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百鬼夜行 ~少年忍者と毒舌鎌鼬の物語~  作者: MIYA
第1部「峠見宿」

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第4話 道は一つじゃない

四十文の荷代が、紙切れ一枚になった。


 三月の終わり、十一歳の風切疾風(かざきりはやて)は峠見宿(とうげみじゅく)の帳場で、父の源次(げんじ)が持ち帰った札を見つめていた。昨日運んだ荷の代金を受け取ろうと、今朝、指定された荷問屋へ行ったところ、札が偽物だと分かったらしい。


「偽物って、何が違うんだよ」


「この印だ。うちの札じゃねえと突き返された」


 源次が机に二枚の札を並べた。荷問屋が使う本物の引換札は、紙の端に店印が半分だけ押されている。店に残した控えと合わせれば、印が一つにつながる仕組みだ。


 ところが昨日の客に渡された札は、印が紙の中央に収まっていた。


「だったら、受け取る前に分かるだろ」


「荷を下ろしたあとで渡されたんだ。こっちは印の位置まで覚えちゃいねえ。うまくやられた」


 父は昨日の夕方、三人組に頼まれて荷を峠の中腹まで運んだ。大きな袋が二つと、底の固い木箱が一つ。男たちは炭小屋の近くで荷を下ろさせ、その場で引換札を渡してきたという。


