第6話 同じ荷台
都の空には、道がもう一本あった。
央都に着いた翌朝、十五歳の風切疾風は、忍務局へ向かう途中で立ち止まった。
頭上を荷車が走っている。
人の背よりずっと高い所に組まれた高架荷路には、木箱を積んだ車が何台も連なっていた。鉄の継ぎ目を車輪が踏むたび、乾いた音が通りへ降ってくる。
地上でも荷車が行き交い、屋台の主人は歩く客へ焼き栗を差し出していた。通りの端では河童が水路の蓋を外し、長い柄の道具で底にたまった泥をかき出している。
峠見宿なら市場の日にしか見ない混み方が、朝からどこまでも続いていた。
「上の道、荷が落ちたりしねえのかよ」
疾風は高架の下から少し離れ、柱を見上げた。
荷の重さを制限する札が掛かっている。昇り口には番人が立ち、一台通すごとに次の荷車を止めていた。
なるほど、誰でも勝手に乗り入れられるわけではないらしい。
それでも、あれだけの荷が頭上を行き来しているのは落ち着かなかった。
腰の袋を押さえて歩き出す。
妹のこよりが縫ってくれた袋には、荷札の束と小刀、昔の峠の地図が入っていた。母からもらった帳面は背負い袋にしまってある。
三日の道中で、銭はずいぶん減った。
途中の宿に二晩、昨夜の宿に一晩。合わせて二十四文。道中の飯代が十八文。
出発するときに持っていた一貫二十文は、今朝の時点で七十八文になっていた。
昨夜、帳面に書いてみて初めて気づいた。仕事を始める前から、四十二文も使っている。
「先に稼がねえとな。矢代さんに会えば、仕事も見つかるだろ」
疾風は歩く足を速めた。
忍務局の門には、腰に札を下げた忍びや、書類を抱えた役人が出入りしていた。門番に用件を伝えて中へ入ると、受付の奥には大きな帳面が何冊も積まれている。
「どちらの方ですか」
「風切疾風。矢代清十郎さんに会いに来た」
「紹介状はありますか」
「ねえけど、四年前に十六になったら来いって言われたんだ。あと半年くらいだし、先に来た」
係は筆を止め、疾風の顔を見た。
「今、おいくつですか」
「十五」
「それでは、まだ早いですね」
「だから、あと半年だって」
「妖怪との契約も、忍務局での仕事も十六歳からです。それに、矢代さんは捜索の任務で出張中ですよ」
「え、いねえの?」
思わず受付の板に両手をついた。
「いつ戻ってくるんだよ」
「決まっていません。任務の行き先もお伝えできません」
「じゃあ、半年待ったうえに、矢代さんが帰るまで待てってのか?」
「待つ必要はありません。荷運びの仕事なら、今の年齢でもできますから」
係は少し考え、一枚の紙を取り出した。
「十六歳になったら改めて手続きに来てください。こちらは試験の案内です」
「稽古くらいはできねえの?」
「忍務局では受け付けていません。ご自分で体を鍛える分には構いませんが」
疾風は紙を受け取った。
細かい字で受験の条件や必要な書類が並んでいる。年齢を証明するものも必要らしい。
「分かった。半年後にまた来る」
「その際は、年齢を確かめる書類を忘れずに」
「俺の顔、覚えといてくれよ」
「顔を覚えていても、年齢の証明にはなりませんよ」
「ちぇっ。融通が利かねえな」
紙を折り畳み、袋へしまった。
忍びになるために都まで来たのに、最初に教わったのは、まだ何も始められないということだった。
門へ戻る廊下が、来たときより長く感じられた。
*
「風切? 本当に来たの」
廊下の曲がり角から声がした。
振り向くと、地図筒を肩に掛けた若い女が立っていた。高く結った髪と、指先に残った墨の跡には見覚えがある。
隣には赤い組紐を首に巻いた、黒褐色の犬がいた。左耳の端が少し欠けている。
「朱莉!」
鈴守朱莉は疾風の顔を見てから、頭の先から足元まで視線を動かした。
「少しは背が伸びたのね。矢代さんに会いに来た?」
「来たけど、出張中だってさ。しかも十六まで仕事は駄目だって」
「早く来るとは思っていたけど、ずいぶん早いわね」
「早く来た分だけ、銭が減ったんだよ」
朱莉は少し笑い、地図筒から古い紙を取り出した。
「これ、覚えてる?」
広げたのは峠見宿の山道を描いた地図だった。
