第12話 曲がれない脚
男の靴が荷台を打った。
金属の脚甲をつけた男が、隣の荷車から三番車へ飛び移ってきた。着地の衝撃で床板が大きく揺れ、風切疾風は思わず固定した木箱へ肩をぶつけた。
男が着地したのは荷台の左側。さらに外側には、二本の綱で支えられた空の荷枠が張り出している。
「箱を寄越せ!」
顔の下半分を布で覆った男が、中央の積み荷を指さした。
診療所へ届ける器材は、大きな木箱二つの間に固定してある。周囲には布を挟み、揺れても動かないよう別の綱で締めていた。
今すぐ持ち去れる状態ではない。
「嫌だね。お前の荷じゃねえだろ」
「なら、そこをどけ!」
男の膝が鳴った。
脚甲の関節に並んだ小さな筒が伸び、金属の靴底が床板を蹴る。男の体が一気に前へ飛び出した。
「うおっ!」
疾風は木箱の右へ身を引いた。
男の肩が鼻先をかすめる。そのまま走り抜けた男は、大箱の側面に両手をついて勢いを止めた。
どん、と鈍い音が響く。
固定綱が震え、木箱の角に小さな傷がついた。
「おい! 箱にぶつかんな!」
「だったら大人しく渡せ!」
男が振り返ろうとした。
ところが、上半身だけが先に回り、金属の靴は前を向いたままだった。
膝の横から伸びた二本の棒が引っかかっている。男はいったん片足を持ち上げ、棒を縮めてから足先の向きを変えた。
そこでようやく疾風と向き合う。
「……何だ、今の」
疾風は足元を見た。
速い。
だが、向きを変えるのには手間がかかるらしい。
「よそ見してんじゃねえ!」
男が大股で近づいてきた。
今度は先ほどのように飛び出さず、ゆっくりと間合いを詰めてくる。疾風が右へ動けば右へ寄り、左へ回ろうとすれば箱との間を塞いだ。
普通に歩く分には、方向を変えられるようだ。
ただ、体格では勝てそうにない。
疾風より頭一つ以上大きく、金属の脚を除いても腕が太い。
男が器材を固定した綱へ手を伸ばした。
「触んな!」
疾風がその手を払う。
しかし、男は払われた腕をつかみ、そのまま疾風を木箱へ押しつけた。
「ぐっ……!」
背中に木の角が食い込む。
男の反対の手が綱をつかんだ。強く引かれたせいで、器材を挟んだ布が少しずれる。
このままでは箱を壊される。
「ナギ!」
「分かってる!」
鎌鼬のナギが、大箱の下から飛び出した。
灰茶色の小さな体が男の足元を横切る。男が反射的にそちらへ目を向けた瞬間、疾風はつかまれた腕を引き抜いた。
勢い余って尻もちをつきかけたが、どうにか踏みとどまる。
「助かった!」
「礼は後だ! 箱から離せ!」
ナギが叫ぶ。
男は足元の小さな妖怪を見下ろした。
「何だ、お前も荷役か」
「そうだよ。勝手に人の荷を持ってこうとしてんじゃねえ」
「だったら邪魔するな!」
男が靴を持ち上げる。
ナギは素早く大箱の下へ戻った。
金属の靴が床板を打ち、空振りの音を立てる。
「お前、小さい奴にまで手を出すのかよ!」
疾風が叫ぶと、男の顔がさらに険しくなった。
「次はお前だ!」
脚甲の筒が鳴った。
疾風は身構えた。
荷台の上には十分な広さがない。箱と箱の間を逃げ続ければ、いずれ追い詰められる。
ましてここは高架荷路だ。
手すりを越えれば、下には南市場が広がっている。
疾風は一瞬だけ視線を落とした。
屋根の隙間から、人の頭がいくつも見えた。
誰かが落ちれば、本人だけでは済まない。
*
「刀を捨てろ! 荷役から離れろ!」
前方から鋭い声が響いた。
列を監督していた侍が、もう一人の襲撃者と向き合っている。
短い刃物を振り回した男が踏み込むと、侍は半歩だけ身を引いた。刃を避けながら刀の峰を相手の手首へ当て、落ちた刃物を足で遠ざける。
「ぐあっ!」
