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百鬼夜行 ~少年忍者と毒舌鎌鼬の物語~  作者: MIYA
第1部「峠見宿」

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第10話 ちゃんと止まれよ

箒(ほうき)の柄が、みしりと鳴った。


 三月二日の朝。央都(おうと)の合同養成所で、風切疾風(かざきりはやて)は手にした箒を見下ろしていた。


 昨日、十六歳になったばかりだ。


 鎌鼬(かまいたち)のナギと正式に契約し、今日は初めて契装(けいそう)を試すことになっている。その前に武器の握り方を確かめようとしたところ、力を入れすぎて柄がきしんでしまった。


「おい。そいつは掃除道具だぞ」


 足元からナギが声をかけた。


 灰茶色の毛に白い腹。額には細い白筋が一本あり、長い尾が地面の上を揺れている。


「分かってるって。刃になったお前を落とさねえように練習してんだよ」


「握り潰す練習か? 俺を壊す気なら先に言え」


「違うっての!」


 疾風は箒を持ち直した。


 強く握れば滑らなくなると思っていたが、木がきしむほど力を入れる必要はないのかもしれない。


 訓練場の向こうには木の柵があり、河童の子どもが二人ぶら下がっていた。大人の稽古を見に来たらしいが、まだ何も始まっていないので退屈そうにしている。


「兄ちゃん、その箒で戦うの?」


「違う! これから武器になるんだよ!」


「箒が?」


「俺がだよ!」


 ナギが怒鳴ると、子どもたちは声を上げて笑った。


 そこへ箒の持ち主である年寄りが戻ってきた。訓練場を掃除している老人で、柄の握り方を試したいと言った疾風に箒を貸してくれていた。


「そろそろ返してくれるかね。落ち葉がまだ残っとるんじゃ」


「あっ、悪い! ありがとう!」


 疾風が箒を返すと、老人は柄を確かめて苦笑した。


「ずいぶん力が入っとったようじゃな」


「ちょっとだけだって!」


「そうかい。まあ、壊れとらんからよしとしよう」


 老人は箒を肩に担ぎ、訓練場の端へ戻っていった。


 正式契約を終えたばかりの者は、合同養成所の稽古場を十日間借りられる。ただし、教官が付きっきりで教えてくれるわけではない。


 二人が頼れるのは、忍務局でもらった手順書と自分たちの体だけだ。


 疾風は腰の袋から紙を取り出した。


「ええと……手を差し出す。妖怪が触れる。変わるのは妖怪の方から」


「昨日も読んだだろ」


「初めてなんだから、間違えたくねえじゃん」


「俺だって初めてだ。失敗したらやり直せばいい」


「お前、結構気楽だよな」


「心配してても始まらねえだろ」


 疾風は手順書を畳み、袋へ戻した。


 妹のこよりが縫ってくれた袋は腰の左側にある。中の荷札と小刀が動かないよう口を結び直し、足元のナギへ右手を差し出す。


「じゃあ、頼むぞ」


「おう。しっかり持てよ」


 ナギが前足を上げた。


*


 柔らかな毛が疾風の掌に触れた。


 次の瞬間、ナギの体が形を変え始めた。


 灰茶色の背中がゆっくりと弧を描き、長い尾が細く伸びる。四本の足が体に沿ってまとまり、胴が細い柄になっていった。


 疾風は思わず息を止めた。


 光も煙もない。


 ナギが何かに包まれるわけでも、別の場所へ消えるわけでもなかった。目の前にいた鎌鼬が、徐々に違う形へ変わっていく。


 やがて掌の上に、一振りの短い鎌刃が収まった。


「……できた」


 疾風は目を丸くした。


 刃渡りは一尺ほど。緩やかに曲がった刃の背は、ナギの毛色を思わせる鈍い色をしている。柄頭には小さな飾りが付いていた。


 恐る恐る柄を握る。


「おい、聞こえるか?」


