第11話 割れ物一箱の初仕事
「絶対に落とすんじゃないよ」
紺野屋の帳場で、お紺は木箱の角を指でたたいた。
風切疾風が抱えているのは、診療所へ届ける器材一箱。両腕で抱えられる大きさだが、見た目よりずっと重い。中身が動かないよう布が詰められているらしく、少し傾けても音はしなかった。
「分かってるって。昨日も聞いたぞ」
「昨日は荷札を渡しただけだろ。今朝は現物を渡したんだから、もう一回言うさ」
「信用ねえなあ」
「信用してるから任せるんだよ。壊したときに責任を取れるかは別の話だけどね」
お紺は受取札を差し出した。
荷札には『診療所器材・割れ物』と赤い字で書いてある。その下には荷受人の名前と受取場所も記されていた。
いつもの配達なら荷車へ積んでしまう。だが、今回は疾風自身が箱を抱えて運ぶことになっている。
「高架荷路の一般便に乗せる。護衛付きの列だから、道中は監督の指示に従うんだよ」
「俺たちだけで持っていっちゃ駄目なのか?」
「診療所から高架便を指定されてるんだ。地上は混むし、器材を何度も積み替えたくないそうだよ」
疾風は箱を抱え直した。
角が腕に当たるので位置を変えると、肩に乗っていたナギが不満そうに尾を動かす。
「おい。俺の尻尾を挟むなよ」
「挟んでねえだろ」
「今のまま持ち上げたら挟んでた」
「まだ上げてねえじゃん!」
「だから先に言ったんだよ」
お紺は二人を見て笑った。
「初めての契装も済んだんだろ。仲良くやりな」
「昨日、やっと一回だけ止まれたところだ」
ナギが答えると、疾風は顔をしかめた。
「一回でも止まれたんだからいいだろ」
「今日はまだ試してねえけどな」
「仕事中に試すんじゃないよ」
お紺の声が低くなった。
「稽古と仕事は違う。あんたらはまだ見習いなんだから、余計な真似をしないこと。ちゃんと届ければ日当は払う。それで十分だろ」
「分かってる。じゃあ行ってくる!」
疾風は箱を抱えたまま店を出た。
三月十一日。
十六歳になってから十日が過ぎ、契装の稽古を終えた最初の仕事だった。
北区の通りは、朝から荷車で混み合っている。
頭上では高架荷路を走る車輪の音が響き、その下を人と妖怪が行き交っていた。
疾風は上を見上げた。
「何回見てもすげえよな。あんな高い所に道があるんだから」
「五か月も都に住んでて、今さらかよ」
「下から見てるのと、上を走るのは違うだろ」
ナギは疾風の肩から首の後ろへ移り、長い尾を緩く巻いた。
「お前は景色を見るより荷を見てろよ」
「両方見るって」
「それが一番危ねえんだよ」
疾風は笑い、診療所の荷札を確かめてから歩き出した。
*
高架荷路の昇り口には、荷車の列ができていた。
鉄の車輪を持つ荷台が一台ずつ坂を上がり、係の者が荷札と積み荷を照らし合わせている。入口には護衛の侍が立ち、腰の刀を邪魔にならない位置へ寄せながら通行を指示していた。
「次。荷札を見せろ」
疾風は箱を片腕で支え、空いた手で荷札を差し出した。
「紺野屋の風切疾風。診療所へ一箱だ」
「見習いか。契約はしているのか」
「昨日まで稽古してた。こいつがナギ」
肩の上でナギが片方の前足を上げる。
「俺も紺野屋の荷役だ。名前はちゃんと書いといてくれ」
侍は二人の名前を帳面へ記入した。
「分かった。三番車に乗れ。割れ物は走行中に積み替えるな」
「おう」
「高架の上では、荷役同士の移動にも許可が要る。勝手に別の荷台へ移るなよ」
「分かった」
疾風は三番車へ向かった。
荷台の中央には、大きな木箱が二つ固定されている。その脇に人が座れるだけの空きがあり、疾風は指示された場所へ腰を下ろした。
診療所の器材は膝の上に載せ、両腕で底を支える。箱の背を固定済みの木箱へ軽く預けると、ようやく肩の力が抜けた。
荷台の左側には、空の荷枠が張り出していた。
