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百鬼夜行 ~少年忍者と毒舌鎌鼬の物語~  作者: MIYA
第1部「峠見宿」

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第13話 二人分の椀

伸ばした指が、男の袖をかすめた。


 風切疾風(かざきりはやて)は届かなかった左手を引き戻し、荷台の手すりをつかんだ。右手には鎌刃(かまば)となったナギがいる。あと少し身を乗り出せば男の腕をつかめそうだが、足元には踏ん張れる場所がなかった。


 脚甲(きゃっこう)の男は傾いた荷枠にしがみついている。外側の太い支え綱がかろうじて床板を吊っていたが、固定金具の周囲では木枠が裂け始めていた。


「おい! もっと手を伸ばせ!」


「これ以上出したら俺まで落ちるだろ!」


 男の顔を覆っていた布がずり落ちた。


 先ほどまでの威勢は消え、顔は恐怖で引きつっている。片方の脚甲は床板の隙間に挟まり、もう片方は高架の外へ突き出していた。


「疾風! それ以上乗り出すな!」


 ナギが叫んだ。


「分かってる! でも、このままじゃ落ちるぞ!」


「腕をつかんだところで、引き上げられるのかよ!」


 疾風は言い返しかけて口を閉じた。


 男は自分よりずっと大きい。金属の脚甲までつけている。


 もし腕をつかめたとしても、相手の重さに引かれて一緒に落ちるだけだ。


 八歳のときの見返り橋(みかえりばし)が頭に浮かんだ。


 あの日も、谷へ落ちかけた荷を止めようとして両の掌を擦りむいた。自分の腕で何とかしようとしても、荷車の重さには勝てなかった。


 必要なのは、もっと強い腕ではない。


 重さを預けられる場所と、そこへつなぐ綱だ。


「……ナギ。いったん戻ってくれ」


「何する気だ?」


「綱を掛ける。両手を使いたい」


「分かった。足元には気をつけろよ」


 ナギが契装(けいそう)を解いた。


 短い鎌刃がほどけ、灰茶色の体へ戻る。ナギが荷台に降りたのを確かめ、疾風は切断した留め綱を拾い上げた。


 根元は荷台の鉄輪に結ばれたままだ。


 だが、途中で切ったため、男まで届く長さが残っていない。


「くそっ、短え!」


「自分たちで切ったんだからな。ほかを探せ!」


 ナギが中央の荷箱へ走った。


 器材を固定した綱は外せない。大箱を締めている綱も、ほどけば荷崩れを起こしかねなかった。


 疾風は荷台を見回した。


 予備の綱は見当たらない。


 その間にも荷枠から木の割れる音が続いている。


「誰か! 長い荷綱を貸してくれ!」


 疾風は前方へ向かって叫んだ。


「人が落ちる! 早く!」


 二番車の後ろにいた荷役が振り返った。徐行を続けていた車列は、すでにほとんど停止している。


「荷綱か! 待ってろ!」


 荷役は道具箱を開け、太い綱を取り出した。


 荷車の荷を固定するためのものらしく、先端には大きな輪が作られている。