「聞こえてる。そっちはどうだ」


 柄頭の飾りから、ナギの声がした。


「うおっ! 本当に喋った!」


「そりゃ喋るだろ。昨日も説明したじゃねえか」


「でも、すげえな! お前、そこが顔なのか?」


「そうだ。だから顔に指を押しつけんなよ」


「分かったって!」


 疾風は刃の向きを変え、重さを確かめた。


 想像していたより、ずっと軽い。


 父の荷車に積んでいた鉄の道具より軽く、腕を伸ばして持っていても負担を感じない。これなら走りながらでも扱えそうだった。


 ただ、一つ気になることがあった。


 軽すぎる。


 手の中に確かな重みがないと、走っている途中で抜け落ちそうな気がした。


 昨日の帰り道、ナギは言った。


『落とすなよ』


 疾風は柄を握り直した。


 絶対に滑らせないよう、五本の指に力を込める。


「痛えっ!」


 突然、ナギが叫んだ。


「うわっ! 何だよ!」


「何だよじゃねえ! 握り潰す気か!」


 刃が手の中で震えた。


 柄頭の飾りが指の付け根にぶつかり、疾風は慌てて力を緩める。


「いや、落とさねえように……」


「離せ! いったん戻る!」


 ナギの声が響いた直後、手の中の鎌刃が形を失った。


 細い柄がほどけ、灰茶色の体が現れる。ナギは疾風の手から地面へ飛び降りた。


 自分の意思で契装を解いたのだ。


「おい、ナギ!」


 疾風がしゃがむと、ナギは脇腹を前足で押さえていた。


「……大丈夫か?」


「大丈夫に見えるかよ」


 白い腹の横に、指の形をしたへこみが五つ残っている。


 疾風はその跡を見つめた。


 さっき柄を握った指と、同じ並びだった。


「それ……俺がやったのか」


「ほかに誰がいるんだよ」


 ナギは痛む場所をかばいながら、毛をなめた。


 疾風は伸ばしかけた手を止める。


 さっきまで握っていた柄は、木でも鉄でもなかった。


 ナギの体だ。


 自分が力を入れれば、その分だけナギが痛む。


「……悪かった」


「分かったなら、次から気をつけろ」


「でも、落としたら危ねえだろ。どうすりゃいいんだよ」


 ナギは顔を上げた。


「荷と同じだ。きつく縛りゃ中身が割れる」


 疾風は父の荷車を思い出した。


 重い木箱を運ぶとき、綱は力いっぱい締めればいいわけではない。締めすぎれば箱の角が割れ、中身まで傷つく。


 十五歳の秋、橋の工事場へ運んだ木材でも同じ失敗をした。


 父に言われて布の位置を直し、必要な分だけ綱を締め直したのだ。


「荷が動かなくなるまで締めて、そこで止めるんだよな」


「そうだ。それ以上は余計なんだ」


 ナギは尾を振った。


「俺は荷じゃねえけどな」


「分かってるよ。もうやらねえ」


「本当だな?」


「ああ。次は痛かったらすぐ言えよ」


「言われる前に気づけるようになれ」


「……そりゃそうだな」


 疾風は苦笑した。


 少し休んでから、もう一度ナギへ手を差し出す。


 ナギは脇腹を確かめ、ゆっくり前足を載せた。


*


 二度目の契装では、疾風は最初から強く握らなかった。


 鎌刃が掌へ収まっても、すぐには指を締めない。柄の位置を確かめてから、一本ずつゆっくり指を閉じた。


 動かなくなったところで、力を止める。


「これくらいでどうだ?」


「……悪くねえ」


 手の中で柄が少し押し返してきた。


 ナギが姿勢を変えたらしい。指先に伝わる圧が変わり、刃の向きもわずかに動いた。


「お前、少し右向いたろ」


「そうだ。今度は分かったか」


「分かる。手に当たる所が変わった」


「握りすぎなきゃ、そういうのも分かるんだよ」


 ナギの声が小さくなった。


 さっきまでと違い、疾風の手元でしか聞こえないほどの声量だった。


