第5話 峠を下りる日
荷台の最後の綱を締めたところで、疾風は父に言いかけたことを飲み込んだ。
十五歳の九月。峠見宿の運送屋、風切家の荷場には、橋の工事場へ運ぶ木材と金具が積まれていた。父の源次と二人で出る、いつもの朝だ。
ただ、明日も同じ荷車の横を歩くつもりはなかった。
「おい、疾風。そっちの綱、締めすぎだ」
「木が動かねえようにしたんだよ」
「動かなきゃいいってもんじゃねえ。角が割れたら弁償だぞ」
源次は荷台に上がり、木材の角に当てていた布を少しずらした。疾風が綱を引き直すと、木のきしむ音がやんだ。
幼いころなら、父に結び目を直されただけで腹を立てていた。今は、布の位置を先に確かめておくべきだったと分かる。
「よし。これでどうだ」
「悪くねえ。橋まで頼むぞ」
父が引き棒を持ち、疾風は荷台の左へ回った。
少し前まで背伸びして見ていた荷台の上も、今は手を伸ばせば金具箱に届く。両の掌には、八歳のときに綱で擦った白い傷痕が残っていた。
谷へ近づくと、木槌の音が聞こえてきた。
見返り橋では古い橋板が外され、新しい支柱を立てる工事が進んでいた。七年前の事故から何度も修理して使ってきたが、ようやく橋を架け替えることになったのだ。
両岸には通行止めの綱が張られている。川を渡る荷は、工事の間だけ下流の渡し場へ回されていた。
「向こうまで運ぶなら、下の渡しを使うんだな」
「今日はこっち岸の工事場までだ。受取人も来てる」
源次が顎で示した先に、材木を数える男がいた。
荷車を止める場所には別の木材が積んである。まっすぐ進むと右の車輪が溝に落ちるため、疾風は少し手前で父を止めた。
「親父、ここで降ろそうぜ。奥まで入ったら出るとき困る」
「そうだな。先に車輪止めを入れてくれ」
疾風は楔を打ち込み、荷台の上を確かめた。右側には重い金具箱があり、左側には木材の束が積まれている。
「左の木材から降ろしたら、右へ傾くな。箱を先に下ろそう」
「人足が来るまで動かすなよ。俺が荷台を押さえる」
疾風が呼ぶと、人足が二人やってきた。
金具箱を持ち上げる間、源次は反対側から荷台を支えた。箱が地面へ着くと車体が軽くなり、残りの木材も一束ずつ下ろせた。
「風切さんの息子か。荷の扱いが上手いな」
受取人が笑う。
源次は荷札を渡しながら答えた。
「口も達者でね。来年あたり、帳場の方も覚えさせようかと思ってます」
「そりゃ心強い。親父さんも楽になるな」
疾風は空になった荷台を見た。
父は冗談めかしていたが、受取人は本気で頷いている。
「疾風、積み残しは?」
「ねえよ。箱も木材も、荷札と合ってる」
「なら、受領の印をもらってくる。車を見ててくれ」
父が受取人と帳面を確かめている間、疾風は橋の入口へ歩いていった。
古い橋板は半分ほど外され、川の上には新しい足場が組まれている。七年前に自分が歯車の箱を落とした場所も、今はその下に隠れていた。
あの日は、父の荷車を守ることしか頭になかった。
今なら、橋の手前で通るのをやめるかもしれない。荷を分けて渡す手もあったはずだ。
もっとも、あのときの自分にそんなことを言っても、聞く耳を持たなかっただろう。
「何を見てる」
戻ってきた源次が隣に立った。
「橋。できたら、車が二台一緒に渡れるかな」
「一台ずつだろうな。幅が広がっても、決まりは簡単には変わらん」
「そっか」
源次はしばらく工事場を眺めていたが、やがて空の荷台を指でたたいた。
「帰り道も手伝え。今日はまだ仕事のうちだぞ」
「分かってるって」
疾風は荷車の横へ戻った。
父に出ていく話をするのは、晩飯の席と決めていた。
今言い出したら、残りの道をどう歩けばいいのか分からなくなりそうだった。
*
夕飯の椀が片づきかけたころ、疾風は箸を置いた。