「受け取れ!」


「おう!」


 投げられた綱が宙を渡った。


 疾風は両手を広げたが、重い綱の束が胸へぶつかった。


「ぐえっ!」


「落とすなよ!」


「落とさねえって!」


 疾風は綱を抱き止め、すぐに荷台の内側へ引き寄せた。


 今度は荷ではなく、人間を吊り止めるために使う。


 結び方を間違えれば、男の命に関わる。


「ナギ、こっちを頼む!」


 疾風は綱の端を荷台の太い支柱へ回した。


 一度巻き、さらにもう一度巻く。


 すぐには結び切らず、手元に残した端を引いて張り具合を確かめた。柱へ力を預けながら、必要に応じて綱を送り出せる形だ。


 ナギが柱の根元へ跳び乗った。


「柱は動いてねえ。綱も外れそうにないぞ」


「よし。じゃあ、あいつに輪を掛ける」


 疾風は輪の大きさを確かめた。


 頭を越え、両肩を通せる幅が必要だった。


 ただし、広すぎれば途中で抜けてしまう。


 疾風は荷綱を扱い慣れた指で結び目を確かめ、輪が勝手に狭まらないよう形を整えた。


「おい! 今から縄を投げるぞ!」


 男が顔を上げた。


「何する気だ!」


「お前を吊るんだよ! 輪を頭から通すから、片腕ずつ中に入れろ!」


「腕を離したら落ちる!」


「両方いっぺんに離せなんて言ってねえ! 片方ずつだ!」


 男は何か言い返そうとしたが、荷枠が揺れると慌てて口を閉じた。


 疾風は輪を持ち上げた。


 男までの距離を確かめ、腕を振る。


 一度目。


 輪は男の肩に当たって跳ね返り、荷枠の端へ引っかかった。


「くそっ!」


 疾風はすぐに引き戻した。


 下を見れば、南市場の人々が通りの端へ逃げ始めている。


 頭上の騒ぎに気づいた店主たちが客を軒下へ押し込み、荷車を止めるよう叫んでいた。


 あそこへ男が落ちたら、誰かを巻き込むかもしれない。


 もう一度失敗する余裕はない。


「疾風! 支え綱の留め具が浮いてる!」


 ナギの声が飛んだ。


 疾風は輪を持ち直した。


 投げる先を男の頭より少し奥へ定める。


「もう一回だ! 動くなよ!」


「早くしろ!」


 二度目の輪が宙を飛んだ。


 綱は男の頭を越え、肩へ落ちた。


「右腕を上げろ!」


 男は歯を食いしばり、右手を荷枠から離した。


 疾風が綱を少し引き寄せると、輪が右肩を通る。男は再び板をつかみ、今度は左腕を輪の内側へ入れた。


「入ったぞ!」


「両腕を下ろせ! 脇で支えるんだ!」


 男が指示どおりにすると、輪は胸の下へ落ちず、両脇の下で止まった。


 疾風は綱を引いた。


 支柱に巻いた部分が張り、男の上半身を引き止める。


「掛かった!」


 ナギが叫んだ。


「綱を緩めるなよ!」


「分かってる!」


 疾風は支柱の根元へ足を踏ん張った。


 男の重さをすべて腕で受けるつもりはない。柱へ預け、手元の綱が滑らないよう押さえる。


 八歳のとき、橋の上で覚えたやり方だった。


 その瞬間、荷枠から大きな音がした。


 ばきんっ!