 荷を受け取った三人は、包みを持って山道の奥へ消えた。名乗った名前も本物かどうか分からない。


 しのは帳面の荷代の欄に四十文と書き、横に小さく印を付けた。入金を記す場所は空いたままだ。


「行き帰りの燃料は使った。荷車も傷む。これじゃ働いた分だけ損だよ」


「相手が見つかりゃ払わせるさ」


「どうやって探すんだい。旅人なんて毎日来るのに」


 疾風はもう一度、荷を下ろした場所を聞いた。


「その炭小屋、古い石段がある所だろ?」


「ああ。道が狭くて車を回すのに苦労したぞ」


「俺、そこなら知ってる。炭焼きの道だ」


 三年前、谷へ勝手に下りて大目玉を食らってからも、父の仕事について峠の道を何度も歩いた。荷車が通れる場所と、人だけが抜けられる場所はだいたい頭に入っている。


「昨日の連中、奥へ行ったんだろ。なら、どこへ抜けるか見に行けばいいじゃん」


「今もそこにいるとは限らねえぞ」


「行ってみなきゃ分かんねえだろ」


 疾風は戸口へ向かったが、源次が先に立ち塞がった。


「三年前に何て叱られたか、覚えてるか」


「分かってる。行くなら言ってから行く」


「言っただけじゃ許可にはならん」


「まだ何もしてねえって!」


 疾風は伸ばしかけた手を引っ込めた。三年前に綱で擦(す)った傷は、今も両の掌(てのひら)に白く残っている。


 父の目がそこへ落ちたので、疾風は両手を後ろに回した。


 戸がたたかれたのは、そのときだった。


*


 訪ねてきた男は、旅の汚れが付いた羽織(はおり)を着ていた。


 背は高くないが、すり減った草鞋(わらじ)で長い道を歩いてきたらしい。腰には細身の刀を差している。


 隣には派手な柄の着物を着た背の高い女がいた。女は挨拶より先に帳場をのぞき、机の札へ目を向けた。


「偽の引換札を使った者たちについて、お話を伺いたいのですが」


 男は源次に声をかけた。


「忍務局の矢代(やしろ)と申す。それがしらは、同じ札を使う一団を追っておりましてな」


「忍びが来るような話なのか。うちは運賃を踏み倒されただけだぞ」


「その踏み倒しを、三つ先の宿でもやっていまして」


 矢代は札を手に取り、印の位置を確かめた。


 女は昨夜の三人の背格好と荷物の数を尋ねた。源次が答えると、顔の特徴や着ていた物まで順に聞いていく。


「荷を下ろした場所は?」


「炭小屋の手前だ。あいつら、そこで荷を抱えて奥へ入っていった」


「ふうん。やっぱりね」


 女は矢代と顔を見合わせた。


「今朝、宿の裏で荷車を探してる旅人がいたんだ。男が三人。袋が二つと木箱一つを、もっと先まで運んでほしいってさ」


「昨日の連中か?」


「背格好は聞いた話と合う。ただ、あたしはまだ荷を見てないからね」


 疾風は二人の間から顔を出した。


「炭焼き道なら、奥へ抜けられるぞ」


 女が振り向いた。


「ハヤ坊、その道は荷車も通れる?」


「誰がハヤ坊だ。通れるけど、炭をいっぱい積んでたら曲がれねえ所がある」


「詳しいね。案内してくれるなら幾ら?」


「四十文」


 女は声を出して笑った。


「高いねえ。焼き栗三袋じゃ駄目?」


「四十文分の栗なら考える」


「食べきれなくて腹を壊すよ?」


「余ったら売る!」


「人の荷代を勝手に値付けするな」


 源次に言われ、疾風は口を尖(とが)らせた。


 矢代が机に小さな地図を広げた。峠を越える本道と下流の渡し道が引いてある。炭焼き道は入口だけが描かれ、途中で途切れていた。


「連中が山の向こうへ出るなら、今日か明日でしょう。役所も本道を見張っておりますが、裏道までは手が回らぬようで」


「こっちだよ。炭小屋の先で二つに分かれるんだ」


 疾風は地図の余白を指でたどった。


 上の道は峠の古道へ続き、下の道は沢に沿って山裾へ回り込む。雨が降ると下側は崩れやすいが、ここ数日は晴れている。


「この二股で待てばいいじゃん。どっちへ行っても見えるぞ」


「見張りに気づいたら、どうするでしょうね」


 女が上の道を指した。


「一人だけ様子を見に来るかもしれない。こっちに役人がいたら、引き返して別の道へ逃げられるよ」


「じゃあ、見張りを隠せばいいだろ」


「どこに?」


「だから、ここ……」


 疾風は地図に顔を寄せた。


 炭小屋へ続く坂は、荷車が通れるほど広い。だが道の脇には炭袋を積む場所があり、そこへ車を置けば、荷を扱う人間がいても目立たない。