母のしのは帳面を閉じ、こよりは隣で布を縫っている。父は飯をもう一口食べようとしていた。
四人そろっている今しかない。
「親父。母ちゃん。話がある」
「何だい、改まって」
「俺、明日、央都へ行く」
源次の箸が止まった。
しのは帳面の上に置いた筆を指で押さえた。こよりも針を持ったまま顔を上げる。
「荷を届けに? 父ちゃんの仕事?」
「違う。しばらく帰らねえ。都で働いて、忍びになる」
こよりの手元から糸巻きが転がり、畳の端で止まった。
疾風が拾おうとすると、先に源次が口を開いた。
「矢代さんとの約束か」
「ああ。十六になったら忍務局へ来いって言われた。まだ十五だから、先に都で仕事を探す。荷運びならできるし」
「うちの荷運びじゃ駄目なのか」
疾風は膝の上で両手を合わせた。
昼間、父が帳場を覚えさせると言ったときの声が耳に残っている。
「親父の店は好きだ。仕事だって嫌いじゃねえよ。荷を届けて、相手が銭を払って、また次の荷が来る。そういうの、面白いと思ってる」
「だったら、継げばいいだろ」
「それだと、俺の店じゃねえんだよ」
源次は箸を置いた。
疾風は父の顔を見たまま続けた。
「自分の名前で店を持ちたいんだ。荷を運ぶだけじゃなくて、道で困ってる奴も助けられる店をさ。忍びになれたら、人を探したり守ったりする仕事もできるだろ」
「矢代さんたちみたいに、か」
「うん」
四年前、炭焼き道で偽札の連中を捕まえたとき、疾風がしたのは道案内だった。
矢代と女の忍びが男たちを押さえ、役人が逃げ道を塞いだ。自分は高台で見ているしかなかった。
道を知っていることは役に立った。それでも、あの場へ自分も行けたらと思ったのを覚えている。
「忍びになるって言っても、簡単じゃないだろうね」
しのが帳面を脇へ寄せた。
「分かってる。知らねえことの方が多いし。だから都へ行くんだ。まず働いて、銭を貯める。十六になったら試験を受ける」
「寝る所は決まってるのかい」
「まだ。運送屋なら、どこか一軒くらい雇ってくれるだろ」
「『だろ』で飯は食えないよ」
「……それは、行って探す」
母の返しには勝てそうになかった。
しのは少し考えてから、もう一度口を開いた。
「働き口が見つからなかったら?」
「別の店を探す」
「泊まる銭がなくなったら?」
「その前に帰る。……いや、手紙を出す」
「それならいいよ。どこにいるかも分からないんじゃ、助けようがないからね」
疾風は頷いた。
八歳のとき、父に何も言わず谷へ下りたことがある。
あのときは、帰ってこなければどこを探せばいいのかと叱られた。今度はせめて、いる場所くらい知らせなければならない。
「兄ちゃん、お店できたら、こよりの袋も置いてくれる?」
こよりが糸巻きを拾いながら尋ねた。
「袋?」
「母ちゃんの古着と一緒に。こよりが縫ったの、売るんだよ」
「縫い目が曲がってなきゃな」
「曲がってないもん!」
十一歳になった妹は、母の仕事を手伝って袋や小物を作るようになっていた。
四年前にくれた小さな地図袋は、今も使っている。あのころより縫い目はそろってきたが、兄に言い返す速さだけは変わらない。
「ちゃんと作れたら置いてやるよ。俺の店に」
「約束だからね」
「ああ」
源次が湯飲みを置いた。
「明日、何刻に出るつもりだ」
「……夜明けに。下りの荷車に乗せてもらえたらと思ってる」
「便はある。明日の朝、荷場で運び手に話をつけてやる」
「いいのか?」
「乗せてもらうなら、先に頼んどかなきゃ駄目だろ」
父はいつもの調子で答えた。
「反対しねえの?」
「反対したら、やめるのか」
「やめねえ」
「だったら言うだけ無駄だ。お前が決めたことだろ」
源次は湯飲みを机に戻した。
「だが、条件はある」
「何だよ」
「仕送りはいらねえ。年に一度は顔を見せろ」