 外側の支え綱を留めていた金具が、割れた木枠から抜けた。


 荷枠が一気に傾く。


「うわあああっ!」


 男の足が床板から外れた。


 裂けた板が高架の下へ落ちていき、男の体も外側へ投げ出される。


 綱が勢いよく引かれた。


「ぐっ……!」


 疾風は両手で押さえた。


 支柱に二重に回した綱がきつく締まり、手元の端が掌を擦って滑る。


 焼けるような痛みが走った。


「いってえっ!」


「離すな!」


 ナギが叫んだ。


 疾風は指を食い込ませた。


 綱は少しずつ滑ったが、支柱に掛かった摩擦が男の重さを受け止める。


 疾風が足を踏ん張ると、ついに綱の動きが止まった。


 男は高架の外側に吊られていた。


 両脇を通した輪が体を支え、脚甲をつけた両足が宙で揺れている。


「……止まった」


 疾風は息を吐いた。


「ナギ! 止まったぞ!」


「まだ引き上げてねえだろ!」


「そうだった!」


 下では落ちた板が市場の通りへぶつかり、砂ぼこりが上がっていた。


 幸い、人々は通りの端へ退いていたらしい。少なくとも、倒れている姿は見えない。


 だが、確認する暇はなかった。


 男はまだ宙に吊られている。


「疾風! そこで綱を押さえてろ!」


 前方から侍の声がした。


 別の強盗を捕らえた監督の侍が、三番車へ駆けつけてきたのだ。


 侍は男の位置と綱の掛かり方を確かめると、近くの荷役へ指示を出した。


「二人、綱を引け! そっちの者は支柱から手を離すな!」


 荷役たちが疾風の後ろへ回った。


「せえの!」


 三人で綱を引く。


 男の体が少しずつ上がってきた。


 疾風も引こうとしたが、掌が痛んで指に力が入らない。


「いって……!」


「無理すんな! お前はそこで綱を見てろ!」


 ナギに言われ、疾風は支柱の根元へ目を戻した。


 綱がずれないか。


 柱に力が掛かりすぎていないか。


 もう、それだけを確かめる。


 男の胸が手すりの高さまで上がってきた。


 侍が身を乗り出し、男の服の襟(えり)をつかむ。荷役が肩を支え、何とか三番車の内側へ引き上げた。


 どさりと男の背中が床板へ落ちる。


「はあっ……はあっ……!」


 男は仰向けになり、荒い息を繰り返した。


 侍は男のすぐ横へしゃがんだ。


「脚甲を止めろ。妙な動きをしたら、今度こそ危ないぞ」


 男は震える手を膝の横へ伸ばした。


 留め金を押すと、脚甲の筒が縮んで動作音が消えた。


 侍は両手を後ろへ回させ、縄を掛ける。


 男は抵抗しなかった。


「怪我をしているなら、あとで診療所に連れていく。まずは大人しくしていろ」


 男は力なく頷いた。


 疾風はその様子を見届け、ようやく綱から手を離した。


 掌には赤い擦り傷ができていた。


 八歳のころについた白い傷跡の上を、また綱が通ったらしい。


「……またやっちまったな」


 ナギが足元へ来た。


「何をだよ」


「手だよ。せっかく治ってたのに」


「落とさなかったんだから、いいだろ」


 疾風は少し笑った。


 ナギはその手を見て、鼻を鳴らした。


「荷と同じで、きつく握りすぎなんだよ」


「今回はお前を握ってねえぞ」


「そういう話じゃねえ!」


*


「お前は紺野屋の荷役だな」


 監督の侍が疾風の前へ来た。


「そうだ。風切疾風。まだ見習いだけどな」


「見習いにしては度胸がある。しかし、荷枠を落とす前に周囲へ知らせてほしかった」


 疾風は返事に詰まった。


 細い留め綱を切れば床板が傾くことは分かっていた。


 太い支え綱が残れば、荷枠そのものは落ちないと思っていた。


 だが、その綱を留めている木枠の強さまでは考えなかった。


「……悪かった。落ちねえと思ったんだ」


「落とさずに済むよう手を尽くしたのは分かる。だが、下には人がいる。次は周りの安全も考えてから動け」


「分かった」


 侍は小さく頷き、部下の方へ向き直った。


 市場へ落ちた荷枠の板は、地上の荷役が通行を止めて回収を始めていた。幸い負傷者は出ていないという報告が届き、疾風は胸をなで下ろした。


 もう一人の強盗も、前方で拘束されている。


 二人とも侍が身柄を引き受け、怪我を確かめてから役所へ連れていくことになった。


 疾風は縄を掛けられた男を見た。


 先ほどまで荷を奪おうとしていた相手だ。


 今は力なく床へ座り込み、顔を上げようともしない。