襲撃者が腕を押さえた。
そこへ侍が踏み込み、肩へ峰打ちを加えた。
男の体が崩れる。
侍は逃がさずに組み伏せ、周囲の荷役へ声を飛ばした。
「縄を持ってこい! 運転手は徐行を続けろ! 急に止めるなよ!」
荷役の一人が縄を投げた。
侍は男を押さえたまま手首を縛り、刃物が届かない位置へ押しやった。
手際はよかった。
だが、三番車との間にはもう一台荷車がある。すぐにこちらへ来られる距離ではない。
「疾風! あの侍が来るまで粘るか?」
大箱の下からナギが尋ねた。
「そうしたいけど、あいつが綱を切ったら間に合わねえ」
「だったら箱から引き離せよ!」
「分かってる!」
疾風は強盗を見た。
男は脚甲を曲げ、再び突っ込む機会をうかがっている。
最初の突進を思い出す。
あの速さは普通の足では出せない。だが、走り出してから急に向きを変えることもできなかった。
大箱へ手をついたあと、男は足を一度持ち上げなければ振り返れなかった。
「なあ、ナギ」
「今度は何だ」
「あの脚、走ってる途中で曲がれると思うか?」
「何でそんなこと聞くんだよ」
「さっきから真っすぐにしか走ってねえ」
ナギが大箱の陰から男の足元をのぞいた。
「……確かに、踏み込んでからは向きを変えてねえな」
「ちょっと確かめる」
「おい、待て!」
疾風は箱の陰から顔を出した。
「おい強盗! そんな立派な脚をつけてんのに、見習い一人捕まえられねえのか!」
男がこちらを向いた。
「小僧が!」
膝の筒が伸びた。
次の瞬間、男が疾風へ突っ込んできた。
疾風は踏み込まれる直前まで待ち、木箱の陰へ飛び込んだ。
金属の靴がすぐ横を通り過ぎる。
男は走りながら腕を伸ばしたが、体の向きは変わらなかった。荷台の端で足を踏ん張り、靴底を滑らせてようやく止まる。
床板が嫌な音を立てた。
「危ねえだろ!」
ナギが怒鳴った。
「俺だって怖かったよ!」
疾風は木箱に手をつき、荒くなった息を整えた。
だが、分かったことがある。
男は歩きながらなら向きを変えられる。
けれど脚甲の力を使って一気に踏み込むと、途中で進路を変えられない。
「……真っすぐだ」
「何がだよ!」
「あいつ、踏み込んだら真っすぐにしか行けねえ!」
ナギが男を見た。
強盗は脚甲の向きを変えていたが、その動きは疾風が避ける前より明らかに遅かった。
「なるほどな。速い代わりに曲がれねえのか」
「そういうことだ!」
「分かったところで、どうすんだよ」
疾風は荷台の左側を見た。
空の荷枠がある。
荷台から外へ張り出した床板で、荷を一時的に載せるための場所だ。先端には手すりがなく、下には市場の屋根が見える。
内側には細い留め綱。
外側には、荷枠の先端を吊っている太い支え綱。
二本は別の役割を持っていた。
細い方は荷枠が揺れないよう位置を保ち、太い方は床板と荷の重さを支えている。
疾風は父の声を思い出した。
『これを切ったら、何が落ちる』
荷運びを始めたころ、何度も聞かれた言葉だ。
疾風は二本の綱を目で追った。
細い留め綱を切れば、荷枠の内側が動く。
それでも太い支え綱が残れば、床板そのものは落ちない。
少なくとも、空の荷枠なら。
「ナギ。あそこを使う」
疾風が空の荷枠を指さした。
「……お前、まさか」
「男をあそこへ誘う。踏み込んだところで、内側の留め綱を切るんだ」
「外側は?」
「残す。板が傾いても、太い方が支えてくれる」
ナギは荷枠の先端を見上げた。
「男の重さまで受け止められるかは分かんねえぞ」
「だから落とす前に動きを止める。侍も来る」
「簡単に言いやがって」
ナギは前足で床板を押した。
荷枠と荷台本体をつなぐ留め具が、わずかに動く。