「……それだけ?」
「荷を預かる前には相手の名前を聞け。道が変わったら知らせろ。困ったら帰ってこい。言いたいことなら、まだいくらでもあるぞ」
「分かったって! 年に一回は帰るから」
「一回以上でもいいんだぞ」
源次がそう付け足すと、こよりが吹き出した。
疾風も笑ったが、父が箸を取り直してから、少し遅れて自分の箸を持った。
残った飯は冷めかけていた。
*
夜、しのは帳場の奥から小さな帳面を出した。
表紙の端が少し擦れているが、中の紙は新しい。最初のページだけが空白で、次には銭の数え方と荷の記録の付け方が書かれていた。
「それ、母ちゃんのか?」
「あんたのだよ。今日から使いな」
「俺、字くらい書けるぞ」
「字じゃなくて銭の話」
しのは帳面を開き、空白のページを指で押さえた。
「銭の出入りは全部書きな。書かない銭は、いつの間にか消えるんだよ」
母は小さな財布を机に置いた。
中には疾風がこれまで荷場の手伝いで貯めた分と、父母が用意した餞別が入っている。家業の帳面には、渡した額がすでに記されていた。
「ほら、数えな」
疾風は自分の貯金も取り出し、硬貨を一枚ずつ並べた。
八歳のころ、谷で助けた薬売りの老人からもらった硬貨も混じっている。使わずに残していた一枚だ。
全部数え終えると、しのが尋ねた。
「いくらあった?」
「一貫二十文」
「帳面に書いときな」
「今?」
「明日の朝には使うだろう。最初の銭がいくらあったか、忘れないうちに書くんだよ」
疾風は筆を取ろうとしたが、少し考えて止めた。
「明日、出るときに書く。今夜はまだ一文も使わねえから」
「そうかい。なら、出る前に必ず書きな」
しのは筆と小さな墨入れを一緒に渡した。
「都の飯は高いよ。仕事が見つかるまで、無駄に使っちゃ駄目だからね」
「これだけあれば、しばらく持つだろ」
「その『だろ』を帳面で減らしな」
疾風は財布を閉じた。
しのは帳場の隅に積んだ古着へ目を向けた。色の違う布を合わせたり、ほつれた所を直したりするのが母の夜の仕事だ。
「母ちゃんも、いつか店を出すんだっけ」
「今だって小さな売り場はあるよ。店と呼べるようになるのは、もう少し先だけどね」
「じゃあ、俺が先に店を出したら場所貸してやる」
「家賃を取る気だろ」
「安くしとくって」
「先に自分の家賃を払えるようになりな」
そこへ、こよりが布の包みを抱えて入ってきた。
「兄ちゃん、これ。明日から使って」
包みの中から出てきたのは、紺色の袋だった。
口には長い紐が付き、腰へ結べるようになっている。四年前の小さな地図袋よりひと回り大きく、布も厚い。
「底を二重にしたの。重い物を入れても抜けないように」
こよりは袋を裏返して見せた。
口の辺りには少し曲がった縫い目もあるが、底の部分は細かく縫い重ねてある。疾風が荷札の束と古い地図袋を入れて持ち上げても、形は崩れなかった。
「お、いいじゃん。これなら帳面も入るな」
「小刀は、鞘に入れてからにしてね。布が切れちゃう」
「分かってるよ」
疾風は腰へ袋を当てた。
こよりが後ろに回り、長い紐を結んでくれる。少し緩かったので、疾風が前から袋を引くと、妹は結び目をもう一度締め直した。
「ちゃんと使ってね。破けたら、帰ってきたとき直すから」
「直さなくていいくらい丈夫にしてくれよ」
「じゃあ、破けるまで帰ってこないの?」
疾風は返事に詰まった。
こよりは真面目な顔のまま、袋の紐を握っている。
「年に一回は帰るって言っただろ。袋が破けなくても帰るよ」
「ほんと?」
「ああ。土産も買ってくる」
「何の?」
「何がいいんだよ」
「都でしか買えないやつ」
「そんなの行ってみなきゃ分かんねえだろ」
「じゃあ、行ってから考えてね」
こよりが小指を差し出した。