「ナギ。あいつ、結局俺たちに追いつけなかったな」


「追いついてたら、お前が落ちてたけどな」


「……それもそうか」


 疾風は苦笑した。


 男を止めるところまでは、狙いどおりだった。


 だが、そこから先がまるで違った。


 脚甲の速さは見抜けた。


 綱を切れば荷枠が傾くことも分かっていた。


 それでも人の重さを支えるところまでは、読み切れなかったのだ。


「次は、ああなる前に止めてえな」


「次があっても困るけどな」


「そりゃそうだ!」


 ナギが大箱の方へ歩き出した。


「ほら、荷を確かめるぞ」


 疾風は目を丸くした。


「お前が先に言うのかよ」


「俺たちの仕事はまだ終わってねえだろ」


「……だな!」


 二人は荷台の中央へ戻った。


 診療所の器材は、大箱二つの間に固定されたままだった。


 荷札も綱も無事だ。


 ただし外箱の角には細い割れ目が入り、表面の木が少し浮いている。


「うわ。やっぱり割れてる」


「中身までは分かんねえな」


「診療所で確かめてもらうしかねえか」


「俺たちで勝手に開けんなよ」


「分かってるって!」


 疾風は固定綱の緩みを確かめ、受取札を袋へしまい直した。


 侍の許可が出て、荷車の列が再び動き始める。


 疾風は器材のそばへ腰を下ろした。


 少し先の分岐で荷車が配達先ごとに分かれ、空の燃料箱を見つけた前の車も別の道へ進んでいった。


 結局、燃料箱のことを聞く機会はなかった。


「……あれも調べたかったんだけどな」


「今は箱を届けろよ」


 肩へ戻ってきたナギが言った。


「ああ。まずは仕事だ」


 疾風は赤い字で『割れ物』と書かれた荷札を見下ろした。


 まだ一箱も届けていない。


 なのに、今日は朝から何日分も働いたような気がした。


*


 診療所に着いたころには、日が傾き始めていた。


 受取人は外箱を見て眉をひそめた。


「角が割れていますね」


「中身は無事だと思う。でも、ちゃんと確かめてくれ」


 疾風は高架荷路での出来事を説明した。


 強盗に襲われたこと。


 荷を守るために綱を固定したこと。


 荷枠が壊れ、人が落ちかけたこと。


 受取人は最後まで聞いてから箱を開いた。


 中には布で包まれた器材が入っている。


 細い金具とガラスの管を組み合わせた診療用の道具だった。


 一つずつ取り出し、傷や割れがないか確認していく。


 疾風は黙って見守った。


 最後のガラス管が灯りに透かされる。


 受取人は角度を変えて確かめ、元の布へ戻した。


「中身は無事です」


「よかったあ!」


 疾風は大きく息を吐いた。


 足から力が抜け、危うくその場へ座り込みそうになる。


「外箱は交換が必要ですが、器材は使えます。予定どおり届けていただいて助かりました」


「そりゃよかった。箱のことは店に言っとくよ」


 受取人が受取札へ印を押した。


 疾風は受け取ろうとして、思わず顔をしかめた。


「いてっ……」


「どうしました?」


「いや、ちょっと手を擦っただけだ」


 受取人が掌をのぞき込んだ。


 綱で擦れた部分が赤くなり、指の付け根には皮のむけた場所もある。


「それは洗っておきましょう。汚れが残っています」


「大したことねえよ」


「大したことがないうちに手当てするんです」


 言い返す間もなく水が用意された。


 疾風が掌を差し出すと、傷口へ冷たい水が流れる。


「いっててて!」


「我慢してください」


「ただの水なのに、何でこんなにしみるんだよ!」


「擦り傷ですからね」


 受取人は落ち着いて答えた。


 ナギは横で笑っている。


「お前、強盗相手には威勢がよかったのにな」


「お前も洗ってもらえよ!」


「俺は怪我してねえよ」


「知ってるって!」


 傷を洗い終えると、汚れが入らないよう薄い布を当てられた。


 疾風は指を曲げてみた。


 少し痛むが、荷札を持てないほどではない。


「よし。これなら明日も働けるな」


「今日はもう休んでください」


 受取人の言葉に、ナギが大きく頷いた。


「聞いたか、疾風。今日は終わりだぞ」


「分かってるよ!」


 疾風は受取札を袋にしまった。


 診療所の者たちに礼を言われ、二人は紺野屋へ戻ることにした。


*


「外箱代は十二文だね」


 紺野屋(こんのや)の帳場で、お紺(こん)は算盤(そろばん)を弾いた。