余白には少年の顔が描かれている。跳ねた前髪に、妙に太い右眉。どう見ても自分の顔なのに、どこか腹が立つ。
「おい、それ俺だろ! 何でまだ持ってんだよ」
「十三の夏に、あなたが案内してくれた道よ。顔を描いている途中で歩き出したから、眉を描き損ねたの」
「こんなに太くねえだろ!」
「今もその顔をしてるわ」
疾風が地図を取り返そうとすると、朱莉は器用に丸めて筒へ戻した。
二年前、朱莉は師匠の矢代と一緒に峠見宿へ来た。家を出た姉の足取りを追っていて、疾風は何日か山道を案内したのだ。
使われなくなった炭焼き道まで歩いたため、朱莉の地図には父も知らないような抜け道が描き込まれている。
「今は何やってんだ、朱莉」
「捜索の仕事。本免を取ったから、依頼を受けて人を探してる。今日は報告書を届けに来たところよ」
「本免か。いいなあ」
「あなたも十六になれば試験を受けられるでしょう」
「その前に飯代がなくなりそうなんだよ。俺にも何か手伝わせてくれ」
「資格がない人に忍務を任せたら、私まで叱られるわ」
隣の犬が鼻を鳴らした。
「朱莉、報告書を出す時間は大丈夫ですか?」
「あ、そうだった。先に届けてくるわ」
犬神のシグレに促され、朱莉は廊下の奥へ急いだ。
疾風は壁際に寄り、先ほど渡された試験案内を広げた。
受験資格の欄には、十六歳以上という条件がはっきり書かれている。その下には、妖怪との契約は双方の意思によるとあった。
そもそも、自分には契約を申し込めるほど親しい妖怪もいない。
帰ってきた朱莉は、紙の裏に店までの道を書いてくれた。
「北区の紺野屋へ行ってみて。店主のお紺さんは、腕のある運び手なら雇ってくれると思う」
「運送屋か。なら得意だ!」
「得意かどうかは、荷を届けてから言いなさい」
朱莉は地図の端を指で押さえた。
「紹介はするけど、雇うかどうかはお紺さんが決めることだから」
「分かってる。ちゃんと働くって」
「帳面は持ってる?」
「母ちゃんにもらった」
「それなら、銭を使った日に必ず書くこと。ここは峠より飯も寝床も高いんだから」
「……何でみんな同じこと言うんだよ」
朱莉は声を立てて笑った。
シグレまで、何か言いたそうにこちらを見ている。
「お前まで説教するなよ」
「僕はまだ何も言っていませんよ」
「顔が言ってる」
「それは困りましたね」
朱莉がもう一度笑ったので、疾風は地図を畳んで袋に押し込んだ。
忍びの仕事はまだできない。
だが、荷運びなら父のそばで何年もやってきた。都の道がどれほど複雑でも、荷を積んで届けることに変わりはないはずだ。
疾風は二人に礼を言い、忍務局の門を出た。
*
北区の紺野屋は、通りに荷車の後ろがはみ出すほど忙しい店だった。
看板の横には配達先を書いた札が何枚もぶら下がっている。荷場では人間と妖怪が入り混じって箱を数え、奥の帳場からは算盤を弾く音が聞こえていた。
濃紺の前掛けを締めた女が、火の入っていない煙管をくわえて出てきた。
「朱莉の紹介で来たってのは、あんたかい」
「風切疾風。峠見宿から来た。荷運びなら、うちでもやってた」
「そりゃ都合がいい。ここは荷が勝手に届いてくれないからね」
女は煙管を外し、疾風の手を見た。
「綱は扱えるのかい」
「毎日やってた」
「荷が傷んだら?」
「積み方を確かめて、揺れねえようにする」
「聞いたのは、傷んだときの話だよ」
疾風は少し考えた。
「……まず、どこで傷んだか確かめる。俺が悪けりゃ、ごまかさねえ」
「よし。話くらいはできるようだね」
女は壁から荷札を二枚引き抜いた。
「日当二十文。寝床は荷置き場の二階を貸すけど、八文は給金から引くよ。飯は自分で食いな」
「寝床つきで二十文か。悪くねえな」
「八文引くって言ったろ。耳が二文分くらい足りないね」
「聞こえてるって!」
「ならいい。まず六箱、二軒へ届けてもらう」
お紺が示した荷台には、大小六つの箱が載っていた。
前側の重い二箱は金物通りの修理屋へ。残る四箱は水路坂の薬屋へ運ぶ。薬屋の箱には割れ物の札が付き、中では小瓶が触れ合う音がかすかにしていた。
どの箱にも、受け取った証しをもらう札が一枚ずつ付いている。
「六枚とも印をもらって帰りな。取り違えたら給金より先に叱るよ」