「……な、軽いだろ」


「軽い。正直、もっと重いと思ってた」


「持ち手が重さに振り回されてどうすんだよ」


「そりゃそうだけどさ」


 疾風は鎌刃を軽く持ち上げた。


 ナギの考えていることが分かるわけではない。どこを見たいのか、次に何をするつもりなのかも、声に出してもらわなければ分からない。


 けれど、刃の向きと握りの圧は感じ取れる。


 それだけでも、さっきとはずいぶん違った。


「よし。次は加速だな」


「まず三間。向こうの線までだ」


 訓練場には一定の間隔で線が引かれていた。


 三間先の線の向こうには、空の木箱が積んである。掃除の老人は反対側で落ち葉を集め、河童の子どもたちは離れた柵の上にいた。


「走ればいいんだろ?」


「二呼吸待て。それと、着く場所を先に見とけ」


「分かってるって」


 疾風は足元の砂を踏んだ。


 地面は乾いている。大きな石もない。


 向こうの線まで真っすぐ進むなら、途中で何かにぶつかる心配はなさそうだった。


 息を吸う。


 一呼吸。


 二呼吸。


「行くぞ!」


 地面を蹴った瞬間、景色が跳んだ。


 足元の砂が後ろへ流れ、頬を打つ風が急に強くなる。


 さっきまで離れていた線が、一気に目の前へ迫った。


 三間を、一息で抜けた。


「うおっ! 速え!」


「喜ぶのは後だ! 止まれ!」


 ナギに言われ、疾風は足を踏ん張った。


 だが、体が止まらない。


 踏み込んだ足が勢いを受け止めきれず、地面を蹴り返してしまった。体が上へ跳ね、前へ傾く。


「うわああっ!」


 疾風は積んであった木箱へ頭から突っ込んだ。


 空箱が転がり、もう一つが背中へ落ちてくる。板の角が肩に当たり、疾風は箱の中でひっくり返った。


「いってえ……」


 仰向けになったまま、天井を見上げる。


 背中と尻が痛い。


 それでも右手には、まだ鎌刃を握っていた。


 柵の方から拍手が聞こえてきた。


「すげえ! 箱まで飛んだ!」


「もう一回やって!」


 河童の子どもたちが大喜びしている。


「見世物じゃねえぞ!」


 疾風が言い返すと、二人はますます笑った。


「疾風。手は大丈夫か」


 ナギの声がした。


「ああ。落としてねえぞ」


「そうか。なら少し力を抜け。今の握りは悪くなかった」


 疾風は指の力を緩めた。


 刃にも柄にも傷はない。柄頭からナギの小さな息遣いが聞こえた。


「でもお前、止まるのが下手すぎるな」


「自分でも分かったよ」


「加速はできた。問題はその後だ」


 疾風は木箱の縁に頭を預けた。


 速くなったことだけは間違いない。


 今まで全力で走っても届かなかった距離を、一息で抜けられた。だが、その速さのまま人や荷車へ突っ込めば、笑い話では済まない。


「なあ、ナギ」


「何だ」


「無理な時は言え」


 手の中で柄がわずかに動いた。


「言ったら、ちゃんと止まれよ」


「……止まる」


 ナギが自分から契装を解き、木箱の横へ降りた。


 河童の子どもたちは次の見世物を待っていたが、疾風はすぐに立ち上がろうとはしなかった。


「もう一回やるか?」


 ナギが聞いた。


「いや。先に止まり方を考える」


「やっと頭使う気になったか」


「うるせえ!」


*


 翌朝、疾風は訓練場へ小さな杭を持ってきた。


 昨日突っ込んだ木箱は元の位置へ戻してある。その手前にある三間の線へ、疾風は杭を打ち込んだ。


 先端には荷札を結んでいる。


「何だそれ」


 ナギが杭を見上げた。


「止まる場所の目印だよ。荷車だって、止める位置を先に決めるだろ」


「線だけじゃ分かんねえのか?」


「走ってると足元の線が見えなくなるんだよ」