疾風は笑いながら、自分の小指を掛けた。
「約束な」
「うん。絶対だからね」
指を離したあとも、こよりは袋の結び目をもう一度確かめていた。
*
翌朝、茶屋の前には見送りに来た者が集まっていた。
おトメ婆は湯気の上がる握り飯を二つ、手拭いで包んでいた。その隣では、孫の千代松が長い紙を広げて何かを確かめている。
「疾風さん。都へ行く道、ちゃんと調べましたか?」
「知ってるって。親父と荷を運んだことあるし」
「でも、途中に泊まる場所があります。渡し場の先で道を間違えると、ずいぶん遠回りですよ」
「お前、見送りに来たのか説教しに来たのか、どっちだよ」
「両方です」
千代松は真顔で答えた。
疾風が口を開きかけると、おトメ婆が握り飯の包みを押しつけてきた。
「一つは道で食べな。もう一つは腹が減ったときの分だよ。二つともすぐ食べちゃうんじゃないよ」
「昔も同じこと言ってたな」
「昔もあんたは二つ食べようとしたんだよ」
「今なら我慢できるって」
「本当かねえ」
おトメ婆は笑い、疾風の腰にある袋へ目を向けた。
「その袋、こよりが縫ったのかい」
「ああ。昨日もらった」
「いいねえ。あの子、手先が器用になったよ」
「口も達者だけどな」
千代松が紙をたたんだ。
「疾風さん、もし道で迷ったら、無理に進まないでくださいね」
「お前まで親父みたいなこと言うなよ」
「僕は、迷ったら道を聞くように言ってるだけです」
「分かってるって!」
荷場では下りの便が支度を終えていた。
疾風の荷物は腰の袋と小さな背負い袋だけだ。父は運び手に声をかけ、途中まで荷車に乗せてもらうことを確かめている。
「忘れ物はねえな」
「ない。荷札も小刀もある。地図も帳面も入れた」
「銭は?」
「一貫二十文。ちゃんと数えた」
「ならいい。着いたら、仕事先を探す前に寝る所を決めろよ」
「分かってる」
「決まったら店の名前を知らせろ。手紙の届け先がないと困る」
「親父が迎えに来るのか?」
「荷代を取りに行くときはな」
源次が笑った。
しのは疾風の襟を直し、余計なことは言わずに一歩下がった。
こよりが腰の袋をもう一度触った。
「兄ちゃん、底がほつれてない?」
「昨日縫ったばっかだろ」
「だから見てるの!」
こよりは袋の底を確かめ、ようやく手を離した。
「ちゃんと帰ってきてね」
「分かってる。土産も忘れねえよ」
「忘れたら怒るから」
「はいはい」
疾風は運び手に礼を言い、荷車の横へ回った。
いつもなら父の引く荷車に付いて歩くところだが、今日は別の車だ。車輪の癖も、綱の結び目も違っている。
積み荷の揺れを確かめてから、疾風は一度だけ振り返った。
「じゃあ、行ってくる!」
「気をつけな!」
おトメ婆の声が背中を追った。
千代松が何か叫んでいる。よく聞こえなかったので手を振ると、向こうも大きく振り返してきた。
父は片手を上げ、母はこよりの肩に手を置いていた。
荷車が動き出す。
町外れまで来ると、峠見宿の屋根が一つずつ遠ざかった。先には央都へ続く道が延びている。
都までは三日。
父の荷台を手伝う必要はもうない。帰りに何を積むか考える必要もない。
その代わり、今夜どこに泊まるかも、明日何を食べるかも、自分で決めなければならなかった。
疾風は腰の袋を押さえた。
こよりが縫った底はしっかりしている。中には地図と荷札の束、小刀、それから母の帳面が入っていた。
坂の上の水場で、運び手が車輪を確かめるために荷車を止めた。
疾風は道端の石へ腰を下ろし、帳面を取り出した。
昨夜は銭を数えるだけで、まだ何も書いていない。今日から使うと母に言われた帳面だ。
小さな墨入れの蓋を開け、筆を取る。
空白の最初のページを押さえ、自分の字でゆっくり書いた。
『残り 一貫二十文』