 疾風が受取札を差し出すと、店主は印を確かめてから外箱の損傷を書いた紙へ目を通した。


「中身は無事だったぞ!」


「そりゃよかったね。で、外箱は?」


「……角が割れた」


「だったら交換が必要だ。十二文、日当から引くよ」


「強盗に襲われたんだぞ!」


「事情は聞いてる。護衛の侍からも連絡が来たよ」


「だったら、少しまけてくれよ」


「もう十分まけてるさ」


 お紺は煙管を机へ置いた。


「荷枠まで壊して、人を落としかけたんだろ。高架便の管理所からどんな話が来るかと思ったよ」


「でも、ちゃんと助けたぞ」


「ああ。だから命の分はおまけしとく」


 疾風は口を閉じた。


 お紺は帳面の端を指で押さえ、続けた。


「荷を守ろうとしたのは分かる。強盗を見逃せなかったのもね。でも、助けたあとに壊れた物が元へ戻るわけじゃない。そこも勘定に入れなきゃ、店は続かないよ」


「……分かってる」


 疾風は財布を取り出した。


 今日の日当は二十文。


 外箱代を払えば、それだけで残りは八文だ。


 そこから寝床代と朝昼の飯代を引いたら、どうなる。


「……赤字じゃねえか!」


 疾風が叫んだところで、店の戸が開いた。


「紺野屋さん。診療所から届け物です」


 若い男が、大きな包みを抱えて立っていた。


 包みの隙間から白い湯気が上がっている。


「何だ、それ」


 疾風が顔を上げた。


「今日、器材を届けてくれたお二人へ。診療所からのお礼だそうです」


 包みを開くと、温かい飯と汁物が入っていた。


 湯気と一緒に、だしの匂いが広がる。


「おおっ!」


 疾風の目が輝いた。


「飯だ!」


 ところが、ナギはそれより早く動いていた。


 帳場の隅から小さな椀を二つ運び、一つを疾風の前へ、もう一つを自分の前へ置く。


 大きさを見比べ、ほんの少し考えてから位置を入れ替えた。


「おいナギ! まだ給金も受け取ってねえぞ!」


「飯が冷めるだろ」


「お前、仕事の報酬より先に飯かよ!」


「報酬なら、これもそうだろ」


 ナギは二つの椀を前足で押さえた。


「二人で運んだんだから、二人分だ」


 疾風は少しだけ黙った。


 五か月前、紺野屋へ初めて来た日のことを思い出す。


 あのときは綱の結び目一つで喧嘩をした。


 荷を降ろす順番も、道の曲がり方も、毎回言い合いになった。


 今だって、仲良く仕事をしているとは言い難い。


 それでも今日は、二人で箱を守った。


 ナギは疾風が思い出に浸っている間に、さっさと大きい方の椀を自分の前へ引き寄せた。


「おい! 何でそっちがでかいんだよ!」


「先に取ったからだ」


「俺の方がたくさん働いたろ!」


「俺が綱を切らなきゃ、あいつを止められなかっただろ!」


「俺だって縄を投げたぞ!」


「じゃあ椀は半分ずつでいいな」


「最初からそうしろよ!」


 お紺が二人の間へ日当の銭を置いた。


「飯の前に、ちゃんと帳面をつけな。外箱代も忘れずにね」


「……分かったよ」


 疾風は母からもらった帳面を開いた。


 日当、二十文。


 寝床代、八文。


 朝と昼の飯代、六文。


 外箱代、十二文。


 差し引き、六文の損。


 残り、四貫五十四文。


「うわあ。やっぱり減ってる」


「命が助かって六文なら安いもんだろ」


 ナギが言った。


「俺の命じゃねえけどな!」


「お前まで落ちてたら、もっと高くついたぞ」


「……それはそうだな」


 疾風は筆を置いた。


 今日の仕事先も忘れずに書き込む。


『診療所 器材一箱』


 その横へ、少し迷ってから『中身無事』と付け足した。


 さらに下に、ナギの名前を書く。


 荷を届けたのは二人だった。


「おい、疾風。早く食えよ」


 ナギが呼んだ。


 疾風は帳面を閉じ、椀の前へ座った。


 温かい汁物に顔を近づけると、湯気が頬へ当たる。


「うまそうだなあ」


「俺は先に食うぞ」


「待てって! 俺も食う!」


 疾風は椀を両手で持ち上げた。


 その瞬間、綱で擦った掌へ熱が伝わる。


「あっつ!」


 慌てて椀を置いた。


 汁がこぼれそうになり、今度は指先で縁を押さえる。


「いってえ! そっちも熱い!」


 ナギが腹を抱えて笑った。


「お前、綱より椀に負けてんじゃねえか!」

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