 疾風は杭から少し離れ、位置を確かめた。


「これなら、顔を上げたままでも分かる」


「なるほどな。なら試してみろ」


 ナギが前足を差し出した。


 疾風も右手を伸ばし、鎌刃を受け取る。


 握りの圧を確かめてから、二呼吸待った。


「行くぞ!」


 体が前へ飛び出す。


 三間の線が近づいたところで、疾風は足を踏ん張った。


 昨日より手前で着地できた。


 しかし、勢いを受け止めようとして膝を伸ばしすぎたらしい。体が上へ跳ね、そのまま尻から地面へ落ちた。


「いってえ!」


「昨日よりはましだな」


「どこがだよ!」


「今日は箱まで飛んでねえ」


 疾風は言い返しかけて、杭を見た。


 確かに昨日より近い。


 昨日は線を越えて木箱まで突っ込んだ。今日は杭の横で転んだだけだ。


「じゃあ、今度は膝を曲げてみる」


「おう。着いた後の足も考えろよ」


 二度目の加速では、膝を曲げすぎた。


 体が前へ倒れ、疾風は左手を地面について転倒を防いだ。


「おい、速く走れって言ったのはお前だろ!」


「速く走れとは言った。転べとは言ってねえ」


「言い方があるだろ!」


「その前に足を直せ」


 三度目も失敗した。


 ただし、転ぶまでに一歩だけ進めた。


 ナギはその一歩を見逃さなかった。


「今のは右足が遅い。着いた後に体が前へ流れてる」


「じゃあ、もっと早く出せばいいんだな」


「早けりゃいいって話じゃねえ。着く場所を決めろ」


 疾風は足元を見た。


 砂の上には、自分の足跡が残っている。


 最初の着地点から、右足が大きく前へ出ていた。


「……なるほどな」


「分かったか?」


「ああ。もう一回やろうぜ!」


「駄目だ。三回やった」


「まだ走れそうだけどな」


「続けて使えるのは三回までだ。俺は休みたい」


 疾風は返事を飲み込んだ。


 昨日、木箱の中で交わした約束が頭に浮かぶ。


「……分かった。今日はここまでだ」


 ナギが元の姿へ戻った。


 二人は柵のそばに座り、持ってきた水を飲んだ。


 ナギの脇腹には、昨日ついた指の跡が薄く残っている。疾風がそちらを見ると、ナギは前足で毛を整えた。


「まだ痛むか?」


「少しな。明日には戻ると思う」


「だったら明日は休むか?」


「握りの練習ならできる。加速は様子を見て決める」


「……分かった」


 疾風は頷き、杭に結んだ荷札を外した。


*


 三月四日、ナギの脇腹から指の跡が消えた。


 疾風はその日、加速を控えて握り方だけを確かめた。契装したナギの姿勢が変わるたび、手の中で伝わる圧も変わる。


 握りを緩めすぎれば柄が動く。強く締めればナギが痛む。


 二人で試しながら、ちょうどいい力の入れ方を探した。


 その後も、朝は合同養成所で稽古をし、昼から紺野屋の荷を運んだ。


 稽古に時間を取られる分だけ働ける時間が減り、手間賃も少なくなる。


 夜には母の帳面を開き、その日の稼ぎと飯代を書き込んだ。


「稽古するだけで銭が減るって、どういうことだよ」


「働ける時間が減ってんだから、当たり前だろ」


「分かってるけど納得いかねえ」


 ナギは隣で自分の帳面を開き、細工の仕事でもらった銭を記入していた。


 契約しても、二人の財布は別々だ。


 ナギは荷運びに出ない日も細工の師匠の店へ顔を出し、直した金具の数だけ手間賃を受け取っている。


「お前、俺より貯めてるんじゃねえか?」


「飯代を考えずに食ってる奴と一緒にすんな」


「ちゃんと考えてるって!」


「考えてから食えよ」


 疾風は財布をしまった。


 稽古の方は、毎日少しずつ変わっていった。


 三月五日、着地の直前に足を引きすぎて横向きに転んだ。