「うちの荷車を使おうぜ。炭の袋を積んで、道の途中に置いとくんだ。荷を運んでるふりをすりゃ近づけるだろ」


「囮(おとり)にするわけか。悪くないね」


 女は笑ったが、矢代はすぐに頷(うなず)かなかった。


「連中は昨日、親父殿の荷車を見ているのでしょう。同じ車と分かれば、近づいてきますまい」


「なら、側板を外せばいい。うちの印も隠せる。炭の袋を積んだら、見た目はだいぶ変わるぞ」


 疾風が言うと、源次が眉を寄せた。


「勝手にうちの車を分解するな」


「親父ならすぐ戻せるだろ」


「そういう問題じゃねえ」


 女は荷車の話を聞きながら、地図の下側を指差(ゆびさ)した。


「どうせあたしが運び手のふりをするんだ。あの三人から荷を預かって、こっちへ連れてくればいい。途中で止めるより自然だろ?」


「なるほど。ただ、どこで捕らえるかは考えねばなりません」


 矢代が道の先を見た。


「小僧。荷車が向きを変えられぬ場所は、ほかにもありますかな」


「ある。炭窯の裏」


 疾風は地図の下側にある細い道を示した。


「土がえぐれてるんだ。空の車なら通れるけど、重い荷を積むと後ろの車輪が引っ掛かる」


「止まった車を押さえる。その間に、三人を捕らえましょう」


「でも、足で逃げるなら沢へ下りられるぞ」


「そこには役人を置く。出口を教えてもらえたのはありがたい」


 矢代はそこで初めて笑った。


 疾風は地図の上に残っている細い線を確かめた。沢の道は途中で折れ、古い石段の下へ出る。向こう側まで回り込まなければ、逃げた相手を先に捕まえられない。


「役人が上から下りたら間に合わねえぞ。先に石段の下へ行かせろよ」


「ええ。そういたしましょう」


 矢代は地図に小さな印を付けた。


「荷車は貸す。だが息子は乗せねえぞ」


 源次が腕を組み、二人の忍びを見比べた。


「承知しております。それがしらが捕らえます。小僧には道を教わるだけで十分です」


「俺だって、もうちょっと役に立てる!」


「もう十分立っておりますよ」


 疾風が言い返そうとすると、女が横から地図を覗(のぞ)き込んだ。


「だったら、もう一つ仕事を頼もうかな。古い石段まで、役人を迷わず案内できる?」


「できる。あそこなら何度も通った」


「じゃあ決まり。そこまでお願いするよ。あとは大人の仕事ね」


 女は地図をたたみ、疾風の頭を軽くたたいた。


「報酬は焼き栗三袋でいい?」


「だから四十文だって!」


「捕まえられなかったら、どっちもなし」


 今度は言い返せなかった。


*


 夕暮れ前、疾風は父とともに、炭窯から少し離れた高台にいた。


 昼のうちに役人を古い石段まで案内し、沢から下りてくる道を教えてある。今は源次と合流し、山道の曲がり角を見下ろしていた。


 炭窯の裏には荷車が通れる細い道が一本あり、その横から沢へ向かう足場が続いている。高台からは両方が見えた。


 下へ降りるなと父から何度も言われ、疾風は地面に座っていた。


 坂の下から荷車が現れた。


 引いているのは昼に来た女だ。派手な着物は地味なものに替わり、頭には頭巾(ずきん)をかぶっている。


 荷車には麻布(あさぬの)で包んだ袋二つと木箱一つが載っていた。側板が外され、風切家の印も見えない。


 それでも疾風には、右の車輪に付いた古い傷で自分の家の荷車だと分かった。


 女の後ろを、旅装の男が三人歩いていた。


「昨日の連中だ」


 源次が声を落とした。


「間違いねえのか?」


「荷を下ろしたときも、あの順番で立ってた。先頭の男が銭の話をして、後ろの二人が荷を見てたんだ」


 疾風は三人を見つめた。


 先頭の男は何度も振り返り、最後尾の男は道の脇(わき)を確かめながら歩いている。荷を運ばせている女を、見張るような距離の取り方だった。


 女が炭窯の裏へ入った。


 大きな石を避けようとした荷車の後輪が、盛り上がった土に乗り上げた。車体が傾き、袋の一つが荷台の端へずれる。


 女は慌(あわ)てた様子で引き棒を下ろした。


「ちょっと、手を貸しておくれよ。荷が落ちちまう!」


 だが男たちは、すぐには近づかなかった。


 先頭の男が上の道へ歩き、曲がり角の向こうを確かめようとする。残る二人は車の左右へ分かれた。


 疾風は身を乗り出しかけ、父に着物の背を引かれた。


「動くな。見つかるぞ」


 先頭の男は道端の小石を蹴(け)った。