荷を一時的に置くための板で、車体の縁から外側へ伸びている。床板には二本の綱が取り付けられ、片方は板の重さを支え、もう片方は横揺れを抑えていた。
今は何も積まれていない。
疾風が結び目を見ていると、ナギが鼻を鳴らした。
「また綱を見てんのか」
「こういうの見ると気になるんだよ。片方だけ締め方が違う」
「荷が入ってねえからだろ」
「それもあるけどさ。外側の太い綱は板の重さを受けてる。内側の細い方は、板が横へ振れないよう留めてるんだ」
ナギは荷枠の上へ跳び移り、前足で綱を押してみた。
「確かにな。太い方が張ってる」
「だから同じように締めると、変な所へ力が掛かるんだろ」
「……お前、こういうのだけはよく見てんな」
「だけって何だよ!」
ナギは答えず、肩へ戻ってきた。
疾風は荷台の端から下をのぞいた。
高架の下には南市場へ続く通りが見える。屋根の間から買い物客の姿がちらつき、屋台の煙が風に流れていた。
峠見宿にも市場はあったが、こんな高さから見下ろしたことはない。
「下に落としたら大変だな」
「そりゃそうだろ。人がいるんだぞ」
「分かってる。だから落とさねえよ」
ナギは何も言わず、疾風の首へ尾を巻き直した。
前方で侍の声が響いた。
「三番車まで確認した! 発車するぞ!」
車輪の下から低い音が聞こえた。
荷台がゆっくり動き出す。
最初は歩くより遅かったが、坂を上がり切るころには速度が増していた。
高架の継ぎ目を越えるたび、足元が小さく揺れる。
固定された木箱は動かなかったものの、膝の上に載せた器材の角が腕へ押し当てられた。
「おい、疾風。腕の位置を変えろ」
「何でだよ」
「次の継ぎ目で箱が跳ねる。今の持ち方だと、底を支えてる手が外れるぞ」
疾風は膝を寄せ、箱の下へ腕を深く回した。
直後、車輪が継ぎ目を越えた。
荷台が小さく跳ねたが、器材は動かなかった。
「ほらな」
「今のは助かった」
「だったら飯代を半分出せ」
「何でだよ!」
「俺が見てなきゃ、箱を落としてたろ」
「落としてねえんだから、勘定に入らねえよ」
ナギは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
疾風は腕の力を少し緩めた。
箱は膝の上で安定している。無理に抱きしめるより、動かない位置を見つけた方が楽だった。
昨日までの稽古で習ったのも、同じことだ。
*
前を走る荷台から、小さな金属音が聞こえた。
疾風は顔を上げた。
二番車の後部寄りに、燃料箱らしい鉄の箱が取り付けられている。その点検口が半分ほど開き、走るたびに蓋が上下していた。
「ナギ。あれ見えるか」
「どれだよ」
「前の荷台の燃料箱だ。蓋が開いてる」
ナギは肩から身を乗り出した。
「本当だな。振動で留め金が外れたのか?」
「分かんねえ。でも中が見える」
ちょうど荷路が緩く曲がり、前の荷台が少し斜めになった。
疾風は目を細めた。
点検口の奥に、鉄の内壁が見える。
本来なら燃料が収まっている場所だ。だが、見える範囲には何も入っていない。底の金具までむき出しになっていた。
それなのに車輪は止まらない。
二番車は速度を落とすことなく、高架の継ぎ目を越えていった。
「……おい。燃料が入ってねえぞ」
「本当か?」
「見てみろよ。底まで見える」
ナギはさらに首を伸ばした。
「……空だな。でも走ってる」
「だよな」
疾風は箱を抱く手に力を込めた。
八歳のときに見た荷車が、頭に浮かんだ。
見返り橋で起きた事故。
あのときも燃料箱が空だったのに、車輪が回っていた。
大人たちには見間違いかもしれないと言われた。役所でも調べてもらったが、荷車は持ち主と一緒に姿を消し、結局何も分からなかった。
だが、今は違う。
同じ光景をナギも見ている。
「あの時と同じだ」
「何の話だよ」