 六日には線の近くで止まれたものの、勢いを殺しきれず、次の一歩が勝手に出てしまった。


 七日には足を開きすぎて横へ倒れた。八日には木箱へ突っ込まなくなったが、杭の横で体が跳ねる癖は残っていた。


 ナギも黙って見ているわけではなかった。


 疾風が転ぶたびに契装を解き、地面に残った足跡を確かめる。二歩目の位置が悪ければ指摘し、自分の指示が間違っていたときは言い直した。


「今のは俺が早く言いすぎた。もう半歩先でいい」


「お前も間違えるんだな」


「間違えたから直してんだよ」


「じゃあ、次は俺がちゃんとやる」


「その次が最後だ。今日は二回使ってる」


「分かってるって」


 加速できる距離は、一度につき三間。


 続けて使えるのは三回まで。それ以上はナギが休まなければならない。


 疾風は毎回、足元と杭の位置を確かめてから走った。


 最初は体が勝手に飛んでいくように感じた。今は着地点を見てから走り始められる。


 ただ、最後の一歩がうまくいかない。


 右足を早く出せば前へ倒れ、遅らせれば体が跳ねる。


 九日も、止まるところまではいかなかった。


「なあ、ナギ。俺、走るのはできるようになったよな」


「そうだな」


「だったら、あと少しだろ」


「少しってのは、どれくらいだ?」


「……分かんねえ」


「だろうな」


 ナギは砂の上に残った足跡を指さした。


「明日はそこを確かめようぜ」


 疾風は頷いた。


*


 三月十日。


 合同養成所の訓練場には、朝から乾いた風が吹いていた。


 柵の向こうでは、河童の子どもたちが今日も稽古を見ている。


「兄ちゃん、今日は箱に飛び込まないの?」


「飛び込まねえよ!」


「じゃあ何するの?」


「ちゃんと止まるんだよ!」


 二人は顔を見合わせた。


「それ、昨日も言ってたよ」


「今日こそ止まるんだ!」


 疾風が言い返すと、肩に乗ったナギが笑った。


「お前、毎日同じこと言ってんな」


「今日はできる気がするんだよ」


「気がするだけなら、昨日もできてたぞ」


「一言多いんだって!」


 それでも疾風は笑っていた。


 訓練場の砂は乾いている。


 杭の位置も確かめた。三間先には荷札が揺れ、昨日と同じ場所に立っている。


 ナギが肩から降りた。


「今日は三回までだぞ」


「分かってる。三回で終わりにする」


「足場は?」


「見えてる。右の杭が目印だ」


 疾風は手を差し出した。


 ナギの前足が触れ、短い鎌刃へと姿を変える。


 何度も繰り返した動作だった。それでも疾風は、握りの圧を確かめることだけは忘れなかった。


「大丈夫か?」


「おう。行けるぞ」


 一度目の加速。


 三間を抜け、着地で半歩跳ねた。


 転ばずには済んだが、前へ出た足を戻すのに少し時間がかかった。


「悪くねえ。もう少し膝を曲げろ」


「分かった」


 二度目の加速。


 今度は足を出すのが早すぎた。勢いに押され、両足をそろえるまでに二歩かかってしまう。


「惜しいな」


「まだ一回ある」


「最後だ。足場は見えてるか」


 疾風は頷いた。


 杭の先に結んだ荷札が風で揺れている。


 いつも荷車を止めるときに使っていた目印と同じだ。


 父と仕事をしていたころ、荷を満載した車を坂の途中で止めることがあった。荷が重いほど、止めたい場所より手前で足を踏ん張らなければならない。


 今も、目の前の線へ着いてから止まろうとしていた。


 それでは遅いのかもしれない。


「ナギ」


「何だ?」


「着く場所、少し手前に変える」


「どれくらいだ」


「右足半歩分。そこから膝を曲げる」


「……乗った。やってみろ」


 疾風は深く息を吸った。