 石が下の斜面(しゃめん)を転がっていく。途中で岩に当たり、沢の方へ落ちた。


 誰も動かなかった。


 男はもう一度辺りを見回し、荷車へ戻った。


「そっちは車じゃ通れないよ。下から回るんだ」


 女が先頭の男へ声をかける。


「急いでるんだろ? 手を貸しておくれ」


 男たちは顔を見合わせた。やがて二人が荷車の後ろを押し始め、もう一人が周囲を確かめながら付いていく。


 荷車は少しずつ進み、狭い曲がりへ入った。


 前輪だけが土の盛り上がりを越えたところで、後輪が深く引っ掛かった。


 女が引き棒を動かしても、車は前へ進まない。


「駄目だね。ここからは荷を下ろして運ぶしかないよ」


「冗談じゃねえ。ここまで来て置いていけるか!」


 男の一人が荷台の袋をつかんだ。


「なら、自分たちで運んでおくれ。あたしはここまでの運賃をもらうよ」


「金なら払っただろ!」


「へえ。あの札で?」


 女が振り向いた。


 男の手が一瞬止まる。


「何を言ってやがる」


「昨日の運び屋にも渡したんだって? 同じ店の札を」


 女は袋の結び目に手を置いた。


「今度はちゃんと銭で払ってもらおうか」


「余計なことを知りやがって!」


 男が女の襟(えり)をつかもうとした。


 その手を女が取った。


 引き寄せると同時に肘(ひじ)をひねり、男の体を荷車の横へ崩す。男は膝をついたが、すぐに空いた手で女の腕をつかみ返そうとした。


 女はその手も押さえ、背中へ回した。


 腰から引き出した縄が男の手首に巻かれる。


 先頭の男が短い刃を抜いた。


 女の方へ踏み出そうとしたところで、横の炭袋の陰から矢代が現れた。


 刀の峰(みね)が男の手首を打つ。


 短い刃が地面へ落ちた。


「邪魔するな!」


 男は矢代を押しのけようとしたが、矢代が半歩横へ移ったため、前へつんのめった。


 踏み直そうとした足を払われ、男は土の上に倒れた。矢代が背中を押さえ、もう片方の手を後ろへ回す。


 刀は抜かれたままだったが、刃先は男へ向けられていなかった。


 三人目は二人を助けず、沢へ走った。


「そっちじゃ……!」


 疾風は声を出しかけた。


 父が肩に手を置く。


「見てろ」


 沢へ下りた男は、岩の間を跳ぶように進んだ。土手を回り込み、古い石段へ続く道に出る。


 そこで足が止まった。


 石段の下には役人が二人、道を塞(ふさ)いでいた。


 男は右へ逃げようとしたが、そちらは水の流れる深い溝だ。振り返って元の道へ戻ろうとすると、別の役人が沢の入口から姿を見せた。


 男はしばらく左右を見比べたあと、持っていた袋を地面へ落とした。


 両手が上がる。


 疾風は思わず立ち上がった。


「捕まえた!」


「声がでけえ」


「もういいだろ!」


「いいから、下へ降りるな。まだ片づいてねえ」


 父に言われ、疾風はもう一度道を見た。


 女は最初の男を縛り終えていた。矢代も二人目を起こし、駆けつけた役人に引き渡している。


 落ちていた短い刃は、役人が拾って布に包んだ。


 三人とも生きて捕まった。


 女が荷台の袋を開き、中身を役人に確かめさせていた。源次が昨日運んだ荷に間違いないか、あとで確認するためだろう。


「なあ、親父」


「何だ」


「俺、一人であそこに待ってりゃ捕まえられると思ってた」


「だろうな」


「でも、三人目には逃げられてたかもしれねえ」


 源次は沢の出口を見た。


「お前が教えた道じゃねえか」


「そうだけどさ」


「なら、役に立ったんだろ」


 父はそう言うと、荷車の方へ歩き始めた。


 疾風も後を追った。降りる前にもう一度、沢と石段の位置を確かめる。


 自分が知っている道を、大人たちは違う使い方でつないでいた。


*


 翌朝、源次は役所から四十文を受け取って帰ってきた。


 捕まった三人のうち一人が未払いの荷代を認め、役人の立ち会いで銭を払ったという。しのは本物の銭を数え、ようやく帳面の空いた欄を埋めた。


「取り戻せたんだな!」


「お前の取り分はねえぞ。荷を運んだのは俺だ」


「道を教えたのは俺だろ」


「じゃあ、役人に言ってこい。駄賃が出るかもしれんぞ」


 疾風は本気で役所へ行こうとしたが、母に朝飯の椀(わん)を渡された。


「まず食べな。腹の空いた子が銭の話をしても、足元を見られるよ」


「俺、そんなに腹減ってねえし」


 そう言った途端、腹が鳴った。