「八歳のとき、峠で事故があったんだ。その荷車も燃料箱が空だったのに走ってた」
「……お前、そんなもん見たのか」
「ああ。ずっと気になってた」
前の荷台が揺れ、点検口の蓋が金具へ当たった。
中から低い振動音が聞こえてくる。
疾風はもう一度燃料箱を確かめようとしたが、荷台が直線へ戻ると内側は見えなくなった。
「なあ、ナギ。普通は燃料が切れたら止まるよな」
「止まるだろ。荷車だって勝手には走らねえ」
「じゃあ、何であれは走ってんだよ」
「俺に聞くな。細工はするけど、あんな車の中身までは知らねえ」
疾風は二番車を見つめた。
八年前の事故では、二つの箱が谷へ落ちた。回収できたのは一箱だけで、もう一箱は見つからなかった。
箱から出てきた荷札には、穴が二つあった。
見慣れない歯車や金具も入っていた。
あの荷車と、今走っている荷車。
同じ仕組みなのだろうか。
確かめたいことはいくらでもある。
「ちょっと前へ行って見てこようかな」
「やめとけ」
ナギがすぐに答えた。
「今は仕事中だ。別の荷台へ移るなって言われただろ」
「見るだけだって」
「見るだけなら、ここから見える。器材を落としたらどうすんだよ」
疾風は腕の中の箱を見下ろした。
赤い字で『割れ物』と書かれた荷札が、膝の横で揺れている。
診療所では、この器材が届くのを待っている。
ここで持ち場を離れるわけにはいかなかった。
「……分かった。仕事が終わってから聞いてみる」
「そうしろ」
疾風は前の荷台から目を離した。
母の帳面は紺野屋の二階に置いてきた。帰ったら、今見たことを忘れないうちに書こう。
空の燃料箱。
走り続ける車輪。
八年前と同じ違和感が、そこにあった。
*
高架荷路が南市場の上へ差しかかったころ、列の速度が落ちた。
道の下には建物の屋根が続き、その隙間を買い物客が行き交っている。
高架には荷台がすれ違えるだけの幅があり、隣の荷路にも何台かの車が走っていた。
「何かあったのか?」
疾風が前方を見ると、先頭の侍が片手を上げていた。
速度を落とす合図らしい。
次の瞬間、隣の荷路から怒鳴り声が聞こえた。
「荷を止めろ!」
疾風は振り向いた。
並走する荷台の上で、一人の男が立ち上がっている。
顔の下半分を布で隠し、両脚には金属製の脚甲を付けていた。
脚甲の膝には太い関節があり、脛の横には小さな筒が並んでいる。普通の足よりひと回り太く、動くたびに金具がこすれる音がした。
男は荷台の端へ足を掛けた。
「積み荷を出せ! 逆らうなよ!」
周囲の荷役たちが一斉に声を上げた。
「強盗だ!」
「荷を押さえろ!」
「護衛を呼べ!」
先頭にいた侍が、すぐに刀の柄へ手を掛けた。
「荷役は持ち場を離れるな! 荷を守れ!」
その声とほとんど同時に、二番車でも騒ぎが起きた。
荷役に紛れていた男が突然腕を振り上げ、隣にいた者へ殴りかかったのだ。
襲われた荷役は身を引いて避けたものの、積んでいた箱が一つ傾いた。
「そこの男! 手を止めろ!」
護衛の侍が二番車へ向かった。
強盗は一人ではなかった。
疾風は器材を抱き直した。
肩の上ではナギが毛を逆立てている。
「おい、疾風。あの脚甲を見ろ」
「見えてる」
「跳ぶ気だぞ。荷台の端へ足を掛けてる」
男は隣の車で膝を曲げた。
脚甲の関節が鳴り、脛の横にある小さな筒から白い湯気が漏れる。
疾風は身を低くした。
三番車の左側には手すりがある。その向こうは、隣を走る荷台だ。
男が跳び移ってくれば、すぐ目の前まで来る。
だが疾風は、器材を抱えたままだった。
「ナギ。どうする?」
「まず箱だ。抱えたままじゃ動けねえ」
「分かってる。ここに固定する」
疾風は荷台の中央を見た。
大きな木箱が二つ、太い綱で固定されている。その間には、器材一箱を収められるだけの隙間があった。