 一呼吸。


 二呼吸。


 地面を蹴る。


 体が真っすぐ前へ進んだ。


 杭が近づき、砂の上の線が視界の下を流れていく。


 疾風は目印の半歩手前へ右足を出した。


 足の裏が地面を踏む。


 膝を曲げ、前へ進もうとする勢いを受け止めた。


 体がわずかに浮いた。


 すぐに左足を下ろし、砂を踏み締める。


 靴の裏が少し滑った。


 それでも、倒れなかった。


 疾風はそのまま、両足を地面につけて立っていた。


「……止まった」


 目の前に杭がある。


 昨日までは、ここからさらに二歩進んでいた。


 今日は動いていない。


「おい、ナギ。見たか?」


「見てたよ」


「立ってるぞ、俺!」


「一回だけな。まだ毎回できるわけじゃねえ」


「一回できたんだから、もう一回やろうぜ!」


「駄目だ。今日は三回やった」


 疾風は口を開きかけた。


 しかし、手に持った鎌刃を見て言葉を止める。


 ナギの声は、さっきより少し疲れていた。


 握りの圧を確かめると、柄がわずかに沈む。


「……ああ。今日はここまでだ」


「それでいい」


 ナギが契装を解いた。


 疾風は膝に手をつき、息を整えた。


 額から落ちた汗が、足元の砂に小さな染みを作る。


 顔を上げると、柵の上で河童の子どもたちが手を叩いていた。


「やっと止まった!」


「箱まで飛ばなかったね!」


「だから今日は止まるって言っただろ!」


 疾風は笑い返した。


 掃除の老人が、風で傾いた杭を拾いに来る。


 疾風も手伝い、先端から荷札をほどいた。


「今日は無事だったようじゃな」


「おう! 一回だけだけど、ちゃんと止まれた!」


「そりゃよかった。箱も壊れずに済む」


「……そっちかよ!」


 老人は笑い、箒を担いで戻っていった。


 疾風は荷札を腰の袋へしまった。


 初めてナギを握ったときは、落とさないことしか考えていなかった。今は握る力を加減できる。速く進むことも、着地する場所を選ぶことも覚えた。


 だが、止まれたのはまだ一度だけだ。


 ナギが肩へ跳び乗ってきた。


「明日は仕事だな」


「おう。稽古ばっかじゃ銭が減るからな」


「明日こそ稼ぐぞ!」


「その前に荷を落とすなよ」


「落とさねえって!」


*


 夕方、紺野屋の帳場にはいつもどおり荷札が積まれていた。


 お紺は算盤を弾きながら二人を迎えた。疾風の袖には、何度も転んだせいで砂がついている。


「お紺さん! 今日は三回目で止まれたんだぜ!」


「そりゃよかったね」


 お紺は算盤の玉を一つ動かした。


「ところで、荷を届ける腕は鈍ってないだろうね」


「鈍ってねえよ。明日からは普通に働く!」


「なら、ちょうどいい仕事があるよ」


 お紺が帳面を開く間に、疾風も母の帳面を取り出した。


 稽古に時間を取られ、働く時間が減った分だけ残高が少なくなっている。


 昨日までの収支と今日の分を合わせると、残りは四貫六十文だった。


「二十文も減ったのか。やっぱり稽古って金が掛かるな」


「掛かるんじゃなくて、稼げてねえんだよ」


 肩の上からナギが突っ込んだ。


「分かってるって! 明日から取り返す!」


「その調子で荷を壊して弁償するなよ」


「しねえよ!」


 お紺は二人のやり取りを聞きながら、荷札を一枚抜き出した。


 机の上へ置かれた札には、宛先が書いてある。


 診療所。


 荷の種類は器材。


 その下に、赤い字で注意書きが入っていた。


『割れ物』


 お紺は荷札を指で押さえ、二人を見た。


「明日、診療所の器材を一箱。割れ物だ」

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