 向かいに座ったこよりが笑い出す。


「兄ちゃん、おなかもお金ほしいって!」


「違えよ! 飯がほしいんだよ!」


 七歳になった妹は、最近ますます口が達者になっていた。


 こよりが箸置きの横へ小さな布袋を置いた。片方の紐(ひも)が長く、口を結ぶと少し曲がる。


「兄ちゃん、これ使って」


「何だよ、これ」


「地図を入れるやつ。紙、なくしたら困るでしょ」


 手に取ると、折った紙が一枚入るくらいの大きさだった。縫い目はまだ少し曲がっている。


「こんなに小さくて何が入るんだよ」


「地図って言ったでしょ!」


 こよりは兄の手から袋を取り返しそうになった。


「分かった、分かった。使うって!」


「じゃあ、ちゃんと入れてね」


 疾風は昨日の地図を折り、小さな袋に収めた。


 朝飯を食べ終えると、その袋を持って家を出た。


 村外れでは矢代が待っていた。


 昨日の女は役所で荷の確認をしているらしく、姿が見えない。


「小僧、昨日の道をもう一度見せてもらえますかな」


「まだ何か調べるのか?」


「それがしの地図に、道が足りませんので」


 矢代は地図を広げ、炭焼き道の曲がり角を指した。


 疾風が昨日案内した沢の道は、途中までしか描かれていない。


「ここから下へ行くと、古い石段に出るんだ」


「では、そこを書いてくだされ」


 矢代が筆を渡してきた。


「俺が書いていいのか?」


「その道を知っているのは、小僧でしょう」


 疾風は地図の端を押さえ、沢から石段までの道を書き足した。曲がり角に小さな石の印を入れ、道が細くなる場所には短い線を付ける。


 矢代はそれを確かめた。


「では、一つ聞きましょう。昨日、それがしが最初に提案した場所だけで待っていたら、どうなったと思いますかな」


「見張りの奴が逃げて、仲間に教えに戻ったかもしれねえ」


「そうです。車を止める場所だけでは足りなかった」


 矢代は石段へ続く道を指でなぞった。


「逃げる者の足も考えねばなりません。車が通れぬ場所でも、人は通れますからな」


「じゃあ、昨日あいつらが別の道へ逃げてたら?」


「それがしらが追ったでしょう。役人の待つ場所へ来なければ、逃げられたかもしれませぬ」


「忍びなのに、失敗するのかよ」


「しますとも。それがしは昨日、炭焼き道の入口を一つ間違えましたぞ」


 真顔で言うので、疾風は笑ってしまった。


「俺なら間違えねえのに」


「だから道案内を頼んだのです」


 矢代は地図を受け取り、書き足された線を見直した。


「小僧の道がなければ、三人目を逃がしていたでしょう。礼を言います」


「礼なら、銭でくれよ」


「それがしの財布は軽くてな」


「何だよ、忍びって儲(もう)からねえのか」


「働きによりますな。それに、昨日はお主の働きがよかった」


 矢代は地図をたたみ、疾風へ返した。


「それがしには、道を見る目はあるように思えましたぞ」


「じゃあさ」


 疾風は地図を受け取ったが、すぐには袋へ戻さなかった。


「どうやったら忍びになれるか、教えてくれよ」


「忍びに?」


「昨日みたいに人を捕まえたいんだ。道を知ってるだけじゃ足りねえんだろ」


 矢代は疾風の顔を見た。


「ええ。覚えることは山ほどあります」


「だったら、今から覚えればいいじゃん」


「急ぎますな。まずは、親父殿の仕事を手伝うことです」


「それなら、もうやってるぞ」


「ならば、続けることです。荷を運び、人を見て、道を覚える。今のお主には、それがよい」


 疾風は地図を丸めかけた手を止めた。


「それで忍びになれるのか?」


「なるための入り口くらいには、立てましょう」


 矢代は少しだけ笑った。


「十六になったら、央都の忍務局へ来い。それまでは、親父殿の荷を落とすな」


「十六……あと五年か」


「それまでに、それがしの名を忘れぬよう」


「矢代さんだろ。忘れねえよ」


「それは重畳」


 矢代は小さく手を振り、峠へ続く道を歩いていった。


 疾風はしばらくその背中を見送った。


 家へ戻ると、しのに筆を借りた。


「何を書くんだい?」


「忘れねえようにするだけ」


 疾風は地図を広げた。


 昨日書き足した沢の道と古い石段の横に、まだ少しだけ余白がある。


 そこへ大きく「十六」と書いた。

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