ずっと使われてきたものらしく、金属の表面には細かな傷があった。
「内側の一本だけでいいんだな」
「ああ。俺たちの箱を留めた綱には触るなよ」
「そんな間違いするかよ」
疾風はナギを見た。
五か月前なら、考えるより先に手を出していた。
実際、今だって自分一人だったら、あの脚甲を相手に殴りかかっていたかもしれない。
だが、ナギがいる。
綱を見れば、どこに力が掛かっているかを一緒に考えられる。
「俺が誘う。お前は綱を見ててくれ」
「分かった。合図はちゃんと出せよ」
疾風は頷いた。
男の方から金属の音が近づいてきた。
*
「逃げるなら荷を置いていけ」
強盗が言った。
疾風は大箱から一歩離れた。
「欲しけりゃ自分でほどけよ。その前に俺をどかせるならな」
「何度も逃げ回りやがって……!」
疾風は荷台の左へ回り込んだ。
空の荷枠へ続く板は狭く、一人が通るのがやっとだった。疾風はその手前へ片足を載せ、荷台本体の手すりの柱を左手でつかんだ。
柱はしっかり固定されている。
ここなら、外側へ飛び出さずに内側へ戻れる。
「おい、疾風!」
ナギが低い声で呼んだ。
「それ以上、先へ出るなよ」
「分かってる」
疾風は足元を確かめた。
板の隙間から、はるか下に南市場が見える。
屋根の間を歩く人影が思ったより小さかった。
背中を冷たいものが伝う。
落ちたら終わりだ。
「どうした。そこから動けねえのか」
男が大箱の角で立ち止まった。
こちらへ向けた脚甲の先を確かめ、空の荷枠へ視線を落とす。
男はすぐには踏み込まなかった。
あの大きな靴で細い板を渡る危険は、本人にも分かっているらしい。
「もうやめとけよ。侍が来るぞ」
疾風は前方を指さした。
男は振り向かなかった。
「俺がお前に構ってる必要はねえだろ」
そう言って、器材の箱へ向き直る。
「待てよ!」
疾風が呼び止めた。
男は足を止めたが、こちらを見ようともしない。
懐から短い刃物を抜き、器材を締めた綱へ近づいていく。
まずい。
疾風が荷枠に移ったせいで、箱の前が空いてしまった。
このまま綱を切られたら、何のためにここまで運んできたのか分からない。
「おい! その脚、やっぱり曲がれねえんだな!」
男が振り返った。
「何だと?」
「真っすぐ走るのだけ速くても、俺には当たらねえ。そんな脚甲、見かけ倒しじゃねえか!」
男の手が止まった。
顔を覆う布の上で、目が細くなる。
「……小僧。今、何て言った」
「その脚なら追いつけるだろ。ほら、捕まえてみろよ!」
疾風は荷枠の縁を軽く叩いた。
男の視線がその手へ向いた。
それから、疾風の足元へ移る。
金属の靴を少しずつ動かし、踏み込む方向を調整していた。
無闇に飛び込んでくるつもりはないらしい。
むしろ、疾風が逃げられる方向を読もうとしている。
「……逃げるなよ」
男が低く言った。
「そっちこそ途中で止まるなよ」
疾風は手すりの柱を握り直した。
手に汗がにじんでいる。
脚甲がどこまで速いのかは、もう見た。
自分が逃げなければならないのは、ほんの一歩。
だが、その一歩が遅れたら、金属の靴ごと突き飛ばされる。
「ナギ」
疾風は男から目を離さずに呼んだ。
「いるぞ」
大箱の陰から声が返ってきた。
「合図したら来い」
「おう。手ぇ出すの忘れんなよ」
疾風は右手を空けた。
左手は柱をつかんだままだ。
男が踏み出した。
膝の筒が短く縮み、脚甲が低い音を立てる。
次の瞬間、金属の靴底が床板を蹴った。
男の体が一直線に飛び出した。
「今だ!」
疾風は左腕に力を込めた。
柱を支えに体を内側へ引き戻し、荷枠から足を抜く。
金属の靴が、今まで自分の立っていた板を踏みつけた。
どん、と大きな音がする。
