先を当てると、木の表面が薄くめくれた。


 ナギは鏨を持ち直した。


 まず、自分の名前から彫ることにした。

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