ここなら、箱が動かないように押さえられる。
「ナギ。俺が箱を支えるから、綱を取ってくれ」
「分かった。結び目は俺が見る」
ナギは肩から降り、荷台の板へ跳び移った。
小さな前足で予備の荷綱を引き寄せる。
疾風は器材を膝の上から木箱の間へ移した。片手で底を支えたまま、もう片方で綱を受け取る。
木箱と器材がぶつからないよう、間に布を挟んだ。
それから綱を回し、結び目を作る。
「これでどうだ?」
ナギが前足で器材を押した。
「まだ動く。下をもう少し締めろ」
「よし」
疾風は綱を引き、器材が動かなくなったところで手を止めた。
ナギがもう一度箱を押す。
「今度は大丈夫だ」
疾風は両手を離した。
器材は二つの木箱の間に収まっている。多少揺れても、すぐには動かないはずだ。
だが、安心している時間はなかった。
隣の荷台で男がこちらを向いた。
「おい! 聞こえなかったのか!」
男は脚甲を鳴らし、さらに端へ寄った。
「荷を出せ!」
「誰がお前に渡すかよ!」
疾風は反射的に言い返した。
すぐにナギが前足で足首をたたく。
「挑発してどうすんだよ!」
「向こうが先に怒鳴ったんだろ!」
「今は口喧嘩してる場合じゃねえ!」
男の視線が器材を固定した場所へ向いた。
診療所の荷札が見えたのか、狙いを定めたように脚甲の向きを変える。
疾風は腰の袋に手を当てた。
中には荷綱用の小刀がある。
綱を切るために何度も使ってきた道具だが、人に向けたことはない。
そもそも、今ここで綱を切ればいいわけでもなかった。
器材を固定した綱を切れば、荷が動く。
荷台そのものを支える綱へ刃を入れれば、ほかの積み荷まで危険にさらす。
そのうえ、高架の下には南市場がある。
屋根の隙間から買い物客の姿が見えた。魚を選ぶ女や、子どもの手を引く男が歩いている。
ここから木箱を落とせば、下にいる人間は避けられない。
疾風は隣の荷台へ目を戻した。
男はまだ、跳ぶ位置を探っている。
「……ナギ。あの空の荷枠、覚えてるか」
「うちの荷台の左側だろ」
「ああ。ここへ跳んでくるなら、あの横を通る」
疾風は左側へ張り出した荷枠を指した。
中央の木箱とは別に取り付けられた、空の板だ。
その下には二本の綱が伸びている。
「外側の太い方が板を支えてるんだよな」
「そうだ。内側の細い方は横揺れを止めてる」
ナギは荷枠の下をのぞき、結び目を確かめた。
「太い方を先に切ったら、板ごと下へ落ちるぞ」
「だから、そっちは残す」
「細い方だけか?」
「ああ。あれなら、板が傾いても太い綱は残る」
ナギはもう一度、二本の綱を見た。
太い綱には板の重みが掛かっている。細い綱は内側へ引かれ、板が横へ振れるのを抑えていた。
「……確かに、細い方を外せば板は動くな」
「ただし、どれくらい傾くかは分かんねえ」
疾風は荷枠の外側を見た。
もし板が大きく傾けば、そこに乗った者は足場を失う。
だが支え綱が残っていれば、板そのものが市場へ落ちるのは防げるかもしれない。
まだ試したことはない。
相手がどう動くかも分からない。
「お前、何考えてんだ?」
ナギが聞いた。
「箱の前まで来られたら困る。だったら、こっちの端へ動かせばいい」
「どうやって?」
「俺が気を引く。お前は綱を見ててくれ」
「切るなら俺の刃か?」
「ああ。でも、まだ切るなよ。箱まで巻き込んだら意味ねえから」
ナギは短く息を吐いた。
「分かった。まずは男の足を見ろ。綱はその後だ」
疾風は頷いた。
左側の荷枠。
二本の綱。
中央に固定した診療所の器材。
それぞれの位置を、もう一度確かめる。
隣の荷台が速度を上げ、三番車と少しずつ並んでいった。
脚甲の男は深く膝を曲げた。
金具の隙間から白い湯気が噴き出し、足元の板がきしむ。
「疾風!」
ナギが叫んだ。
脚甲の男が、隣の荷台から跳んできた。