「分かった!」
「それと、あんた一人じゃ後ろまで目が届かないだろ。ナギ、こっちへ来な」
「また新入りかよ」
荷車の下から、灰茶色の鎌鼬が出てきた。
腹の毛は白く、額には細い筋が一本通っている。長い尾を引いて後ろ足で立つと、疾風の手元を見上げた。
「ナギだ。お前は?」
「疾風。お前も荷運びしてんのか」
「そうだよ。お前より長くな」
「契約者は?」
「いねえ。俺は俺の名前で働いてんだ」
ナギは荷台へ身軽に跳び乗り、箱の並びを確かめた。
「で、何でそんな結び方してんだ?」
「ほどけねえようにだよ」
疾風は一本の太い綱を箱の間へ通していた。
重い金具箱を前に寄せ、軽い薬箱を後ろにまとめる。左右の重さを確かめ、全体を一度に締めようとしていた。
「ほどけなきゃいいってもんじゃねえだろ」
「荷が動かなきゃいいんだよ」
「最初に降ろすのは前の二箱だぞ。それを一本で全部締めたら、最初の店で薬箱まで緩めることになる」
「そこでもう一回結べばいいだろ」
「都の店先で、六箱全部を結び直すつもりか?」
疾風は綱を引く手を止めた。
父の荷車なら、荷を下ろすたびに止まって結び直しても仕事になった。だが紺野屋の前を通る荷車は絶え間なく、人が車をよけながら歩いている。
店先で長く場所を取れば、後ろの車まで止めてしまう。
それに、昔、父に何度も言われたことがあった。
荷は積むより、下ろすときが面倒なんだ。
「……じゃあ二本に分ける。前と後ろで」
「最初からそうしろよ」
「分かってることを一々うるせえな!」
「分かってた奴は、そんな結び目作らねえよ」
ナギは前の二箱を指し、小さな前足で綱の通し方を示した。
疾風が後ろの四箱を別に締めると、ナギは結び目を一度引いて確かめる。前の箱を横から降ろしても、後ろの綱は緩まない。
お紺が帳場から声をかけた。
「あんたら、喧嘩するのは構わないけどね。日が暮れたって給金は増えないよ」
「俺はもう行ける!」
「俺もだ!」
返事だけはそろった。
互いに顔を見てから、二人ともそっぽを向いた。
荷車を通りへ出すと、疾風が前から引き、ナギは後ろで荷台と車輪を見張った。
金物通りでは修理屋の前へ荷車を横づけにした。疾風が金具箱を一つずつ降ろす間、ナギは綱を押さえ、受取札と箱の印を照らし合わせる。
修理屋の主人が中身を数え終わると、二枚の札に印を押してくれた。
「ほら、最初の二箱は傷なしだ!」
「俺が綱を分けさせたからな」
「積み方は俺が考えただろ!」
「積み方は悪くなかったって言ってんだよ」
疾風は言い返しかけたが、ナギはもう荷台へ跳び乗っていた。
次の水路坂では、道が混んでいた。
水路沿いの石畳に荷車が三台並び、細い曲がり角で動けなくなっている。前の車が荷を下ろすのを待つしかないらしい。
疾風は道幅を見た。
右の車との間に、荷車一台が通れそうな隙間がある。
「ナギ、あそこから抜けるぞ」
「待て。左の後輪を見ろ」
疾風が振り向くと、ナギは荷台の後ろから石畳の端を指していた。
水路側の石が一段低くなっている。
「そのまま曲がったら、左の車輪が端に乗る。四箱とも水浸しだぞ」
「まだ乗ってねえだろ」
「乗ってから言っても遅えよ」
疾風は引き棒を持ったまま、車輪の位置を確かめた。
前輪は通れても、後輪は内側を通る。今の角度なら、確かに石畳の端にかかりそうだった。
「……分かった。いったん戻す」
「右に寄せるなよ。そっちは人が通ってる」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
「前の空車が抜けるまで待つ。それから、一尺くらい右に振れば曲がれる」
「それを先に言えって!」
ナギが向かいの運び手に声をかけると、相手は荷車を少し寄せて道を空けてくれた。
疾風は通りの人が途切れるのを待ち、引き棒を握り直した。ナギの合図に合わせて車体を右へ戻し、後輪が石の内側を通る角度を作る。
「そこだ。ゆっくり行け」
「分かってる!」
車輪が曲がり角を抜けた。
荷台は大きく揺れず、四箱とも動かなかった。
疾風が振り向くころには、ナギはもう受取札をくわえていた。