男の体は止まらない。
空の荷枠をさらに外側へ進み、踏み込んだ脚が板の先端へ向かっていく。
そこで男はようやく危険に気づいた。
「くそっ!」
足を戻そうとする。
だが、伸びきった脚甲の金具が邪魔をし、すぐには向きを変えられない。
床板が大きくしなった。
内側の細い留め綱が、きりきりと音を立てる。
「ナギ!」
灰茶色の体が大箱の脇から跳んだ。
差し出した疾風の右手に、小さな前足が触れる。
毛の感触が消え、掌に短い鎌刃が収まった。
「内側の一本だな!」
「おう!」
疾風は刃を握った。
強く握りすぎない。
ナギの体を痛めないよう、柄が動かなくなるところで指を止める。
刃先の向こうには、張り詰めた細い綱があった。
その外側では、男が脚甲を戻そうと必死にもがいている。
脚を斬るつもりはない。
切るべきなのは、一本だけだ。
疾風は綱の位置を見定めた。
父に教わったとおり、切ったあとに何が動くのかを考える。
細い綱を失えば、荷枠は傾く。
太い綱は残る。
男の動きは、傾いた板に止められる。
「奈落綱!」
鎌刃が綱を断った。
ぴん、と乾いた音が響く。
内側の留めを失った荷枠が、外側へ大きく傾いた。
「うおおっ!」
男が叫んだ。
踏み込んだ脚甲が板の隙間へ引っかかる。男は反対の足を戻そうとしたが、床板が傾いて体勢を立て直せない。
そのまま外側へ倒れ込んだ。
だが、荷枠は落ちなかった。
先端を吊っていた太い支え綱が張り詰め、床板を斜めの位置で引き止めたのだ。
男は傾いた荷枠へ両手をついた。
脚甲の片方が板に挟まり、すぐには抜けない。
「よし! 止まった!」
疾風は思わず声を上げた。
男は荷を奪うどころではなくなっている。
あとは侍が来るまで動けないようにしておけばいい。
「ナギ、やったぞ!」
「まだだ!」
ナギの声が鋭くなった。
ぎしり。
木が裂ける音がした。
疾風は顔を上げた。
太い支え綱の先が、荷台外側の木枠へ固定されている。
その留め具の周囲に、細い亀裂が走っていた。
「……おい、嘘だろ」
男が体を起こそうとした。
金属の脚甲が動くたび、斜めになった荷枠が激しく揺れる。
太い綱が引かれ、木枠の割れ目がさらに広がった。
「動くな!」
疾風が怒鳴った。
「そのままじっとしてろ!」
「ふざけんな! 落ちるだろうが!」
男は必死に荷枠へしがみついた。
しかし片方の脚甲が引っかかったままでは、荷台本体へ戻れない。
外側の支え綱が軋んだ。
荷枠の端から、小さな木片が落ちる。
疾風は思わず下を見た。
南市場では、人々がようやく頭上の騒ぎに気づき始めていた。
荷車の音に混じって悲鳴が上がる。
店の主人が客を軒下へ押し戻し、子どもを抱いた女が道の端へ走っていく。
ここから男が落ちれば、誰かを巻き込むかもしれない。
「疾風! 太い綱の留め具がもたねえ!」
ナギの声が手の中で響く。
疾風は鎌刃を握り直した。
細い綱だけを切れば、荷枠は落ちない。
そこまでは考えていた。
けれど、残した太い綱を留めている木が、男の重さに耐えられるかどうかまでは分からなかった。
自分たちの狙いどおり、男は止まった。
だが、このままでは本当に落ちてしまう。
「くそっ……!」
疾風は左手で握っていた柱を確かめた。
柱はまだ動いていない。
器材の箱も、中央に固定されたままだ。
助けられるものがあるなら、今動くしかない。
そのとき、荷枠の留め具がもう一つ外れた。
ばきんっ!
木枠の端が裂けた。
男の体が宙へ傾く。
「助けろおおっ!」
強盗が手を伸ばした。
疾風は柱から左手を離した。
足を踏ん張り、男へ向かって身を乗り出す。
そして、空いた左手を伸ばした。