「ほら。行くぞ」
「お前、先に行き方まで言えばいいのに」
「お前がすぐ突っ込もうとするから、止めるのが先なんだよ」
「口の減らねえ奴だな!」
「お互いさまだろ」
水路坂の薬屋には、四箱とも無事に届いた。
受取人が最後の箱の底まで確かめ、札へ印を押す。疾風は六枚そろった受取札を数え直し、ようやく息をついた。
紺野屋へ戻るころには、夕方になっていた。
お紺は受取札を一枚ずつ並べ、箱の数と印を確かめた。全部そろうと、算盤の玉を二度動かす。
「六箱、傷なし。初日なら上出来だね」
「だろ!」
「ただし、水路坂で無理に曲がろうとしたね?」
「……何で知ってんだよ」
「その道で荷車を引っ掛ける新入りは、あんたが初めてじゃないんだよ」
疾風が口を閉じると、お紺はナギへ目を向けた。
「止めたのはナギかい」
「俺が後輪を見た。こいつは前しか見てなかった」
「俺だって、最後はちゃんと通しただろ!」
「なら二人で届けたってことだね」
お紺は笑い、日当の二十文から寝床代の八文を差し引いた。
「ほら、十二文。飯代はここから出しな」
硬貨を受け取ると、疾風は数を確かめた。
十二文。
六箱も運んで、これだけか。
だが、傷を付けずに届けたのも確かだった。
「明日も来ていいんだよな」
「荷札を間違えずに戻ってきたなら、明日も仕事はあるよ」
「よし!」
疾風は銭を袋にしまった。
ナギは隣で受取札をそろえている。小さな前足が思った以上に器用で、角をきれいに合わせるのが早かった。
「ナギ、明日も同じ荷台か?」
「お紺さんがそう言えばな」
「今度は俺のやり方で積むからな」
「荷が落ちなきゃ、勝手にしろよ」
相変わらず、素直な返事は返ってこなかった。
*
夜、疾風は荷置き場の二階へ上がった。
低い天井の下には小さな寝床があり、壁際に荷物を置けるだけの空間があった。宿より狭いが、毎晩寝る場所を探さなくていいのはありがたい。
背負い袋から母の帳面を取り出す。
出発時の残高は一貫二十文。
三晩の宿代と道中の飯代で四十二文を使い、今朝は七十八文。
今日の日当が二十文。寝床代として八文を引かれた。朝から夜までに食べた粗末な飯が、合わせて九文。
帳面の端で計算をやり直した。
残り、八十一文。
「一日働いて三文かよ……」
思わず天井を見上げた。
都へ来るだけで使った四十二文を取り戻すには、この調子だと十四日もかかる。
しかも、同じだけ仕事があるとは限らない。
母が何度も帳面を付けろと言った理由が、ようやく分かってきた。
「まあ、仕事が見つかっただけでもいいか」
疾風は帳面に今日の仕事を書き足した。
紺野屋。六箱。金物通りと水路坂。傷なし。
その横に、もう一つ名前を書く。
ナギ。
一人で届けたわけではなかった。荷台の後ろを見てくれる相手がいなければ、薬箱を水路へ落としていたかもしれない。
それは悔しいが、帳面にはちゃんと残しておくことにした。
階下から、荷車の軸を拭く音が聞こえる。
疾風は昼間の結び方を思い出し、店で借りた予備の綱を一本取り出した。
前の二箱と後ろの四箱。
届け先ごとに分けて締めるのは分かった。だが、ナギが使っていた結び目は、疾風が父に教わったものとは少し違っていた。
真似して輪を作り、綱の端を通す。
一度引くと締まる。もう一度引いても緩まない。
「ほら。これでいいだろ」
ほどこうとして、指が止まった。
綱の端が別の輪に入り込み、どこから引けばいいのか分からなくなっている。
「……何だよ、これ」
結び目を裏返してみる。
締めるときは簡単だったのに、ほどこうとすると妙に固い。
「うるせえなあ、あいつ。これだってほどけねえだろ」
「だから、ほどくときに困るんだろ」
階段の下から声がした。
ナギが荷札を一枚くわえ、二階を見上げていた。どうやら階下で仕分けをしていたらしい。
「お前、何で聞いてんだよ!」
「聞こえるんだよ。独り言がでけえから」
「今、試してるところだ!」
「へえ。じゃあ、その綱、今すぐほどいてみろよ」
疾風は綱を引いた。
結び目が、さらに固くなった。
ナギはしばらく黙っていたが、やがて鼻を鳴らした。
「お前の綱、結び目が一つ多い」




